エマとエルネのための医学ノート
王子の治療から数日。冬晴れの薄青い空の下、白亜館の外壁は朝陽を受けて乳白色に輝いていた。城の主塔とは渡り廊下で繋がっているものの、建物は周囲の石畳から一段高く据えられ、まるで独立した神殿のような威厳を放っている。外壁を縁取る浅いレリーフには薬草と巻物が絡み合う意匠が彫られ、中央のアーチ扉の上には《白亜の庇護》の文字が刻まれていた。
玄関ホールは新しい匂いに満ちていた。磨き上げた白木の床板からはかすかな松脂の香りが立ちのぼり、まだ壁に掛けられていない薬草の束が干草の甘い匂いを漂わせている。開け放たれた窓からは氷混じりの風が流れ込み、廊下に吊るしたランタンの炎を揺らした。
ダニエル・シェパードは、玄関脇に置かれた頑丈な旅行鞄を開き、メスや鉗子を一本ずつ革のポケットに差し込み直していた。金属のかすれた響きが、静かなホールに小気味よく反射する。
背後から柔らかな足音。振り向くと、助手のエマが膝ほどまである籠を抱え、額にうっすら汗を浮かべていた。
「先生、この薬草はどの棚に入れればいいでしょう?」
籠には乾燥ラベンダーの紫とセイジの銀緑が混じり合い、ところどころに真紅のヒソップが顔を覗かせている。ダニエルは工具を納めた鞄をぱたんと閉じ、手早く籠の中身を覗いた。
「効能別に仕分けよう。まず消化器系に効くものはこちらの青い棚、呼吸器系は奥の緑の棚に。解熱用、鎮痛用はそれぞれラベルを貼って——」
そこへ、エルネがふわりと現れた。指先に小さな光球をともしており、ランタンの炎よりも澄んだ白光が暗い棚の奥を照らし出す。
「先生、これまでの治療記録はどうしましょう? 綴じたほうが良いですか? このままだと混乱しそうです」
「後で薬草台帳を作ろう。名称、採取地、効能、毒性——四列に整理して記入する。手間だが、一度整えれば後が楽になる」
ダニエルは二人を見回した。薬草の匂いと新しい木材の香り、若い助手たちの意欲。その光景は、古い病院の無機質な白壁よりも遥かに暖かかった。だが、口頭の指示や行き当たりばったりの教えでは、彼女たちの知的渇きを満たせないだろう。
「少し休憩を取ろう。中庭に面した部屋で話したいことがある」
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白亜館の中庭に面した小さな部屋で、三人は簡単な昼食を取りながら会話を続けた。
「二人の熱意と才能には本当に感心している」ダニエルは真摯に語りかけた。「だが、これからもっと多くのことを学ぶためには、より体系的なアプローチが必要だと思うんだ」
「体系的なアプローチ?」エマが尋ねた。
「そう」ダニエルはうなずいた。「私はこれから、医学の基礎知識をまとめたノートを作成するつもりだ。解剖学、生理学、病理学の基本から始めて、治療法、薬学、そして外科処置まで」
エルネの目が輝いた。「素晴らしいです!私たちも読ませていただけますか?」
「読むだけではなく」ダニエルは微笑んだ。「二人にはノートを筆写してもらいたい。写しながら学ぶことで、知識がより深く定着するからね」
「筆写...」エマは少し驚いた様子だった。
「大変そうに聞こえるかもしれないが、これは古来より医学を学ぶ方法なんだ」ダニエルは説明した。「私も医学生の時代に、教科書を何度も筆写した。特に重要な部分は」
「私はよろこんで」エルネは決意を込めて言った。「魔法の学びでも、重要な呪文は何度も書き写して覚えますから」
「私も!」エマも負けじと宣言した。「父の仕立て屋でも、型紙の写し取りは基本でしたから」
ダニエルは満足げにうなずいた。「素晴らしい。では、今日から始めよう。まずは基本中の基本、人体の構造からだ」
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その日の夕方から、ダニエルは精力的に医学ノートの執筆を始めた。彼は王立図書館から借りてきたこの世界の医学書も参考にしながら、なるべくこの世界の人々が理解できる言葉で説明するよう心がけた。
彼が最初に記したのは、「解剖学入門」の章だった。
「人体は複数の系統から成り立っている。骨格系は体を支え、筋肉系は動きを生み出す。循環系は血液を全身に運び、呼吸系は空気から生命に必要な要素を取り込む。消化系は食物から栄養を抽出し、神経系は全体を調整する...」
シンプルながらも正確な説明と、自ら描いた図解を加えていく。特に血液循環の章には力を入れた。
「血液は心臓からポンプのように送り出され、動脈を通って全身に酸素と栄養を運ぶ。動脈の血液は鮮やかな赤色で、切断されると拍動とともに噴き出すように出血する。一方、静脈は体から心臓に戻る血管で、血液はより暗い赤色をしており、切断されると持続的にゆっくりと流れ出る。」
「注記1:止血の際は、動脈からの出血の場合、傷口より心臓に近い部位を強く圧迫することが効果的である。」
「注記2:止血は15分以上続けると、末端に血液が届かないせいで肉が腐る恐れがあるので、15分ごとに止血帯を緩めて血流を促し、しばらくしたらまた止血すること」
彼はこの部分に特に注意を払った。出血への対応は、しばしば生死を分ける重要な知識だからだ。
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翌朝、エマとエルネはそれぞれ美しい羊皮紙のノートを持参し、ダニエルの書いた最初の章を熱心に筆写し始めた。
「先生」エルネは血液循環の部分を写しながら質問した。「この『心臓に近い部位を圧迫する』という方法ですが、私の治癒魔法と組み合わせることはできませんか?」
ダニエルは興味を示した。「どういう意味だい?」
「私の魔法は大きな傷には十分な効果がないのですが、出血が少なければ...」彼女は考えを巡らせながら言った。「魔法の効果がより集中するかもしれません」
「それは非常に興味深い仮説だ」ダニエルは顎をさすった。「実際に試してみる価値がある」
「でも、どうやって?」エマが心配そうに尋ねた。「大きな傷を実験のために作るわけにはいきませんよね」
「もちろん」ダニエルは同意した。「だが、残念ながらこの職業では、そういった傷を持つ患者が自然と現れるものだ」
彼の言葉が的中するかのように、その日の午後、緊急の患者が運び込まれた。城下町の鍛冶屋が、熱した金属を扱っている際に誤って深い裂傷を負ったのだ。
「右前腕の深い切り傷」ダニエルは素早く状態を評価した。「幸い主要な動脈には達していないようだが、かなりの出血がある」
彼はエルネに目配せした。「ここで君の仮説を試してみるチャンスだ」
エルネは緊張しながらも頷いた。
ダニエルはまず通常の処置を始めた。傷口を生理食塩水で洗浄し、出血の状態を確認する。
「まず、私が圧迫止血を行う」彼は説明した。「前腕の上部、肘の辺りを圧迫することで血流を減少させる」
彼は素早く布製の止血帯を前腕の上部に巻き、適度な圧力をかけた。出血は劇的に減少した。
「エルネ、今がチャンスだ。治癒魔法を試してみてくれ」
エルネは深呼吸し、手を傷口の上にかざした。青白い光が彼女の指先から漏れ出し、傷口に集中していく。通常なら表面だけしか閉じないはずの傷が、今回はより深い部分まで癒え始めるのが見えた。
「驚くべきことに...効いています!」エルネは目を見開いた。「でも、完全には閉じません」
「焦らないで」ダニエルは冷静に言った。「傷を一度に完全に閉じる必要はない。まず深部の血管と組織から始めよう」
エルネの魔法の後、ダニエルは止血帯を少し緩め、状態を確認した。深部からの出血は大幅に減少していた。
「もう一度、魔法を試してみて」彼は促した。
エルネは再度詠唱し、今度は中間層の組織に集中した。三度目の施術で、ようやく傷口の表面が完全に閉じた。
「信じられない...」鍛冶屋は自分の腕を見て驚いた。「痛みもほとんどない!」
「これは革命的だ」ダニエルは興奮を抑えられなかった。「エルネ、君の仮説は正しかった。血流を制限することで、治癒魔法の効果を最大化できるんだ」
エマも目を輝かせていた。「先生、これを医学ノートに追加すべきです!」
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その夜、ダニエルは熱心に新しい章を書き足していた。「魔法と医学の統合:圧迫止血と治癒魔法の併用」という見出しのもと、今日の発見を詳細に記録する。
「エルネ・ド・ヴァレンティの仮説により、以下の重要な発見がなされた:治癒魔法は、血流が制限された状態の傷に対してより効果的に作用する。これは、魔法エネルギーが希釈されずに傷部位に集中できるためと推測される。」
「この発見に基づき、以下の治療プロトコルを確立する:」
「1. 圧迫止血または止血帯の適用」
「2. 出血の制御を確認」
「3. 治癒魔法の適用(第一段階)」
「4. 傷の再評価」
「5. 必要に応じて魔法の再適用(第二段階)」
「6. 以下、傷の治り具合に応じて、15分以内で治癒魔法を繰り返す」
「7. 15分を過ぎても傷が治らないときは、いったん止血帯を緩めて末端に血液を行き渡らせてから 3以降を繰り返す」
エルネとエマも彼の隣で、この新しい章を自分たちのノートに書き写していた。
「これが白亜館の真の姿なのかもしれない」ダニエルは二人に話しかけた。「現代医学の知識と、この世界の魔法を融合させた新しい治療法の研究と実践の場」
エルネは誇らしげに頷いた。「先生の医学知識がなければ、私の魔法の可能性に気づくことはなかったでしょう」
「そして、エルネの魔法がなければ、私たちの治療法にも限界があった」ダニエルは付け加えた。「これは相互学習なんだ」
「明日、この方法を他の治療師や魔術師にも教えましょう」エマが提案した。「この発見は広く共有されるべきです」
ダニエルはうなずいた。「そのとおりだ。白亜館は知識を独占する場所ではなく、広める場所であるべきだ」
彼らは少し疲れていたが、新たな発見の興奮で目は輝いていた。医学ノートは今後も成長し続け、いつか「白亜館診療録」として知られるようになるだろう。
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翌日、白亜館の治療室の壁に、『重傷治療の手順』を書いた新しい図解が掲げられていた。
「この方法で、私たちの治療成功率は倍増しました」エルネは、見学に来た治療師たちに胸を張って説明した。
ダニエルは少し離れた場所からその様子を見て微笑んだ。「医学と魔法の統合...これが白亜館の本当の姿なのかもしれない」
彼はノートに次の記述を加えた。
「教育は最も重要な医療行為である。知識が次世代に継承されてこそ、治療の技術は進化し、より多くの命が救われるのだから」