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魔導助手・エルネの登場

王城での外科処置講習が始まって一週間が経った頃、ダニエルは自分の診療スペースが手狭になってきたことを実感していた。窓から差し込む柔らかな朝日が、狭い部屋の木製の床にまだら模様を描き、壁に並んだ薬瓶や器具が朝の光を受けて鈍く輝いていた。ソレイル村とヴェンティアでの功績が伝わるにつれ、様々な症状を抱えた患者たちが城下町から、時には遠方からもやってくるようになっていた。城下町の石畳の道を抜け、馬車や徒歩でやってくる彼らの足音が、診療所の外で絶えず響き合っていた。


「先生、今日の午後の予約はあと三人です」エマは手帳を手に持つ姿で報告した。彼女の声は穏やかで、診療所の喧騒の中でも落ち着きを保っていた。エマは既に立派な医療助手として成長し、患者の受付から医療器具の管理、さらには簡単な処置まで任せられるようになっていた。彼女の動きは流れるようで、手際よく棚に並べられたガーゼや消毒液を取り出す姿は、見ていて安心感を与えた。


ダニエルは頷きながら、目の前の少年の傷を縫い終えた。少年の膝にできた切り傷は浅く、血が滲む程度だったが、丁寧に洗浄し、細い糸で数針縫った。「ありがとう、エマ。この調子だと、そろそろもう一人助手が必要かもしれないね」と彼は言いながら、針と糸を脇に置いた。部屋には消毒液の鋭い匂いと、少年が緊張から解き放たれた安堵の吐息が漂っていた。


「実は...」エマは少し遠慮がちに、目を伏せながら言った。「ラーン様がお連れになりたい方がいるそうです。今、外でお待ちです」

「そうか、では次の患者の前に会おう」ダニエルは立ち上がり、白衣の袖を軽く整えた。


少年の処置を終え、ダニエルが診察室から出ると、入り口近くの待合スペースにラーンと若い女性が立っていた。外からは馬車の車輪が石畳を叩く音や、遠くで鳴く鳥の声が聞こえ、春の風が窓からそっと流れ込んでいた。女性は二十歳前後で、しっかりとした佇まいと知的な雰囲気を持ち、質素ながらも上質な服を身につけていた。彼女の緑がかった瞳は穏やかで、肩に落ちる栗色の髪が風に軽く揺れていた。


「シェパード医師」ラーンが二人を紹介した。彼の声は低く、威厳に満ちていた。「こちらはエルネ・ド・ヴァレンティ。辺境伯ヴァレンティの末娘です」

エルネは優雅にお辞儀をした。彼女の動きは洗練されていて、貴族らしい気品が感じられた。「シェパード先生、お目にかかれて光栄です」と彼女は静かに言った。声は澄んでいて、どこか温かみがあった。


「辺境伯の...」ダニエルは少し驚いた。貴族の子女が医療に関わることは、この世界でも珍しいのではないか。彼の頭には、辺境伯領の風景が浮かんだ。遠く緑豊かな丘陵と、川沿いに広がる小さな村々。そこから来た彼女が、なぜここにいるのか。


「エルネ嬢は初級の治癒魔法の才能を持っています」ラーンが説明を続けた。彼は腕を組み、壁に寄りかかりながら話を進めた。「通常、彼女のような身分の方は宮廷魔術師の道に進みますが、彼女は実践的な治療の道を志しているのです」

エルネは真摯な表情で言った。「小さい頃から、人を癒す力を活かしたいと思っていました。しかし、宮廷魔術には興味がなく...」彼女の言葉には、幼い頃の記憶が込められているようだった。怪我をした村の子供たちを、そっと魔法で癒した日々を思い出したのだろう。


「彼女の父上は、あなたの評判を聞き、娘を弟子入りさせたいと願っておられるのです」ラーンは付け加えた。外で馬が一声鳴き、蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。


ダニエルはエルネをじっと見た。彼女の目には決意と知的好奇心が輝いている。「治癒魔法とはどのようなものなのですか?」彼は興味を抑えきれず尋ねた。

エルネは少し緊張した様子で答えた。「小さな傷を閉じたり、痛みを和らげたりすることができます。しかし、大きな怪我や病には効果が限られています」彼女の声には、自分の力への信頼と限界への自覚が混じっていた。


「興味深い」ダニエルは顎をさすった。窓の外では、雲がゆっくりと流れ、城下町の屋根の上に影を落としていた。「実際に見せていただけますか?」

エルネはうなずき、自分の手のひらに小さなナイフで浅く切り傷をつけた。血が一筋、細く流れ落ちる。彼女はもう片方の手をその上にかざすと、柔らかな青白い光が指先から漏れ出した。光はまるで春の泉のように穏やかで、部屋に静かな神秘を漂わせた。彼女が静かに詠唱を終えると、切り傷は跡形もなく消えていた。


「驚くべき能力です」ダニエルは感嘆した。光が消えた後、彼女の手のひらには傷一つ残っていなかった。「この能力があれば、私たちの治療の幅が広がるでしょう」

「しかし、限界もあります」エルネは謙虚に言った。「深い傷や大量の出血には対応できません。また、一度に使える回数も限られています」彼女は少し肩を落とし、自分の力の限界を正直に明かした。


ダニエルは考えた。治癒魔法と現代医学の知識を組み合わせれば、より効果的な治療が可能になるかもしれない。彼の頭には、消毒液と魔法の光が交錯する未来が浮かんだ。「エルネさん、喜んであなたを受け入れます」彼は決断した。「エマとは違った形で、あなたの能力を活かせるでしょう」

エルネの顔が明るくなった。「ありがとうございます!精一杯頑張ります」彼女の笑顔は、春の日差しのように温かく、部屋全体を明るくした。


エルネが加わったことで、診療所の機能は大きく向上した。エマが医療器具や薬材の調達・管理を主に担当する一方、エルネは直接的な治療補助と治癒魔法の適用を担当することになった。診療所の中は、薬草の香りと消毒液の匂いが混ざり合い、窓から見える庭の花々が風に揺れていた。


初日、ダニエルはエルネに診療所の基本的なルールと処置の流れを説明した。部屋の隅には木製の机があり、その上には薬瓶や包帯が整然と並べられていた。「まず最も重要なのは手洗いです」彼は繰り返し強調した。水桶に注がれた冷たい水が、手を洗うたびに小さな波紋を広げた。「魔法を使う前でも、必ず手を洗ってください」


エルネは熱心にメモを取りながら頷いた。彼女の小さな手帳には、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。「魔法は手から発するので、それは理にかなっていますね」

「そして、私たちは常に患者の状態を注意深く観察します。魔法だけに頼らず、身体全体を診ることが大切です」ダニエルは窓の外を見ながら言った。遠くの丘に夕日が沈み、空が茜色に染まりつつあった。


午後の診療で、最初の共同治療の機会が訪れた。木こりの男性が、斧で誤って足に深い傷を負ったのだ。男の足からは血が滴り落ち、診療所の床に赤い染みが広がっていた。ダニエルは素早く出血を抑え、傷を生理食塩水で洗浄した。水が傷口に触れるたび、男は小さくうめいた。「通常なら縫合が必要な傷ですが...エルネさん、ここであなたの魔法を試してみましょうか」


エルネは少し緊張した面持ちで前に出た。彼女の額には汗が滲み、手がわずかに震えていた。「はい。ただ、これだけの深さですと、完全に閉じることは難しいかもしれません」

「部分的にでも構いません。私たちが協力して最善の結果を目指しましょう」ダニエルは穏やかに励ました。


エルネは手を傷口の上にかざし、静かに詠唱を始めた。青白い光が再び現れ、傷の表層部分が徐々に閉じていく様子が見えた。光はまるで水面を滑る波のように柔らかく、傷の周囲の血が乾き始めていた。しかし、最も深い部分はまだ開いたままだった。


「これが限界です...」彼女は少し息を切らしながら言った。魔法の光が消え、彼女の顔に疲労の色が浮かんだ。「深部は閉じられません」

「素晴らしい仕事です」ダニエルは彼女を安心させた。「残りは私が縫合します。あなたの魔法のおかげで、はるかに少ない縫合で済みますし、治癒も早まるでしょう」彼は針と糸を手に取り、傷を丁寧に縫い始めた。


エマは目を輝かせながら見ていた。「魔法と医学の組み合わせですね!」彼女の声には興奮が溢れていた。窓の外では、夕暮れの風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響いていた。

「そうだね」ダニエルは浅くなった傷を数針で縫いながら答えた。「お互いの長所を活かすことで、より良い治療ができる」


治療後、木こりは感謝の言葉を繰り返した。「痛みがほとんどないです。これなら明日には仕事に戻れるかも...」彼の顔には安堵と驚きが混じっていた。

「いえ、少なくとも三日は安静にしてください」ダニエルは厳しく言った。「魔法があっても、体の回復には時間が必要です」彼は木こりに包帯を巻き終え、立ち上がった。


木こりが去った後、ダニエルはエルネとエマを集めた。部屋には夕陽の赤い光が差し込み、三人の影が長く床に伸びていた。「今日の症例から学ぶことは多いね。エルネの魔法は素晴らしい治癒力を持っていますが、限界もある。それを補うのが私たちの医学的知識と技術なんだ」

「逆に、先生の技術を私の魔法が補うこともできますね」エルネは理解を示した。彼女の瞳には、夕陽が反射して小さな光を宿していた。


「その通り。これからは三人で協力して、それぞれの強みを活かしていこう」ダニエルは窓の外を見ながら言った。夜の帳が下り、星が一つ、また一つと輝き始めていた。

数日が過ぎ、エルネは診療所の日常にすっかり馴染んでいた。彼女の治癒魔法は小さな怪我や術後の痛み止めに非常に効果的で、患者たちにも喜ばれていた。診療所の外では、春の花が咲き乱れ、訪れる患者たちに穏やかな気持ちを与えていた。


ある朝、三人が診療所の準備をしていると、ラーンが息せき切って駆け込んできた。外の石畳に彼の足音が響き、ドアが勢いよく開いた。「シェパード医師、緊急事態です!王子様が馬から落ち、重傷を負われました!」彼の額には汗が光り、声は切迫していた。


彼らは急いで必要な器具を集め、王宮の一角へと案内された。王宮の廊下は大理石で舗装され、壁には色鮮やかなタペストリーが飾られていた。若き王子クラウスは猟に出かけた際に落馬し、右腕を変な角度に曲げたまま、苦痛に顔を歪めていた。彼の金髪は汗で額に張り付き、顔は青ざめていた。

ダニエルは素早く状況を把握した。「肘の脱臼と思われます。それに...」彼は慎重に触診して、「前腕の骨にもヒビが入っているかもしれません」王子の腕は不自然に膨らみ、触れるたびに小さなうめき声が漏れた。


そばにいた王女が心配そうに見つめる中、ダニエルはエルネを呼んだ。王女のドレスの裾が床に広がり、彼女の手には祈るように組まれた指があった。「まず痛みを和らげてもらえますか?」

エルネは頷き、王子の腕に優しく手を当てた。彼女の魔法の光が放たれると、部屋に静かな青白い輝きが広がり、王子の表情がわずかに和らいだ。光はまるで月光のように穏やかで、緊張した空気を和らげた。


「ありがとう」ダニエルは言った。「これから脱臼を整復します。エマ、固定用の副木を準備してくれますか?」

エマは既に必要な物品を揃えていた。「はい、先生。包帯と副木、すべて準備できています」彼女の手には、丁寧に折り畳まれた包帯と木製の副木が握られていた。


ダニエルは王子に優しく説明した。「これから腕を正しい位置に戻します。少し痛みがありますが、一瞬です」彼の声は落ち着いていて、王子に安心感を与えた。

王子は勇敢に頷いた。ダニエルは熟練の技術で素早く脱臼を整復した。「カチッ」という音とともに、関節が元の位置に収まった。王子は一瞬顔をしかめたが、すぐに楽になったようだった。


「そのまま動かさないでください」彼は指示し、エマから受け取った副木で腕をしっかりと固定した。「骨のヒビも疑われますので、しばらくは安静に」包帯が巻かれる音が、静かな部屋に響いた。

王女は安堵の表情を浮かべた。「ありがとう、シェパード医師。噂通りの腕前ですね」彼女の声には感謝と尊敬が込められていた。


エルネが再び治癒魔法を使い、残っている痛みを和らげた。「これで夜もお休みになれるでしょう」彼女の光が消えると、王子の顔に穏やかな色が戻った。

王は感謝の意を表し、診療所への更なる支援を約束した。帰り道、三人は今日の出来事について話し合った。夕暮れの空には薄い雲が広がり、遠くの森から鳥の声が聞こえてきた。


「チームワークが素晴らしかったです」ダニエルは二人を誉めた。「エルネの痛み止めの魔法、エマの素早い準備、そしてそれぞれの役割の理解が、今日の成功を生んだんだ」

エマは誇らしげに胸を張った。「私たちは良いチームになりましたね!」彼女の笑顔は、夕陽に照らされて輝いていた。


エルネはより思慮深く言った。「私の魔法だけでは対処できなかった問題も、医学と組み合わせることで解決できました。魔法と科学の融合...これこそが白亜館の在り方なのかもしれませんね」

ダニエルは驚いた。「白亜館?もうそう呼んでいるの?」

「はい」エルネが答えた。「建設はほぼ完了しています。真っ白な美しい建物です。来週には引っ越せるでしょう」彼女の言葉に、ダニエルは新しい診療所の姿を想像した。白い石壁、大きな窓、そして緑に囲まれた庭。


ダニエルは感慨深く空を見上げた。「白亜館...」彼が何気なく提案した名前が、今や現実となりつつあった。この異世界での彼の旅路は、まだ始まったばかりだ。星々が輝き始め、夜風が彼らの頬を優しく撫でた。

「先生」エマが尋ねた。「白亜館では、どんな医療を目指しますか?」彼女の声には好奇心が溢れていた。

「総合的なものにしたい」ダニエルは真剣に答えた。「体の病だけでなく、心の病も。緊急の怪我から慢性疾患まで。そして何より、次世代の治療師を育てる場所にしたいんだ」彼の視線は遠く、未来を見据えていた。


「私たちのような?」エルネが小さな声で尋ねた。彼女の瞳には、希望と不安が混じっていた。

「ああ。君たちのような熱意と才能を持った人々を育て、いつか...私がいなくなっても、この世界の医療が進歩し続けるように」ダニエルの言葉は重く、未来への決意に満ちていた。

三人は沈黙の中を歩き続けた。石畳に響く足音と、遠くの川のせせらぎが彼らを包み込んだ。各々が、これから築いていく医療の未来について思いを巡らせていた。夜空には無数の星が輝き、彼らの道を照らし続けていた。

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