北方の港にて
王城での診療所は、使われていなかった東翼の一室に設けられた。南向きの大きな窓から陽光が差し込む明るい空間で、ダニエルはかつての執務室を思い出した。もちろん、電子カルテもモニターも医療機器もない。だが、城の職人たちが作った木製の診察台と棚、いくつかの椅子とテーブルは、基本的な診療には十分だった。
「これで良いでしょうか、シェパード先生?」エマが部屋の中央に立ち、不安げに尋ねた。
彼女は今朝から正式にダニエルの助手となり、白い布で作られた簡素な制服を着ていた。
「素晴らしいよ、エマ」ダニエルは満足げに答えた。「あとは必要な薬草と器具をそろえる必要があるね」
ソレイル村での経験から、ダニエルはこの世界の薬草について少しずつ学んでいた。現代薬のほとんどは存在しないが、消毒やいくつかの症状緩和に有効な植物がいくつか見つかっていた。
「先生」ラーンが部屋に入ってきた。「陛下がお呼びです」
---
アストラル王国の王ロデリック三世は、想像していたよりも若く活力に満ちた男性だった。四十代半ばといったところか。整えられた髭と鋭い眼差しが特徴的だ。
「異界の医師、ようこそ」王は温かな声でダニエルを迎えた。「ソレイル村での活躍、感謝する」
ダニエルは慣れない宮廷作法に戸惑いながらも、丁寧に頭を下げた。
「お役に立てて光栄です、陛下」
「しかし、我が国の試練はまだ終わっていない」王の表情が引き締まった。「北方の港町ヴェンティアからも、同様の病が報告されている。さらに規模が大きく、すでに数十名の死者がでていると聞く」
ダニエルは緊張した面持ちでうなずいた。人口密集地での感染症の流行は、より深刻な事態を招く可能性がある。
「ヴェンティアは我が国最大の貿易港だ」王は続けた。「明日にでも、そこへ向かってほしい。王国騎士団の護衛がつく」
「かしこまりました。必要な準備をします」
「そして」王は少し表情を和らげた。「あなたの治療所...何と呼ぶべきか」
ダニエルは少し考えた。「私の出身の病院は、白い建物だったので...『白亜館』はいかがでしょうか」
「白亜館...良い響きだ」王はうなずいた。「我が国の医療に新たな光をもたらすことを願っている」
---
ダニエルが診療所に戻ると、エマと一緒に今後のために必要な物品リストを作成した。
「まず隔離室が必要です」ダニエルは説明した。「感染症の患者を他の人から離して治療するための場所です」
「隔離...それはなぜですか?」エマは首をかしげた。
ダニエルは椅子に座り、じっくりと説明を始めた。この基礎知識の伝達こそが、今後の彼の重要な役割だと感じていた。
「エマ、病気の中には人から人へと伝わるものがあります。私たちはそれを『感染症』と呼んでいます。感染症は目に見えない小さな生物、『細菌』や『ウイルス』によって引き起こされます」
彼はテーブルの上に砂を少し撒き、指で何かを表現しようとした。
「これらの小さな生物は、咳やくしゃみ、あるいは汚染された水や食物を通じて広がります。病気の人の近くにいると、健康な人もその病気をもらってしまうことがあるのです」
エマの目が大きく見開かれた。「それで、ソレイル村で井戸の水を飲まないようにと...」
「その通り」ダニエルはうなずいた。「隔離とは、病気の人と健康な人を物理的に離すことで、病気の広がりを防ぐ方法なんだ」
「でも、病人を見捨てるようなことでは...」
「いいえ、隔離は見捨てることではありません」ダニエルは厳かに言った。「むしろ、患者を適切に治療しながら、他の人々を守るための方法なのです。実際、隔離された患者には、より集中的なケアを提供できることもあります」
エマはじっと聞いていた。
「そして、もう一つ重要なのが手洗いです」ダニエルは自分の手を見せた。「私たちの手には目に見えない細菌がたくさん付いています。特に病人に触れた後、排泄物を処理した後、食事の前などには、必ず手を洗う必要があります」
「どうやって洗えばいいのですか?水だけでは...」
「水だけでも効果はありますが、理想的には石鹸や灰を使います」ダニエルは説明した。「そして、手のすべての部分をしっかりとこすること。指の間、爪の周り、手首まで」
彼は実際に手洗いの動作を示し、エマに繰り返させた。
「これだけで違いが出るのですか?」エマは半信半疑だった。
「驚くほどの違いがあります」ダニエルは真剣な表情で答えた。「私の世界では、手洗いの導入だけで、産婦の死亡率が劇的に減少した歴史があります。ゼンメルワイスという医師が発見したことですが、彼の時代は誰も信じませんでした」
「誰も信じなかったのに、なぜその方法が広まったのですか?」
「結果が証明したからです」ダニエルは静かに言った。「手を洗った医師が立ち会った出産では、母親の死亡率が大幅に減少したのです。事実は最終的に受け入れられます。時間がかかっても」
エマはしばらく黙って考え込んでいたが、突然決意に満ちた表情になった。
「私、ヴェンティアにも同行させてください!」
ダニエルは彼女の熱意に驚いた。「危険かもしれないよ」
「だからこそです。ソレイル村で学んだことを、もっと多くの人のために活かしたいんです」
彼女の真剣な眼差しに、ダニエルは微笑みを返した。
「わかった。明日の準備をしよう」
---
ヴェンティアへの旅は、ソレイル村よりもずっと長かった。海岸線に沿って北へ延びる街道を、馬車で丸二日かかる。護衛の騎士たちが前後を固め、小さな隊列が北へと進んでいった。
道中、ダニエルはエマに基本的な医学知識を教え続けた。人体の仕組み、主要な臓器の位置と役割、血液循環、そして特に感染症の予防策について。エマは驚くほど吸収が早く、時には鋭い質問を投げかけてきた。
「なぜ同じ病気でも、ある人は重症になり、ある人はそうならないのですか?」
「それは人の『抵抗力』によるところが大きい」ダニエルは説明した。「体の強さ、年齢、普段の健康状態、栄養状態など、様々な要因が関係しているんだ」
馬車の窓から見える景色が徐々に変わっていった。内陸の森林地帯から、徐々に開けた丘陵地へ。そして三日目の朝、彼らは初めて海を見た。
アストラル王国最大の港町ヴェンティアは、青く輝く大海に面して広がっていた。いくつもの船が停泊し、市場や倉庫が立ち並ぶ活気ある街。しかし、その活気は今、何かに蝕まれているようだった。
街の入り口では、疲れた表情の衛兵が彼らを迎えた。
「王城からの医師でしょうか。市長があなた方を待っています」
---
ヴェンティアの状況は、ソレイル村より遥かに深刻だった。市長の話によれば、二週間前から病が広がり始め、今や数百人が発症し、死者は五十人を超えていた。
「患者はどこに収容されていますか?」ダニエルはすぐに尋ねた。
「あちこちです...」市長は肩を落とした。「多くは自宅で寝ています。重症者は市庁舎の一階に...」
ダニエルの表情が厳しくなった。「すぐに隔離施設を設ける必要があります。使われていない大きな建物はありませんか?」
「港の倉庫が数棟空いています。貿易が止まっているので...」
「完璧です。すぐに準備を始めましょう」
次の数時間、ダニエルは騎士たちと市の衛兵を動員し、臨時病院の設営を指示した。大きな倉庫内をいくつかのセクションに分け、軽症者、中等症者、重症者、回復期の患者、そして医療スタッフの区域を設けた。
エマは驚くべき手際の良さで、地元の女性たちを組織化し、清掃と必要な物資の準備を進めていた。
「シェパード先生」彼女が駆け寄ってきた。「水を沸かす大鍋と、布はたくさん集まりました。でも、患者を運ぶ人手が...」
「騎士たちと衛兵に協力してもらうよう頼んでみよう」ダニエルは答えた。「そして最も重要なのは、彼らにも手洗いを徹底させることだ」
---
夕方までに、臨時病院の基本的な準備は整った。市の中心部に残っていた重症患者たちが、慎重に運び込まれ始めた。
ダニエルは倉庫の入り口に簡易の手洗い場を設置するよう指示した。大きな樽に清潔な水を満たし、石鹸(この世界ではやや高価な贅沢品)と灰を用意。入る者も出る者も必ず手を洗うよう、厳しく指導した。
「手洗いの重要性を理解してください」彼は集まった助手たちに語りかけた。「私たちの手は、目に見えない敵を運ぶ乗り物になりうるのです。患者に触れる前、触れた後、別の患者に移る前、食事の前、トイレの後...すべての機会に手を洗うことが、皆さん自身を守り、そして患者を守ります」
彼は実際にやって見せた。手のひら、指の間、爪の下、手首まで、丁寧にこすり洗う様子を。
「時間がないとき、面倒に感じるときもあるでしょう。しかし、この単純な行為が命を救うのです。手を清潔に保つことは、薬を与えるのと同じくらい重要な治療行為なのです」
衛兵の一人が不満そうに呟いた。「そんな迷信みたいなことで...」
ダニエルは彼に向き直った。「迷信ではありません。科学的事実です。あなたが信じなくても、病気の原因となる小さな生物は手に付いています。それを洗い流さなければ、知らず知らずのうちに病気を広げてしまうのです」
エマが補足した。「ソレイル村では、手洗いを始めてから新しい患者が激減しました。私はその変化を自分の目で見ました」
助手たちは、半信半疑ながらも従うことを約束した。
---
夜になり、臨時病院には百人以上の患者が収容されていた。ダニエルは最も重症な患者たちの状態を確認し、エマに経口補水液の作り方を他の助手たちに教えるよう頼んだ。
「シェパード先生」市長が近づいてきた。「あなたの迅速な対応に感謝します。しかし私が理解できないのは、なぜこの病が急に広がったのかということです」
ダニエルは水源の調査結果を確認していた。「港町の水はどこから来ていますか?」
「丘の上の貯水池からです。雨水を集め、木製の水路で街に引いています」
「その水路は最近修理されたりしましたか?」
市長は驚いた顔をした。「はい、先月末に一部が壊れ、急いで修理しました。しかし、それがどうして...」
「水の流れが変わると、普段は沈殿している汚染物質が巻き上げられることがあります」ダニエルは説明した。「また、修理作業中に汚染が起きた可能性もあります」
彼らは翌朝、貯水池と水路を調査することを決めた。
---
その夜、ダニエルはほとんど眠れなかった。患者の容態が刻々と変化するため、数時間おきに巡回が必要だった。エマも同様に奮闘し、他の助手たちを指導しながら、患者のケアにあたっていた。
明け方近く、ようやく一息つけるタイミングで、ダニエルは倉庫の外に出て深呼吸をした。満天の星が、地球のそれとは少し違う配置で輝いている。
「先生」エマが後ろから声をかけた。「少しだけ休んでください。私が見ておきます」
ダニエルは疲れた微笑みを浮かべた。「ありがとう、エマ。だが、まず朝の巡回を終えてからにしよう」
彼らが倉庫に戻ると、興味深い変化に気がついた。昨夜からの厳格な手洗いと隔離体制のおかげか、新たな重症者の発生ペースが緩やかになっていたのだ。
「これは良い兆候ですね」エマが希望を込めて言った。
「そうだね」ダニエルは頷いた。「しかし、感染の連鎖を完全に断ち切るには、まだ時間がかかるだろう」
---
朝になり、ダニエルは市長と共に貯水池を調査した。そこで彼らは重要な発見をした。水路の修理場所のすぐ近くに、最近埋められた穴があった。
「これは何ですか?」ダニエルが尋ねると、市長は顔を曇らせた。
「先月、疫病で死んだ牛を埋めた場所です...」
ダニエルはため息をついた。「問題はこれです。死んだ動物の埋葬地から病原体が水源に漏れ出しています」
彼らは即座に埋葬地から水路を遠ざける工事を開始し、同時に、街中のすべての水を沸騰させてから使うよう厳命した。
---
次の三日間、ダニエルとエマは休む暇もなく働き続けた。彼らの指示に従った手洗いの徹底、隔離の継続、そして経口補水液の投与により、徐々に状況は改善していった。
四日目の朝、新たな患者はわずか五人となり、死者も前日はゼロだった。
「シェパード先生、奇跡です」市長は感激した面持ちで言った。「あなた方が来てくれなければ、街の半分は失われていたかもしれません」
ダニエルは謙虚に頭を下げた。「これはみなさんの協力があってこそです。特に手洗いと隔離の重要性を理解し、実践してくれたおかげです」
「その...手洗いについてですが」市長が少し恥ずかしそうに言った。「私も最初は半信半疑でした。しかし、あなたの言葉通りにしたところ、私自身も家族も病にかかりませんでした」
「それが何よりの証拠です」ダニエルは微笑んだ。「今後も続けてください。それと、水源の管理も重要です。動物の死骸の埋葬場所は水源から遠ざけ、定期的に水質を確認することをお勧めします」
市長は頷いた。「その知恵をもっと多くの人に伝えるべきです。ヴェンティアの学者たちに、あなたの教えを記録してもらいましょう」
---
回復過程にある患者たちの様子を見て回りながら、ダニエルは次第に心に湧き上がる思いを感じていた。この世界では、彼の基本的な医学知識でさえ、多くの命を救うことができる。しかし、口頭で伝えるだけでは限界がある。
「エマ」彼は決意を込めて言った。「医学書を書く必要があるね」
エマは目を輝かせた。「先生の知識を書き残すのですね!」
「ああ。基本的な解剖学、生理学、そして特に感染症の予防と治療について。この世界の言葉で、誰にでも理解できるように」
彼らが会話を続けていると、突然、倉庫の入り口で騒ぎが起きた。
「医師を!急いで医師を!」
走り寄ると、港から急いでやってきた男が血だらけの若者を抱えていた。
「造船所で事故が...くぎが深く刺さって...」
ダニエルはすぐに処置エリアに若者を運ばせた。大きな釘が若者の太腿に深く刺さっており、かなりの出血があった。
「エマ、火酒と絹糸を持ってきて」彼は冷静に指示した。「そして清潔な布も」
彼が釘を抜こうとすると、若者は痛みで叫んだ。
「麻酔が...」ダニエルは言いかけて止まった。この世界に現代の麻酔薬はない。「強い酒はあるか?」
エマは急いで港町名物の強い蒸留酒を持ってきた。若者に飲ませ、痛みを少しでも和らげる。
ダニエルは釘を抜き、傷口からの出血を圧迫した。幸い、大きな血管は損傷していないようだった。彼は火酒で傷口を洗浄し、絹糸で丁寧に縫合した。
「先生、すごい...」エマが感嘆の声を上げた。「その縫い方、まるで仕立て屋のようです」
「医学部での基本的なトレーニングだよ」ダニエルは包帯を巻きながら答えた。「外科的処置も私たちの訓練に含まれるんだ」
---
ヴェンティアでの任務は一週間続き、その間に感染症の流行は確実に収束へと向かっていた。ダニエルとエマは、地元の治療師たちに基本的な医学知識を伝授し、特に手洗いと衛生管理の重要性を強調した。
帰途につく前日、市長は特別な晩餐会を開き、二人の功績を称えた。
「ヴェンティアの市民を代表して、深い感謝を捧げます」市長は立ち上がって宣言した。「シェパード医師とエマ治療師、あなた方の知恵と献身なくして、私たちの街は存続していなかったでしょう」
宴席では料理人から漁師、商人から学者まで、様々な市民が二人に感謝の言葉を述べた。最も印象的だったのは、若い母親が赤ん坊を抱いて近づいてきた瞬間だった。
「私と息子は、あなた方のおかげで生きています」彼女は涙ぐみながら言った。「私は発症していたのに、妊娠していたので特別なケアを...そして出産直後も」
ダニエルはその赤ん坊を見つめ、深い感動を覚えた。この子が健やかに成長できる世界のために、彼にできることはまだたくさんある。
---
王城への帰路、ダニエルはノートに詳細な記録を残していた。ヴェンティアでの経験、感染症の広がり方とその抑制方法、そして特に、手洗いと隔離の実践がもたらした劇的な変化について。
「先生」エマが隣に座り、遠慮がちに尋ねた。「医学書を書くとおっしゃいましたが、私も手伝えますか?」
「もちろん」ダニエルは微笑んだ。「君は優秀な助手だ。君の質問や観察は、私が当たり前だと思っていることを改めて考えるきっかけになる。それに、この世界の言葉やしきたりに詳しい君の助けは不可欠だよ」
エマは喜びに満ちた表情になった。「ありがとうございます!私、絶対に頑張ります」
馬車は揺れながら南へと進み、夕暮れの空が赤く染まっていく。ダニエルは窓の外の景色を見つめながら、この異世界での自分の役割について考えを深めていた。
「先生」エマが再び声をかけた。「私、今は城のメイドですが...もしよければ、正式に医術を学びたいのです」
ダニエルは彼女の決意に満ちた表情を見て、微笑んだ。「喜んで教えるよ、エマ。君は素質がある」
「本当ですか?」彼女の目が輝いた。「ありがとうございます!私、王様に直訴してでも、先生の助手になりたいんです」
「それほどまでにね」ダニエルは笑った。「でも、王様に直訴する前に、まずはラーン氏に相談してみよう」
「はい!」エマは元気よく答えた。「あ、それと...先生の『白亜館』ですが、実際にそれを建てる計画が進んでいるそうです」
「え?」ダニエルは驚いた。「単なる名前だと思っていたんだが...」
「いいえ。王様がラーン様に命じて、城の敷地内に新しい建物を建てることになったそうです。真っ白な石で...」
ダニエルは言葉を失った。彼の冗談のようなネーミングが、実際の施設として実現しようとしている。その施設が、この世界の医療の中心となるかもしれないと思うと、身の引き締まる思いだった。
「白亜館...」彼は静かに繰り返した。「私たちの知識と経験を集める場所になるといいね」
「きっとそうなります」エマは確信に満ちた声で言った。「先生の知恵で、この王国は変わるでしょう」
馬車は夜の闇の中を走り続け、二人は疲れの中にも希望を抱きながら、王城への帰途についていた。
ダニエルのノートの表紙には、すでに「白亜館診療録」と記されていた。その内容は、彼の帰還後も長く、この世界の人々の命を救い続けることになるだろう。