絹糸と火酒と傷の記録
王城に戻ったダニエルとエマを最初に出迎えたのは、ラーンだった。老賢人の穏やかな表情には、明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「無事に戻られて何よりです、シェパード医師」ラーンは深々と頭を下げた。「ヴェンティアでの活躍は、すでに城中に知れ渡っています」
ダニエルは疲れた笑みを浮かべた。「ありがとう、ラーン。しかし、これはまだ始まりに過ぎないと思います」
彼らが診療所に向かう途中、ラーンは重大なニュースを伝えた。
「西方の国境で小規模な戦闘があり、負傷兵が多数城下町に運ばれてきました。現在は従来の治療師たちが対応していますが...」
「すぐに診ましょう」ダニエルは足早に歩きながら言った。「エマ、基本的な医療キットを準備してくれるかな」
エマは頷き、急いで別の方向へと駆け出した。
「シェパード医師」ラーンが声を低めた。「我が国の戦傷治療は、正直なところ...非常に原始的です。出血を止めるために赤く焼いた鉄で焼くことも...」
ダニエルは眉をひそめた。「止血には他の方法があります。まず状況を見せてください」
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城下町の兵舎に隣接した建物が、臨時の野戦病院となっていた。数十人の負傷兵が並べられ、うめき声と汗の匂いが充満している。従来の治療師たちは、主に薬草と包帯で応急処置を行っていたが、深い傷には対応しきれていないようだった。
「これは...」ダニエルは状況を素早く把握し、最も重症な患者から診察し始めた。多くは刀や槍による刺し傷、切り傷で、いくつかは深く、縫合が必要な状態だった。
彼が患者を診る間に、エマが駆け込んできた。
「先生、基本的な道具と消毒用の火酒は揃いました。しかし、縫合に必要な糸がありません...」
ダニエルは考え込んだ。縫合には適切な強度と清潔さを持つ糸が必要だ。
「この世界での最も清潔で強い糸材は何だろう?」
ラーンが近づいてきた。「絹糸が最上かと思います。城下町の市場には、高級な衣服を扱う商人がおります」
「絹糸...良いですね」ダニエルはうなずいた。「エマ、市場へ行って最高品質の絹糸を調達してくれないか。できれば細めのものを」
「はい!」エマは元気よく答えた。「他に必要なものはありますか?」
ダニエルは一瞬考えた。「そうだな...生理食塩水を作るための塩、そして正確な重量を測る道具も必要だ。0.9%の塩水を作りたいんだ」
「0.9%...つまり、水100に対して塩がおよそ1の割合ですね」エマは理解の早さを見せた。
「その通り。精密な天秤があれば理想的だが...」
「市場の宝石商なら持っているでしょう」ラーンが提案した。「貴金属の取引に使用しています」
「それなら完璧だ。そして、火酒...消毒用にもっと量が必要だ」ダニエルは最後に付け加えた。「現在のストックではすぐに底をつくだろう」
ラーンは口髭をなでながら考えた。「王城の魔道士なら、通常のワインから強力な蒸留酒を生み出せるかもしれません。彼らの錬金術は優れています」
「お願いできますか?」
「すぐに手配します」ラーンはうなずき、急いで立ち去った。
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エマが市場へ向かう間、ダニエルは最も緊急を要する患者たちの処置を続けた。幸いにも、現在持っている限られた道具と薬草で、彼はいくつかの出血を止め、痛みを和らげることができた。
しかし、多くの深い傷は適切な縫合なしには完全に治療できない。彼は軽症の患者たちを処置しながら、エマの帰りを待った。
約一時間後、エマが市場から戻ってきた。彼女の顔には達成感があふれていた。
「先生!すべて揃いました」彼女は小さな袋を掲げた。「絹糸は最高級のものです。仕立て屋のマスター・リノが特別に分けてくれました」
ダニエルは袋を受け取り、中身を確認した。確かに上質の絹糸が巻かれたいくつかの小さな糸巻きが入っていた。細く、しかも強度がありそうだ。
「素晴らしい。これなら縫合に使えるだろう」
「それから」エマは別の袋を取り出した。「精密な天秤です。宝石商から借りてきました。非常に正確に重量を測れるそうです」
天秤は美しい真鍮でできており、小さな分銅のセットも付いていた。ダニエルはそれを見て満足げにうなずいた。
「完璧だ。これで生理食塩水を正確に作ることができる」
「塩も手に入れました」エマは最後の袋を見せた。「市場で最も純粋な結晶塩です」
ダニエルはエマの肩に手を置いた。「よくやった、エマ。さあ、早速準備しよう」
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彼らは片隅に小さな作業台を設け、生理食塩水の調合を始めた。ダニエルは天秤を使い、水100単位に対して塩1単位の正確な比率を測った。
「なぜこの比率が重要なのですか?」エマが興味深そうに尋ねた。
「人間の体液と同じ塩分濃度にするためだよ」ダニエルは説明しながら慎重に計量を続けた。「これを『等張液』と呼ぶんだ。体の細胞にとって最も負担が少ない濃度なんだよ」
エマは熱心にノートに記録していた。「等張液...0.9%...」
「もし濃度が高すぎると細胞から水分が引き出され、低すぎると細胞が水分を吸収して膨張してしまう」ダニエルは手を止めずに説明を続けた。「人体にとって最も優しい液体を作るには、この比率が鍵なんだ」
測り終えた塩を沸騰した湯に溶かし、冷ますためのセットを数セット準備した。
「これで傷を洗浄するんですね?」エマが確認した。
「そうだ。生理食塩水は傷口を洗うのに最適だ。細菌を洗い流しながら、傷の治癒を妨げない」ダニエルは説明した。「きれいな水よりも、傷の治りが良くなるんだ」
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生理食塩水の準備ができた頃、ラーンが魔道士を連れて戻ってきた。ベコンという名の小柄な男性で、常に動く落ち着きのない瞳が特徴的だった。
「シェパード医師、御用とのこと」ベコンは軽く会釈した。「蒸留酒の製造ですね」
「はい、できるだけ強い火酒が必要なんです」ダニエルは答えた。「傷の消毒に使用します」
「興味深い...」ベコンはひげを撫でた。「私たちは通常、錬金術の溶媒として蒸留酒を使用します。医療目的とは...」
「細菌、つまり目に見えない小さな生物を殺すためです」ダニエルは説明した。「傷に入ると感染を引き起こすので、強い火酒で洗い流すのです」
ベコンは興味を示した。「なるほど。実は私たちの蒸留技術はかなり進んでいます。通常のワインから、最大90%のアルコール度数の火酒を抽出できます」
「それは理想的です!」ダニエルは驚いた。「そんなに高純度のものが作れるとは」
「魔法の力を少し借りれば」ベコンは微笑んだ。「一晩で大量に準備できますよ」
「お願いします。特に重要なのは純度です。不純物が少ないほど良いのです」
ベコンは自信に満ちた表情でうなずいた。「任せてください。明朝には届けさせます」
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これで必要な材料がほぼ揃った。ダニエルは最も重症の患者たちの治療に取りかかった。現在ある火酒を使って傷を消毒し、調合したばかりの生理食塩水で洗浄する。
最初の縫合を始める前に、彼はエマに手洗いを徹底させ、絹糸も火酒に浸して消毒した。
「今から外科的な縫合を行います」彼は周囲の治療師たちに説明した。「傷口を閉じることで、出血を止め、感染のリスクを減らし、治癒を早めることができます」
治療師たちは半信半疑の様子だったが、好奇心を抑えられない様子で彼の周りに集まった。
ダニエルは最初の患者、太腿に深い切り傷を負った若い兵士に向き合った。
「少し痛みますが、耐えてください」彼は兵士に優しく語りかけた。「これで傷の治りが良くなります」
まず生理食塩水で傷をきれいに洗い、周囲の汚れや血液を取り除く。次に火酒で消毒し、最後に消毒した絹糸と針を使って丁寧に縫い始めた。
「針を持つ角度が重要です」彼はエマと治療師たちに説明しながら作業を続けた。「傷の両端を正確に合わせ、適切な間隔で縫うことで、治癒後の傷跡も最小限になります」
彼の手際の良さに、周囲は感嘆の声を上げた。これまでの治療法である「赤く熱した鉄で焼く」方法に比べ、はるかに繊細で効果的に見えたからだ。
「この縫合法なら、組織のダメージが少なく、治癒も早いはずです」ダニエルは説明を続けた。「そして何より、患者の苦痛が少ないのが利点です」
次々と患者を処置していくうちに、エマも基本的な縫合技術を習得し始めた。彼女の手先の器用さは、メイドとしての経験からか、驚くほど適応が早かった。
「エマ、君の手の動きはとても正確だね」ダニエルは彼女の作業を見て感心した。
「私の父は仕立て屋だったんです」エマは照れながらも誇らしげに答えた。「小さい頃から縫い物は...」
「なるほど」ダニエルは納得した。「それで絹糸の調達も的確だったわけだ」
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その日の夕方までに、彼らは二十人以上の兵士の傷を処置した。軽度の切り傷から深い刺し傷まで、様々な傷に対応した。
夕食時、ダニエルは疲労から食事を取りながら半ば眠りかけていた。しかし、彼の精神は冴えていた。今日の経験から得た知識を整理し、この世界での外科処置の標準化について考えていた。
「シェパード先生」エマが彼の思考を中断させた。「明日、もう一度市場に行っても良いでしょうか」
「ああ、もちろん。何か必要なものがあるの?」
「はい」彼女は少し興奮した様子で言った。「今日の縫合で使った絹糸の仕入れ先、リノさんのお店で、もっと様々な種類の絹糸を見せてもらおうと思います。傷の場所や深さによって、最適な糸の太さがあるのではないかと...」
ダニエルは嬉しい驚きを感じた。「それは素晴らしい観察眼だ。確かに傷の種類によって糸の選択は変わるべきだね」
「それから」エマは続けた。「塩の純度についても、もっと詳しく調べようと思います。生理食塩水の質を上げるために」
ダニエルは彼女の進取の精神に感心した。「君はとても良い助手だよ、エマ。いや、もう助手という言葉では足りないかもしれない」
「え?」エマは目を丸くした。
「君は医師の卵だ」ダニエルは真剣に言った。「適切な訓練を受ければ、立派な医師になれるだろう」
エマの顔が輝いた。「本当ですか、先生?」
「ああ。明日からは、もっと系統的に医学を教えていこう。単なる手技だけでなく、その背後にある理論も」
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翌朝、約束通りベコンが大量の火酒を届けに来た。透明な液体は、純度の高さを示すように澄み切っていた。
「90%のアルコール度数です」ベコンは誇らしげに説明した。「不純物は極力取り除きました」
ダニエルは感謝の念を表した。「これは素晴らしい。傷の消毒に最適です」
ベコンは少し遠慮がちに尋ねた。「もし良ければ...その『細菌』についてもっと知りたいのですが」
「興味があるのか?」ダニエルは嬉しそうに尋ね返した。
「はい。目に見えない小さな生物が病気を引き起こすという考え...私たちの錬金術や魔法理論に新たな視点をもたらすかもしれません」
ダニエルは考えた。科学的な微生物学の知識を、魔法や錬金術の世界観に翻訳することは難しいかもしれない。しかし、この世界の人々が理解できる形で医学知識を広めることは重要だ。
「喜んで教えるよ」彼は微笑んだ。「時間がある時に、詳しく話そう」
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その日の午後、エマは市場から戻ってきた。彼女の腕には様々な太さの絹糸と、新しい縫合針が入った小箱があった。
「リノさんが特別に作ってくれました」彼女は誇らしげに箱を開けた。「様々な太さの針と糸のセットです」
ダニエルは感心して内容物を確認した。確かに、細いものから少し太めのものまで、様々な絹糸と、それに適した針が揃っていた。
「これは素晴らしい。異なる傷に対して最適な糸を選べるようになるね」
「それから」エマはもう一つの袋を取り出した。「天秤の使い方を教わってきました。これで生理食塩水の濃度をより正確に調整できます」
ダニエルは彼女の積極性に感銘を受けた。「君の学習意欲には驚かされるよ、エマ」
「医学は...人を救うための知識ですから」彼女は真剣な表情で言った。「一つでも多くのことを学びたいんです」
その夜、彼らは傷の治療記録を詳細にまとめた。どのような傷に、どの太さの糸を使い、どのように縫合したか。そして、生理食塩水と火酒による消毒の効果についても。
「こうして記録を残すことで、将来の治療に役立てることができます」ダニエルは説明した。「治療は経験の積み重ねなんだ」
エマは熱心にノートを取り、時には自分の観察や質問を加えた。彼女の存在は、ダニエルにとって単なる助手を超え、この世界で医学を発展させるパートナーになりつつあった。
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数日後、最初に縫合した患者たちの経過を確認する時が来た。ダニエルは緊張しながら包帯を解いていった。
結果は驚くべきものだった。従来の治療法に比べて、傷の治りが明らかに早く、感染の兆候もほとんど見られなかった。兵士たちも痛みが少なく、動きやすいと報告していた。
「これは...我々の治療法が大きく変わる瞬間かもしれません」主任治療師のオルドは感嘆の声を上げた。「焼灼による止血よりも、はるかに効果的です」
ダニエルは謙虚にうなずいた。「重要なのは清潔さです。傷を清潔に保ち、適切に縫合することで、自然治癒力を最大限に引き出すのです」
オルドは決意に満ちた表情で言った。「我々もこの技術を学びたい。次の戦いで、もっと多くの命を救えるように」
「喜んで教えます」ダニエルは答えた。「明日から、基本的な外科処置の講習を始めましょう」
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その夜、ダニエルは自室で医学ノートを書き進めていた。「外科的処置の基本」という章を新たに設け、縫合技術、生理食塩水の調合法、消毒の重要性などを詳細に記述していく。
ノックの音がして、エマが入ってきた。
「先生、明日の講習の準備ができました」彼女は報告した。「それと...これを見てください」
彼女が差し出したのは、小さな布片に施された美しい縫合の練習だった。まるで芸術作品のように繊細で均一な糸目が並んでいる。
「エマ...これは素晴らしい」ダニエルは感嘆した。「君の技術は驚異的だ」
「父の仕立て屋としての技術と、先生から学んだ医学的知識を組み合わせました」彼女は誇らしげに言った。「これから更に上達したいです」
ダニエルは彼女の成長ぶりに感動し、同時に責任の重さも感じていた。彼女のような才能ある若者に、正しい医学教育を施す義務がある。
「明日からは、もっと体系的に外科技術を教えていこう」彼は約束した。「君の技術は、多くの命を救うことになるだろう」
エマは決意に満ちた表情でうなずいた。「はい、先生。私、絶対に立派な医師になります」
窓の外では、満月が城の白い壁を照らしていた。いつか建つであろう「白亜館」の姿を想像しながら、ダニエルは微笑んだ。この異世界で、彼の知識は確実に根付き始めていたのだ。