新しい後と母親の健康(つづき)
村での指導を終え、ダニエルとエルネは次の目的地、フィリア・ターナーの家に向かった。彼女の家は村から少し離れた小さな農場にあった。
到着すると、フィリアの夫ロバートが彼らを迎えた。彼は三十代前半の屈強な農夫で、疲れと心配で顔に深いしわを刻んでいた。
「本当に来てくださったのですね」彼は安堵の声で言った。「フィリアの状態が...心配で仕方ありません」
屋内に案内されると、そこには赤ん坊を抱いたフィリアの姿があった。彼女は美しい若い女性だったが、目の下には濃い隈があり、髪は乱れ、表情は空虚だった。
「フィリア、医師の方が来てくださったよ」ロバートが優しく声をかけた。
フィリアはゆっくりと顔を上げたが、その目は焦点が合っていないようだった。「ええ...」彼女は弱々しく答えた。
「私はダニエル・シェパード、これは私の助手のエルネです」ダニエルは温かい声で自己紹介した。「お話を聞かせていただけますか?」
しばらくの沈黙の後、フィリアはかすれた声で話し始めた。「私...赤ん坊が生まれてから、何も感じられなくなりました。喜びも、愛情も...」
彼女は我が子を見つめた。「このかわいい子を愛さなければいけないことは分かっているのに...何も感じられないのです」
彼女の目から涙がこぼれ落ちた。「私は母親失格なのでしょうか?」
「決してそんなことはありません」ダニエルは優しく、しかし確信を持って言った。「あなたが経験しているのは、『産後うつ』と呼ばれる状態です。これは珍しいことではなく、多くの新しい母親が経験します」
フィリアの表情に僅かな安堵の色が浮かんだ。「私だけじゃないの...?」
「決してあなただけではありません」エルネが優しく手を握った。「子供を産んだ後、体と心に大きな変化が起こります。それは病気であり、あなたの人格や母親としての資質とは関係ないのです」
ダニエルはさらに詳しい症状について尋ねた。フィリアは睡眠障害、食欲不振、極度の疲労感を訴えた。特に夜間の授乳で睡眠が断続的になり、昼間も落ち着いて休めない状態だった。
「実は」ロバートが遠慮がちに口を開いた。「彼女には別の問題もあります。姑との関係が...」
フィリアの表情が曇った。
「姑は伝統的な価値観の強い人で」ロバートは続けた。「『母親なら子供のために何でも犠牲にすべき』と考えているのです。フィリアが疲れていても、『私の時代はもっと大変だった』と...」
「なるほど」ダニエルはうなずいた。「社会的なプレッシャーが状況を悪化させているのですね」
ダニエルとエルネは、フィリアの体と心の両方の状態を総合的に評価した。まず、彼女の身体状態をチェックし、栄養不足と極度の疲労が見られることを確認した。次に、彼女の心理状態についても詳しく質問した。
診察の結果、フィリアは典型的な産後うつの症状を示していることが明らかになった。ホルモンバランスの変化、睡眠不足、社会的孤立と周囲からのプレッシャーが複合的に作用していると考えられた。
「フィリアさん、あなたの状態を改善するためには、いくつかのアプローチが必要です」ダニエルは診察後に説明した。「まず、身体的な回復をサポートすること。次に、心理的なサポート。そして、家族のサポート体制の構築です」
エルネはこれまでの診療で使用してきた「太陽の涙草」の調合薬を取り出した。「これは気分を安定させる効果がある薬草です。ドラゴンや兵士の治療でも使用したものですが、あなたの症状にも効果があるでしょう」
「また、睡眠の質を改善するために」ダニエルは別の薬草を示した。「これは穏やかな催眠作用があり、夜間の熟睡を助けます」
フィリアは半信半疑の表情だったが、薬草を受け取った。
「しかし、薬草だけでは不十分です」ダニエルは続けた。「最も重要なのは、あなたの生活環境と育児負担の調整です」
彼はロバートの方を向いた。「ロバートさん、奥様の回復のためには、育児の分担が不可欠です。特に夜間の授乳は大きな負担になります」
「でも、赤ん坊は母乳が必要で...」ロバートは困惑した表情を見せた。
「その問題にも解決策があります」ダニエルは穏やかに言った。「母乳を搾って保存し、夜間はあなたが与えることができます」
彼は搾乳と保存の方法を説明し、エマが準備していた透明なガラス瓶と柔らかい革製の栓を見せた。
「この形なら、赤ん坊は吸いやすいでしょう」エルネは実演した。
「母乳を絞るなんて...」フィリアは躊躇した。
「最初は慣れないでしょう」ダニエルは認めた。「しかし、これによってロバートさんが夜間、あなたが眠っている間も授乳できるのです」
「一晩中眠れるなんて...」フィリアの目に希望の光が灯った。
「そして睡眠は、心と体の回復に不可欠なのです」ダニエルは強調した。
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彼らは家族全体で対策を立てた。まず、フィリアの睡眠環境を改善するため、夫ロバートが夜間の授乳を担当することになった。次に、日中の家事も分担し、フィリアが休息する時間を確保した。
さらに、ロバートの両親との関係改善のために、家族会議を開いた。この場でダニエルは、産後うつが実際の病気であり、適切なサポートが必要なことを説明した。
「フィリアが体調を崩していると考えてください」ダニエルは義母に語りかけた。「もし彼女が熱を出して寝込んでいたら、休息が必要だと理解されるでしょう。産後うつも同じように、回復のためのケアが必要なのです」
最初は懐疑的だった義母も、医師の説明に少しずつ理解を示し始めた。特に、孫の健康のためにも母親の回復が重要だという点に納得した様子だった。
「私の時代は...確かに大変でした」義母は静かに認めた。「だからこそ、フィリアには少し楽になってほしいと思います」
このような環境調整と並行して、ダニエルはフィリアに対して簡単な認知行動療法的アプローチも導入した。特に「完璧な母親」というプレッシャーから解放されることの重要性を強調した。
「子育てに完璧はありません」彼は優しく言った。「最も大切なのは、あなた自身が健康であることです。それが結果的に、赤ん坊にとっても最善なのです」
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一週間後、ダニエルとエルネは再びフィリアの家を訪れた。変化は明らかだった。フィリアの顔色は良くなり、目にも生気が戻っていた。彼女は赤ん坊を抱きながら、小さな微笑みを浮かべていた。
「太陽の涙草と睡眠薬草が効いているようですね」エルネは嬉しそうに言った。
「はい」フィリアはうなずいた。「でも、それだけではありません。ロバートが夜の授乳を手伝ってくれて、初めて一晩中眠ることができました。それだけで、世界が違って見えるんです」
ロバートも誇らしげに報告した。「最初は難しかったですが、今では慣れました。実は...子供と二人きりの時間を持つのは素晴らしい経験です」
義母も態度を変えていた。「私も若い頃、似たような苦しみを経験したことを思い出しました。当時は誰にも相談できず...」彼女は過去を振り返るように言った。「フィリアには同じ思いをさせたくありません」
ダニエルとエルネは、さらに二週間の治療計画を立てた。薬草の継続と、少しずつ通常の生活に戻していくためのステップを提案した。
「最も重要なのは、一人で抱え込まないことです」ダニエルは強調した。「育児は家族全体の責任であり、母親だけの負担ではありません」
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タンネンヴァルト村とフィリアの家での経験は、ダニエルにとって新たな洞察をもたらした。産科医療と産後ケアという、これまで白亜館ではあまり焦点を当ててこなかった分野の重要性を認識したのだ。
白亜館に戻ると、彼はすぐに医学ノートに新しい章を書き始めた。
「産科医療と母体保護」
「出産は自然なプロセスであるが、同時に母体にとって大きなリスクを伴うものでもある。特に注目すべきは産褥熱の危険性だ。これは出産後の子宮内感染症で、急速に進行し、致命的となりうる。」
「予防法として最も重要なのは、手洗いの徹底と器具の消毒である。これだけで産婦の死亡率を劇的に減少させることができる。出産に関わるすべての人が、この基本原則を守るべきだ。」
「助産師たちの伝統的な知識は貴重であり、尊重されるべきものだ。しかし、新たな医学的知見と組み合わせることで、より安全な出産環境を構築できる。エルネの治癒魔法と従来の助産技術の融合は、その良い例である。」
次に、彼は「産後の母体ケア」という章を追加した。
「出産後の母親は、身体的にも精神的にも大きな変化を経験する。特に注目すべきは『産後うつ』という状態だ。これはホルモンバランスの変化、睡眠不足、社会的プレッシャーなどが複合的に作用して生じる心の状態である。」
「治療には総合的なアプローチが必要だ。薬草による支援(太陽の涙草など)、睡眠環境の改善、そして最も重要なのは家族のサポート体制の構築である。育児は母親だけの責任ではなく、家族全体で担うべきものだということを社会に広めていく必要がある。」
「特に注目すべきは、搾乳と保存による授乳分担の方法だ。これにより母親の睡眠が確保され、父親も育児に積極的に参加できるようになる。」
ダニエルがノートを書き終えると、エルネが部屋に入ってきた。
「先生、村での経験から思ったのですが」彼女は真剣な表情で言った。「白亜館で産科医療と母親支援のための特別プログラムを作ってはどうでしょうか」
「それは素晴らしいアイデアだね」ダニエルは顔を輝かせた。「具体的には?」
「産科医療の講習会を開き、王国各地の助産師たちに新しい知識を提供する。また、産後の母親たちが集まって経験を共有し、互いに支援できる場を作る」
「そして、フィリアさんのケースで学んだ家族全体での育児アプローチも広めていきたいですね」エルネは熱心に続けた。
ダニエルはうなずいた。「その構想を白亜館の次のプロジェクトとして進めよう。エマも加えて、具体的な計画を立てよう」
彼らがその話し合いを始めようとしたとき、窓の外から馬の蹄の音が聞こえてきた。宮廷からの使者が、エレノア王太女からの緊急の招集状を届けにきたのだ。
白亜館の次なる挑戦が、すでに彼らを待っているようだった。