血の巡りと魂の行方
王立学院の円形講堂は、石造りの観覧席が五層まで積み上がり、中央の演壇を見下ろす構造になっている。冬の朝の冷たい外気が隙間風となって吹き込むはずだったが、この日は聴衆の熱気で白い息さえ立たない。窓際に並ぶ燭台の炎は、人いきれに揺れ、蜜蝋の甘い匂いが天井近くに滞留していた。
壇上に立つのは、アストラカス派の長老フィロメドス。銀灰の髪を油で撫でつけ、膝まで届くローブを翻しながら、白い写本を高く掲げる。その表紙には《白亜館診療録》の金文字。
「諸君、この新奇な書は、動脈と静脈が互いに繋がり血が巡るなどと荒唐無稽な主張をしている!」
フィロメドスの声が石壁を叩くたび、聴衆の間にざわめきが走る。彼は長い顎鬚を揺らし、指を突き上げた。
「我らの祖たる大賢者は、血は肝臓で生成され、身体の末端で消費されると説いた。未だかつて“動脈と静脈の接合”を肉眼で見た者はいない! この書は観察を欠いた机上の空論にすぎぬ!」
聴衆席の若い見習い治療師たちは顔を見合わせ、古参の学匠たちは鼻を鳴らす。壇上脇の砂時計が、乾いた音を立てて最後の砂を落とした。
その瞬間、二層目の階段席からゆっくりと男が立ち上がる。長身を包む白衣の胸元には、黒革のノート。ジョンズ・ホプキンス大学で鍛えられた英語訛りが残る低い声が、講堂の石壁を震わせた。
「フィロメドス殿。観察とは視覚のみを指す言葉ではありません。」
ざわ…と波紋が広がる。若き治療師が口元を押さえ、教授陣が首を伸ばす。ダニエル・シェパード医師の名は、既に学院に噂として届いていたが、本人を目にするのは初めての者も多い。
ダニエルは階段を下り、演壇の隅に置かれた砂板へ歩み寄る。チョークを握る手が、無駄のない動きで数字を刻んだ。
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70(拍/分) × 70(mL) = 4.9 L/分
4.9 L × 60(分) × 24(時) ≒ 7,000 L/日
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「人の心臓は一日に約七千リットルの血液を送り出します。もし血が消費されるたびに肝臓で創成されるなら——」
彼は顎で聴衆を示す。
「——肝臓は一日で体重の数十倍の血を錬成し続けねばならない。これは生理学的に不可能です。十七世紀、我が世界の医師ウィリアム・ハーヴェイはこの量的矛盾を示し、『血液は循環する』と結論しました。」
チョークを置く音が、やけに大きく響く。若い治療師の一人が席を蹴って立ち上がった。
「私はハーヴェイ殿を支持する! 圧迫止血と治癒魔法を併用した最新の外科では、循環を前提にした処置が数多の命を救っている!」
拍手がまばらに起こり、やがて波のように広がる。フィロメドスは口を開きかけたが、言葉が続かない。壇上の写本を見下ろし、顎鬚を震わせながらローブの袖を握り締めた。
砂時計が再びひっくり返される前に、講堂は静寂を取り戻した。だがその静けさは、議論の終結を示す鐘の音のようだった。
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翌日の聖堂前
雪混じりの風が石畳を舐め、修道服の裾を翻す。荘厳な大聖堂の前庭に、信徒が黒い波のように集まっていた。壇上に立つ修道長ベルナリウスは、黄金の十字杖を握り、深い皺の刻まれた額に憂慮を滲ませる。
「心は神が宿る聖域! その聖域を医者が解剖し、操ろうとは不敬の極み!」
声は鐘楼に反響し、「異端!」「魂泥棒!」の叫びが雪雲を突き抜けた。掲げられた横断幕には《魂は薬に非ず》と赤く染め抜かれている。
衛兵が静かに列を作り、群衆を押し留める。白亜館の名を記した板が放り投げられ、石畳に砕ける音がした。
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王宮評議の間
その晩、ダニエルは王宮へ呼び出された。瑠璃色のタペストリーに囲まれた円卓。蝋燭の炎が天井の金箔を照らし、重臣たちの影が揺らめく。
将軍ルードヴィヒは軍装の胸甲を鳴らし、開口一番に問いただした。
「前線から戻った兵の半数が夜ごと悪夢に魘され、剣を抱いたまま眠る。白亜館で立ち直った者も確かにいるが、聖堂は“魂を弄ぶ術”と糾弾しておる。シェパード殿、汝の術は信仰を侵すのか?」
緊張で重く張り詰めた空気。王女は沈痛な面持ちで視線を伏せ、枢機卿は胸元の十字架を指でなぞる。
ダニエルは深く息を吸い、灯明の光を正面から受けた。影が頬を削り、声は穏やかだが揺るがない。
「我々が扱うのは魂ではなく“心の働き”です。戦場の恐怖は肉体の傷と同じく深い裂け目を残します。心の傷を縫うことは、命を守る行為であり、神が授けた慈しみの手を拡げることに他なりません。ルードヴィヒ将軍、怪我をした兵士に手当をするのは、当たり前のことではありませんか?」
沈黙が一拍。重臣たちが互いに視線を交わす。蝋燭の芯が爆ぜ、微かな火花が散った。
エレノア王女が椅子を離れ、ダニエルの隣に歩み出る。透き通る声が天井のドームに反射した。
「私自身、シェパード医師の助けで闇から戻りました。彼は魂を奪ったのではなく、私が自ら扉を開ける手助けをしてくれたのです。」
王女の瞳に宿る真摯な光。将軍が眉を上げ、宰相が小さく咳払いをした。やがて、玉座の王が立ち上がる。深紅のマントが静かに広がり、王笏の先が床を打つ重い音が響いた。
「戦の影は国の礎を蝕む。兵の心を癒やし再び立たせる術を、我は是とする。聖堂には信仰を、療院には医を。互いに侵すことなかれ。」
評議の間に低いどよめきが走る。修道長ベルナリウスは口を開いたが、王の眼差しに射すくめられ、静かに十字杖を胸に収めた。
その宣言は翌朝には布告として城門に掲げられ、白亜館に向けられた“魂泥棒”の中傷は霧散した。代わりに《心を癒やす白の館》という呼称が王都で囁かれ始める。
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白亜館・夜更けの書斎
深夜、書斎の窓には薄氷が張り、外の月光が歪んで映る。暖炉の火は小さくなり、橙の残光が書棚を撫でていた。ダニエルは机に伏すようにして医学ノートの余白へペンを走らせる。
《補遺:精神への医療的介入は魂を奪う行為にあらず。患者自身が痛みを語り、苦悩を整理し、再び生きる道を選ぶ——その助力こそ医の役目である。肉体と同じく、心にも包帯と縫合が必要なのだ。》
インクが乾く前に、遠く王都の鐘が静かに時を告げる。低い鐘声は冬の夜気を震わせ、古き学説と信仰の壁に小さな亀裂を刻む。ダニエルはペンを置き、窓の外に瞬く星を見上げた。
——血は巡り、心もまた巡る。夜が明ければ、新たな医療の光が射すだろう。
白亜館の灯は、闇を払うために今日も揺らめいている。
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王の布告から一月、白亜館の前庭に、色鮮やかなローブをまとった治療魔法師たちが集結した。胸元に金糸の杖章を縫い取り、腰には宝石の付いた魔導石。彼らは城下で名声を誇る〈癒光同盟〉の一行だった。代表格の若い魔法師セラフは、白い杖を突き立てるように構え、館の正面扉へ声を張り上げた。
「ダニエル・シェパード殿! 貴殿は魔法を扱えぬ身でありながら、我ら治療術師の領分に踏み込んでいる。心と肉体を癒す務めは、祝福を受けた我らの専権であるはずだ!」
扉が開き、ダニエルが姿を現した。白衣の袖にインクの染みがあり、眼鏡の奥の瞳は長い執筆でやや赤い。背後からはエルネとエマが心配そうに覗き込む。
「領分?」ダニエルは低く反復した。「私は誰の畑も奪っていない。ここへ来る患者は『助けてほしい』と自ら扉を叩いた人たちだ。救いの手が足りぬなら、差し伸べるのは人として自然なことではないのか」
セラフは杖の宝珠を光らせ、群衆に向かって手を広げる。
「だが貴殿の“圧迫止血”や“塩水洗浄”とやらは、魔法の体系を乱す危険がある! 素人が真似をすれば命を落としかねない。無許可の療法は混乱を招くのだ」
その言葉に、見物人の間からざわめきが起こる。兵士上がりの若者が最前列で声を張った。
「俺は白亜館で命を拾った! 魔法師殿の光でも治らなかった傷が、この館で塞がったんだ!」
セラフの眉が吊り上がる。ダニエルは一歩前へ出て、声を強めた。
「ソレイル村や港町ヴェンティアの伝染病を覚えているか? 高位の治療魔法師が十人がかりで呪文を唱えても、村の子どもたちは次々に倒れた。井戸を封鎖し、隔離し、清潔を保つ ―― “魔法ではない手当て”で初めて死者が止まったのだ。あれのどこが領分の侵害になる?」
沈黙。冷たい冬の風がローブの裾をはためかせる。セラフは言葉を探すように唇を噛み、やがて吐き捨てた。
「魔法師を侮辱する気か」
「侮辱ではない」ダニエルは即座に返す。「私はむしろ、あなた方の力を尊敬している。だが万能ではない。だからこそ互いに学び合うべきだ。肉体の傷に魔法が強いなら、感染症や心の病には私の方法が役立つ。領分ではなく、協力だ」
エルネが一歩進み、光球を掲げた。「私は治癒魔法師学院で学びました。先生の医学と組み合わせて、魔法の効果を高められると証明したばかりです。敵ではありません、仲間です!」
若い魔法師たちがざわつき、後列の一人が小声で「確かに…」と呟く。セラフは視線を巡らせ、最後に杖を下ろした。
「分かった…… 白亜館での治療を監察させてほしい。もし安全で有効と分かれば、我らも学びを受け入れよう」
ダニエルは深く頷いた。「歓迎する。知識は閉ざすものではない。ともに命を救おう」
その瞬間、冬雲の切れ間から陽光が差し、白亜の壁を黄金に染めた。ローブの宝石が虹色にきらめき、観衆は息をのむ。セラフは眩しそうに目を細め、静かに右手を差し出した。
ダニエルはその手を握る。掌に感じたのは、魔法師の誇りではなく、一人の治療者としての熱だった。