知られざる病と村の混乱
アストラル王国の朝は、地球のそれとさほど変わらなかった。鳥のさえずり、城壁を照らす太陽の光、活動を始める人々の足音。ダニエルは窓辺に立ち、この異世界での二日目の朝を迎えていた。
昨夜は不思議なことに熟睡できた。疲労のせいかもしれないし、この世界の空気に何か特別なものがあるのかもしれない。いずれにせよ、頭はすっきりしていた。
「新たな一日、新たな現実」
彼は白衣を羽織り、昨日から記録を始めたノートを手に取った。精神科医として訓練された観察眼と、医学的思考を武器に、この状況を理解する努力を続けるしかない。
扉を叩く音がして、老賢人ラーンが姿を現した。
「シェパード医師、お目覚めは良好でしたか?」
「ええ、予想外に良く眠れました」ダニエルは微笑んだ。「今日から診療を始める場所はどこになりますか?」
「それについてですが...」ラーンの表情が曇った。「予定を変更しなければならない緊急事態が発生しました。王城から半日の距離にある村、ソレイルで謎の病が発生しているのです」
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馬車は揺れながら未舗装の道を進んでいた。ダニエルの隣にはラーン、向かいには昨日助けたメイドのエマが座っていた。
「エマは村の出身で、道案内をしてくれる」とラーンは説明した。メイドの少女は昨日と打って変わって落ち着いた様子で、時折窓の外を不安げに眺めていた。
「どんな症状が報告されているのですか?」ダニエルは詳細を尋ねた。
「高熱と激しい下痢」ラーンは眉をひそめた。「そして村の井戸に何か...異変があるとの報告もあります」
ダニエルの頭の中で警報が鳴った。高熱、激しい下痢、水源の汚染...これはコレラのような消化器系感染症の可能性が高い。
「村に到着したら、まず患者を隔離する必要があります。そして水源の検査を」
ラーンは首をかしげた。「隔離?」
「はい。この種の病気は人から人へと広がる可能性があります。病人との接触を制限し、健康な人々を守る必要があるのです」
「伝染る...」ラーンは考え込むように言葉を繰り返した。「我々の世界でも『悪い空気』や『邪気』が病を運ぶという考えはありますが、人から人へというのは...」
ダニエルは現代医学の基本的な概念を説明しながら、持参した医療道具の確認をした。聴診器、体温計(幸い電池式ではない水銀式のもの)、いくつかの基本的な薬品、包帯や消毒用アルコールなど。限られたリソースで最大限のことをするには、創意工夫が必要だ。
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ソレイル村は百戸ほどの小さな集落だった。村の入り口では、疲れた表情の男が彼らを待っていた。村長のトマスだ。
「賢者様がついに」トマスは深々と頭を下げた。「村の半数以上が病に倒れ、すでに五人が命を落としました...」
ダニエルは馬車から降り、状況を把握しようとした。村の中央付近に人々が集まっており、うめき声や泣き声が聞こえる。
「私は医師です。まず患者たちを見せてください。そして、使われていない建物があれば、そこを臨時の治療所にしたいと思います」
村長は急いで彼らを案内した。村の集会所が臨時の病室となっていた。そこには二十人ほどの患者が雑魚寝状態で横たわっていた。うち何人かは明らかに重症で、脱水症状を示していた。
ダニエルは迅速に行動し始めた。まずは最も重症な患者から診察。
「水を沸かしてください、できるだけたくさん」彼はエマに指示した。「そして塩があれば少量持ってきてください」
「塩、ですか?」エマは不思議そうに尋ねたが、すぐに駆け出した。
ラーンはダニエルの診察を見守っていた。「これは魔術的な病ではないようですね」
「ええ、これは細菌感染症の可能性が高い」ダニエルは患者の腹部を優しく触診しながら答えた。「細菌とは目に見えない小さな生き物で、水や食物を通じて広がります」
重症患者たちは深刻な脱水状態にあった。現代の点滴設備がない中、ダニエルはできるだけの代替手段を考えなければならない。
「経口補水液を作ります」彼は戻ってきたエマに説明した。「沸かした熱湯に少量の塩と可能なら砂糖を混ぜ、冷ましたものを少しずつ患者に飲ませるのです」
エマは驚いた顔で尋ねた。「そんな単純なもので効果があるのですか?」
「脱水は体の水分と塩分のバランスが崩れた状態です。これを補充するのが最優先です」
ダニエルは村長に近づいた。「トマスさん、この病気は水を介して広がる可能性があります。村の水源はどこですか?」
「中央の井戸です」トマスは答えた。「村のほとんどがそこから水を汲んでいます」
「すぐに確認する必要があります。そして村人全員に、水は必ず沸騰させてから飲むよう伝えてください」
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井戸は村の中心部にあった。周囲には数人の村人が水を汲もうとしていた。
「皆さん、今はこの井戸の水を使わないでください」ダニエルは声を上げた。「別の水源はありますか?」
「山の湧き水が村の東にありますが、遠いです...」ある村人が答えた。
ダニエルは井戸を調査した。表面上は普通に見えるが、問題は目に見えないところにある可能性が高い。
「上流に家畜小屋や墓地はありますか?」
村長は考え込んだ。「新しい家畜小屋を先月、井戸の北側に作りました...」
ダニエルとラーンは家畜小屋を調べた。そこで彼らは重要な発見をした。小屋からの排水が地下に浸透し、井戸の水源を汚染している可能性が高かった。
「これが原因です」ダニエルは説明した。「家畜の排泄物に含まれる細菌が地下水を汚染し、井戸を通じて村全体に広まったのでしょう」
ラーンは呆然としていた。「目に見えない小さな生き物が、これほどの災いを...」
「細菌は目に見えなくても、その影響は甚大です」ダニエルは厳しい表情で言った。「今すぐに井戸の使用を中止し、飲料水はすべて沸騰させる必要があります。そして患者の排泄物の処理も適切に行わなければ」
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次の数日間、ダニエルはほとんど休みなく働いた。エマと村の若者たちが助手となり、患者への経口補水液の投与、衛生管理の徹底、新たな患者の発見と隔離を進めた。
村の東の湧き水から水を運ぶ係、沸かした水を冷ます係、患者の体を拭く係...村人たちは組織化され、次第に状況は改善へと向かい始めた。
三日目の夕方、ダニエルは臨時の診療所の外で深呼吸をしていた。疲労が体を覆っているが、最も重症だった患者たちも回復の兆しを見せ始めていた。
「シェパード医師」
振り返ると、エマが水の入った杯を差し出していた。
「沸かして冷ました水です」彼女は微笑んだ。「先生のおかげで、新たな患者は出ていません」
ダニエルは感謝してそれを受け取った。「これはみんなの協力のおかげだよ」
エマは真剣な表情で言った。「先生の知識がなければ、もっと多くの命が失われていたでしょう。私...医師というものにとても興味を持ちました」
「医師に興味があるの?」
「はい。人を救うための知識...それを学びたいと思います」
ダニエルは彼女をじっと見た。昨日まで過換気発作を起こしていた少女が、今は冷静に医療活動を手伝っている。人間の適応力と成長力は驚くべきものだ。
「よし、では基本的なことから教えていこう」
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それから二日後、村は徐々に平常を取り戻しつつあった。残念ながら合計七人の命が失われたが、他の患者たちは回復に向かっていた。村人たちはダニエルの指示に従い、井戸を一時的に封鎖し、家畜小屋の排水システムを改良する作業を始めていた。
「シェパード医師、王城に戻る準備ができました」ラーンが告げた。「陛下も状況を聞き、あなたの働きに感謝の意を表されています」
ダニエルは最後の患者たちを診察し、村長とエマに今後の注意点を説明した。
「水は必ず沸騰させること。患者の寝具は日光にさらすこと。そして何よりも、手をこまめに洗うことです」
トマス村長は深々と頭を下げた。「恩人よ、どうお礼を言えばよいのか...」
「礼は不要です。ただ、これからも衛生管理を徹底してください」ダニエルは微笑んだ。「そして、新しい井戸を掘るときは、家畜小屋や墓地から十分離れた場所にしてください」
帰路につく馬車の中、ダニエルはノートに詳細な記録を残していた。この世界の医学知識は中世ヨーロッパのそれに近く、感染症の概念や予防医学はほとんど発展していないようだ。彼の知識が役立つ場面は多いだろう。
「医師としてのあなたの腕前は本物ですね」ラーンが感心したように言った。「特に心の病だけでなく、身体の病にも精通されているとは」
「医学部では全ての分野を学びます」ダニエルは説明した。「私は精神科を専門としていますが、基本的な医学知識は持っています。特に田舎の総合病院では、専門にかかわらずあらゆる症例に対応することも珍しくありませんでした」
「総合病院とは?」
「様々な病気を一箇所で診る施設です。私の世界では、医学はかなり細分化されていますが、基礎は共通しています」
馬車は揺れながら進み、夕暮れの景色が窓の外を流れていく。エマは疲れて眠り込んでいた。
「彼女には素質がありますね」ラーンがエマを見て静かに言った。「知識を吸収する速さは驚くべきものです」
「同感です」ダニエルは同意した。「彼女には医学の基礎を教えてもいいかもしれません」
「それは素晴らしい考えです」ラーンは目を輝かせた。「王宮での診療所の準備は整っています。そこで彼女を助手として育てられるでしょう」
ダニエルは窓の外を見つめた。この世界に来てわずか一週間。しかし、すでに彼の役割が形成されつつあるようだった。元の世界に戻る方法はまだ見つかっていないが、今はこの世界の人々のために働くことに意義を感じていた。
「ラーンさん、アストラル王国には他にどのような病気が蔓延しているのですか?」
ラーンは物思いにふける表情をした。「北方の港町ヴェンティアでも、似たような症状の病が広がっているという報告があります。そして...」
彼は少し躊躇した後、続けた。
「そして、戦地からは多くの負傷兵が戻ってきています。傷は治っても、心に傷を負った者たちが...」
ダニエルは身を乗り出した。「PTSDのような症状ですか?悪夢、フラッシュバック、過度の警戒心...」
「まさにその通りです」ラーンは驚いたように彼を見た。「あなたの世界でも知られている病なのですか?」
「はい、特に戦争を経験した兵士に多く見られます。それは私の専門分野の一つでもあります」
ラーンの顔に安堵の表情が広がった。「では、次はそうした兵士たちの治療も...」
「もちろん」ダニエルは頷いた。「彼らの助けになれるでしょう」
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王城に戻ったその夜、ダニエルは彼のために用意された部屋でノートをまとめていた。ソレイル村での経験、治療法、今後の課題について詳細に記録する。
突然、扉が小さくノックされた。
「どうぞ」
ドアが開き、エマが恐る恐る顔を覗かせた。
「シェパード先生、お休み前に一つだけ質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろん、エマ。何でも聞いてくれ」
「先生は...ずっとここにいてくださるのですか?」彼女の声には不安と期待が混ざっていた。
ダニエルは少し考え込んだ。正直なところ、彼自身もわからない。いつか元の世界に戻る方法が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
「わからないよ、エマ」彼は正直に答えた。「でも、今はここで必要とされている。だから、できる限りのことをする」
エマは安心したように微笑んだ。「明日から先生の助手として頑張ります」
「ありがとう。明日からは医学の基礎から教えていこうと思うよ」
彼女が去った後、ダニエルは窓の外の満天の星空を見上げた。地球とは異なる星座が、彼の新たな現実を照らしていた。
「できる限りのことをする...」彼は自分の言葉を繰り返した。「一歩ずつ、この世界の医療を変えていこう」
明日からは王城での診療が始まる。そして、彼が知る限り最も有効な医学知識を、この世界に伝えていく長い旅の始まりだった。
ノートの最後のページに、彼は一行だけ書き加えた。
「白亜館診療録:第一章 消化器系感染症と水質衛生管理の重要性」
これが、やがて何百ページにも及ぶ医学書の最初の一行となることを、彼はまだ知らなかった。