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知の迷宮に埋まる者

白亜館の評判はさらに広がり、王立学院からも訪問者が増えていた。王立学院は王国最高の学術機関で、様々な分野の学者や研究者が集う場所だった。多くの場合、彼らの相談は体の不調というより、研究や創造活動における行き詰まりや心の問題に関するものだった。


そんなある日、王立学院の若き教授セオドール・ウィズがダニエルのもとを訪れた。彼は魔法理論と古代文明研究の分野で輝かしい功績を持つ天才と評されていたが、初対面の印象は意外なものだった。


セオドールは三十代前半と思われる痩せた男性で、常に何かを考えているかのような遠い目をしていた。服装は上質ながらも乱れており、インクのシミや羊皮紙の切れ端が至るところについていた。彼の登場時、大きな鞄から次々と書類や小さな古代の遺物が落ちていき、エマが慌てて拾い集める一幕もあった。


「申し訳ない、申し訳ない」セオドールは何度も繰り返し謝りながら、自分でも拾おうとしたが、かえって混乱を広げるだけだった。


ようやく診察室に案内され、セオドールはダニエルの前に座った。


「何をお手伝いできますか?」ダニエルが穏やかに尋ねた。


セオドールはため息をついてから、おもむろに話し始めた。


「私は...整理ができないのです」彼は苦しそうに言った。「研究室は資料と遺物で溢れ、もはや足の踏み場もない。学院長からは何度も整理するよう命じられていますが、一向に進みません」


「整理が難しいのは、どのような理由からでしょうか?」


セオドールは手を組み、解くを繰り返しながら言葉を探した。


「捨てられないのです。どの資料も、どの遺物のかけらも、私の研究にとって重要かもしれないと...」彼は少し興奮気味に続けた。「それに、これらは私が何年もかけて集めたものです。一つ一つに思い出や発見の喜びが詰まっています。それを捨てるなど...」


彼の声が震えた。「それは私自身の一部を否定するようなものです」


ダニエルはその言葉に注目した。物を捨てることと自己価値の否定を結びつける考え方は、現代医学でいうホーディング障害(溜め込み症)の特徴的な思考パターンだった。


「研究室の状態によって、どのような問題が生じていますか?」


「探し物が見つからず、貴重な時間を無駄にします。約束の資料を学生に渡せないこともしばしば...」セオドールは恥ずかしそうに顔を伏せた。「最近は同僚たちも私の研究室に入ることを避けるようになりました。空気が悪いと言われます」


さらに話を進めると、彼の問題は研究室だけにとどまらないことが明らかになった。彼の私室も同様に物で溢れ、生活に支障をきたしていた。食事をする場所も確保できず、ベッドの上にも資料が積まれていたという。


「時々、その山が崩れて眠れないこともあります」彼は弱々しく笑った。「でも、それらを片付ける考えさえ...恐ろしいのです」


「恐ろしい?」ダニエルは穏やかに促した。


「はい...」セオドールの目に不安の色が濃くなった。「もし大切な資料を誤って捨ててしまったら?それは取り返しがつきません。また、これらの資料は私がどれだけ努力してきたかの証です。それを捨てることは...私の人生の努力を否定するようで...」


彼は言葉を詰まらせた。「私がこれまで積み上げてきたものは、これらの資料の中にしかないのです。それを整理することは、私自身を...無にすることのように感じるのです」


ダニエルはセオドールの苦しみを理解した。彼にとって、それらの物は単なる「もの」ではなく、自己価値や安全の感覚と深く結びついていたのだ。


「セオドール教授、あなたの感じている恐れは理解できます」ダニエルは共感を示した。「物を整理することと自己価値を結びつける考え方は珍しくありません。これから一緒に、その恐れに向き合い、少しずつ克服していく方法を考えていきましょう」


---


まず、ダニエルとエルネはセオドールの研究室を訪問することにした。王立学院の古い建物の一角にある彼の研究室は、想像以上の状態だった。


床から天井まで積み上げられた書物や羊皮紙、棚から溢れる古代の遺物や標本。わずかな通路以外、床の上も資料で覆われていた。窓は資料の山で半ば塞がれ、外からの光はかろうじて室内に差し込んでいた。埃と古い紙の匂いが充満し、長時間そこにいることは健康上も問題があると感じられた。


「私にとっては、これは混沌ではありません」セオドールは弁解するように言った。「私は大体の場所を把握しています。ただ、時々見失うことがあるだけで...」


「しかし、このような環境では研究効率も下がるのではないでしょうか?」エルネが優しく尋ねた。


「それは...確かに」セオドールは渋々認めた。「最近は必要な資料を見つけるのに何時間もかかることがあります。しかし、整理のために時間を使うのも惜しいのです。新しい発見がいつも私を待っているのですから」


ダニエルは穏やかに言った。「まず理解していただきたいのは、私たちはあなたの研究や知識を否定するためにここにいるのではないということです。むしろ、あなたの貴重な研究をより効果的に進められるようサポートするためです」


セオドールの緊張が少し解けたようだった。


「では、一緒に小さな一歩から始めましょう」ダニエルは提案した。「まず、明らかに不要なもの—例えば空の瓶や壊れた容器、内容のない紙片など—から整理してみてはどうでしょう」


セオドールは恐る恐る頷いた。「それなら...試せるかもしれません」


---


その後、ダニエルとエルネは定期的にセオドールの研究室を訪れ、段階的な整理の過程をサポートしていった。彼らのアプローチは、セオドールの恐怖に配慮した慎重なものだった。


まず、物を「捨てる/捨てない」という二択ではなく、「今すぐ必要/将来必要かもしれない/もう必要ない」という三つのカテゴリーに分類することから始めた。


「100点法」も導入した。セオドールが各資料に0から100の点数をつけ、特定の基準値(最初は30点)未満のものを整理するというシステムだ。


「このシステムの利点は、あなた自身が価値判断をするという点です」ダニエルは説明した。「他人があなたの大切なものを勝手に捨てるわけではありません」


この方法はセオドールにとって受け入れやすく、最初の数日で明らかに不要な物—空のインク瓶、何度も複製された同じ文書、壊れた器具など—が整理された。


しかし、より価値判断が難しい資料については、依然として強い抵抗を示した。


「この古代語の断片は、私が三年前に発見したものです」セオドールは一枚の変色した羊皮紙を手に取った。「まだ解読できていませんが、これが将来、大きな発見につながるかもしれません」


「それはとても貴重に感じられますね」エルネが共感的に言った。「でも、もしそれを適切に保管し、いつでも取り出せるようにしておけば、床に積まれるよりも安全ではないでしょうか?」


この視点の転換—「捨てる」のではなく「より適切に保管する」という考え方—が、セオドールの抵抗を少しずつ和らげていった。


---


二週間後、セオドールの研究室には目に見える変化が生じていた。床の資料の多くは整理され、主要な通路は確保されていた。まだ多くの資料が残っていたが、以前のような混沌とした状態ではなくなっていた。


この過程で、ダニエルとエルネはセオドールの根底にある恐怖にも取り組んでいった。


「セオドール、あなたの価値はこれらの物とは別にあります」ある日、整理作業の休憩中にダニエルは静かに言った。「あなたの知識、洞察力、創造性—それらはこの部屋から何かを取り除いても変わりません」


セオドールは不安げに言った。「でも、これらの資料がなければ...私は何者でもないような気がするのです」


「その考えを少し探ってみましょう」ダニエルは促した。「なぜそう感じるのでしょうか?」


セオドールは言葉に詰まり、しばらく考え込んだ。「子供の頃から、私は本や知識に囲まれていることでしか安心を感じられませんでした。他の子どもたちはよく遊びましたが、私は図書館で過ごすことが多かった」


彼は懐かしむように続けた。「本の中の知識だけが、私に価値を与えてくれたのです。私自身には...特に何もなかったから」


この自己開示がセオドールの行動の深層にある不安を示していた。彼は幼い頃から、知識を蓄積することでしか自己価値を確認できなかったのだ。


「知識を大切にすることは素晴らしいことです」ダニエルは言った。「しかし、あなたの価値はそれだけではありません。あなたの創造性、好奇心、教える能力—それらは資料を整理しても失われません」


「時々、私は知っていることと自分自身を区別できないのです」セオドールは告白した。


「それが整理を難しくしている根本的な理由かもしれませんね」ダニエルは指摘した。「資料を手放すことは、自分自身の一部を失うように感じるのでしょう」


---


次の段階として、彼らは「価値の外在化」という概念を導入した。セオドールが集めた資料や知識を、物理的な形でなくとも保持できる方法を模索し始めたのだ。


「これらの資料のエッセンスを抽出するとしたら?」ダニエルは提案した。「例えば、特に重要な発見や考察を一冊の本にまとめるという方法はどうでしょう」


セオドールの目が輝いた。「私の研究のエッセンス...それは確かに価値があるかもしれません」


彼らは「セオドールの研究精髄」と名付けた特別な本を作ることにした。これは単なる記録ではなく、彼の学者としての洞察や発見を凝縮したものだ。物理的な資料を整理しても、その知的価値はこの本に保存されるという考え方だった。


同時に、適切な保管システムも導入した。本当に大切な資料は丁寧に分類し、見つけやすいように整理した。いつでもアクセスできるが、日常の生活や研究の妨げにならない方法だ。


「こうすれば、資料を『失う』のではなく、より効率的に『活用する』ことができます」エルネは説明した。


セオドールは少しずつ、この新しい考え方に適応していった。特に「研究精髄」の作成は彼の熱意を引き出し、過去の資料を再評価する良い機会となった。


「実は、これらの資料を読み返してみると、もう必要ないものも多いことに気づきます」ある日、彼は驚いたように言った。「私の研究は既に進んでおり、以前の仮説の多くは検証済みなのです」


---


一ヶ月後、セオドールの研究室は劇的に変わっていた。床は完全に片付き、書棚には整然と分類された資料が並んでいた。書類は適切にファイルされ、遺物はガラスケースに展示されていた。窓は完全に開放され、新鮮な空気と光が部屋に満ちていた。


さらに驚くべきことに、セオドールの研究自体も進展していた。


「整理されたことで、以前は見えなかった資料間の関連性に気づくようになりました」彼は興奮して報告した。「実は、古代ブルーム文明の言語解読に大きな進展があったのです!」


彼の目には新たな自信が宿っていた。不安と恐怖に支配されていた表情は消え、代わりに落ち着きと知的な輝きが感じられた。


「セオドール教授、素晴らしい進歩です」ダニエルは心から言った。「物理的な空間だけでなく、心の中も整理されたようですね」


「はい...」セオドールは深く頷いた。「私は物を失うことを恐れていました。しかし実際には、それらを手放すことで多くを得たのです」


---


白亜館での最後のセッションで、セオドールは一冊の立派な本を持ってきた。


「私の『研究精髄』の最初の巻です」彼は誇らしげに差し出した。「実は、これをシリーズにする計画を立てています。分野ごとに整理された私の発見と理論のコレクションです」


本を開くと、見事なイラストと詳細な注釈付きの文章が目に入った。セオドールの長年の研究が、混沌とした山から秩序ある知識体系へと変換されていた。


「素晴らしい」エルネは感嘆した。「これこそあなたの本当の価値が形になったものですね」


「はい」セオドールは優しく本を撫でた。「私はようやく理解したのです。価値は物そのものにあるのではなく、それらから抽出される知恵にあるのだと」


ダニエルはうなずいた。「そして、その知恵はあなたの中にあります。外側の物が減っても、あなたの内側の価値は変わりません」


「それどころか、増しているとさえ感じます」セオドールは笑顔を見せた。「今では研究に充てる時間が増え、思考も整理されました。そして、他の学者や学生とも交流できるようになりました」


彼は少し照れくさそうに付け加えた。「来週から、私の研究室で定期的なセミナーを開催することになりました。以前は想像もできなかったことです」


---


セオドールが去った後、ダニエルは医学ノートに新たな章を記した。


「物への執着と自己価値 - セオドールの症例」


「溜め込み(ホーディング)の傾向は、単なる整理整頓の問題ではなく、深層心理と密接に関連している。セオドールの場合、物を捨てることへの恐怖は、自己価値の否定という根本的な不安に基づいていた。彼にとって、収集した資料は単なる『もの』ではなく、彼の人生の努力、知性、そして存在意義そのものを表すシンボルだったのである。」


「治療の鍵となったのは、『捨てる/保持する』という二項対立を超えた視点の提供だった。特に効果的だったのは、物理的な形ではなく、知識のエッセンスを保存する方法の開発、そして自己価値が外部の物ではなく内面の資質にあることの再認識である。」


「注目すべきは、整理のプロセスが単に空間を開放しただけでなく、思考の整理にもつながったことだ。物理的空間と精神的空間は密接に関連しており、外部の混沌が内面の混乱を反映し、また強化していたと考えられる。」


「セオドールの変化は、私たちの『所有』という概念にも問いを投げかける。真に価値のあるものは物質的な所有物ではなく、それらを通じて得られる知恵や経験かもしれない。この気づきは、彼に新たな自由と創造性をもたらした。」


ダニエルはペンを置き、窓の外を見た。王立学院の方角には、セオドールの研究室の窓から漏れる明かりが見えるようだった。かつては物に埋もれていたその部屋で今、新たな知が生まれつつあることを想像すると、彼は静かな満足感に包まれた。


白亜館での活動は、様々な形で人々の人生を変えていた。それは単に症状を治すことではなく、人々が自分自身と世界との関係を再構築するための助けとなっていたのだ。

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