実直な新兵と上官
新しい白亜館の評判は日に日に高まり、診療を求める人々が王国の各地から集まるようになっていた。身体の病だけでなく、心の悩みを抱えた患者たちも多く、ダニエルとエマ、エルネの三人は、新たに加わったスタッフたちと共に多忙な日々を送っていた。
ある秋の午後、白亜館に一人の騎士が訪れた。彼は王国騎士団の小隊長であるマルカス・ヴェインという壮年の男性で、顔には長年の戦いで得たと思われる傷跡があった。彼はエマの案内で診察室に入ると、緊張した面持ちでダニエルの前に立った。
「シェパード医師、お話があります」彼は儀礼的に会釈した。「私の部下についてです」
ダニエルは彼を椅子に座るよう促した。「どのような問題でしょうか」
マルカスは少し言葉を選ぶように間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。
「私の小隊に、ガレスという若者がいます。体格も良く、心も優しい。剣の腕前も悪くない。しかし...」
彼は深いため息をついた。
「非常に要領が悪い。同じ指示を何度説明しても理解できず、隊列訓練では常に間違った位置にいる。最初は緊張しているだけだと思ったのですが、半年経った今でも改善しません」
「要領が悪い、とはどういうことでしょう?もう少し具体的に教えていただけますか?」ダニエルは医師として詳細を求めた。
「例えば、複数の指示を一度に出すと、最初か最後の一つしか覚えていません。訓練中に方向転換の号令をかけると、いつも一拍遅れて混乱します。また、装備の手入れの順序をいくら教えても、毎回違う順番でやってしまう」
マルカスは続けた。「彼は努力家です。むしろ誰よりも一生懸命です。夜遅くまで訓練し、早朝から起きて準備をする。しかし、結果が伴わないのです」
「彼自身はどう感じているのでしょう?」
「挫折しています」マルカスの表情が暗くなった。「最初は前向きでしたが、最近は自信をなくし、仲間からの冷やかしにも反応しなくなりました。私は彼を諦めたくないのです。彼には何か...特別なものを感じるのです」
ダニエルはしばらく考え込んだ。マルカスの説明からは、現代医学で言うところのADHD(注意欠如・多動性障害)や、学習障害の可能性が示唆されていた。
「その若者に会うことは可能でしょうか?」
マルカスはうなずいた。「可能です。実は...彼は外で待っています」
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ガレスは20歳ほどの若者で、がっしりとした体格と明るい茶色の髪が特徴的だった。彼は診察室に入ると、堅苦しく敬礼し、椅子に座るよう促されても背筋をピンと伸ばしたままだった。
「ガレス、リラックスして大丈夫ですよ」ダニエルは優しく声をかけた。「ここは軍の訓練場ではありません」
「すみません、先生」ガレスはぎこちなく椅子に腰掛けた。「私、緊張すると余計に頭が働かなくなるんです」
その素直な自己認識に、ダニエルは微笑んだ。「マルカス隊長から少し話は聞きました。あなた自身の言葉で、困っていることを教えてもらえますか?」
ガレスは深呼吸をして、少しずつ話し始めた。幼い頃から「のろま」と呼ばれ、学校でも指示を理解するのに苦労したこと。努力はするものの成果が出ず、「怠け者」と誤解されることが多かったこと。それでも騎士になる夢を諦めず、厳しい選抜を何とか通過したことなど。
「でも、実際の訓練は学科試験より難しいです」彼は肩を落とした。「頭では分かっているのに、体がついていかないんです。特に、みんなと同じ速さで動くことが...」
ダニエルは彼の話をじっくり聞きながら、特徴的な症状をノートに記していった。情報の処理速度の遅さ、複数の指示を同時に処理することの困難、順序立てて行動することの苦手さ。これらはADHDの特性と一致していた。
「何か、特に得意なことはありますか?」ダニエルは肯定的な側面も探った。
ガレスの顔が少し明るくなった。「剣の型稽古なら得意です。同じ動きを繰り返す練習は好きなんです。あと、動物の世話も。馬が特に懐いてくれます」
「それは素晴らしい才能ですね」ダニエルは真剣に言った。「人それぞれ、得意なことと苦手なことがあります。それは怠け者だからではなく、脳の働き方の違いなのです」
ガレスは驚いたように顔を上げた。「脳の...違い?」
「そうです。あなたの脳は、おそらく情報の処理の仕方が少し違うのです。それは劣っているという意味ではありません。むしろ、動物との共感能力や繰り返しの訓練への忍耐力という強みにもつながっているのでしょう」
ガレスの目に涙が浮かんだ。「先生...私は今まで、自分が単に愚かだと思っていました」
「決してそんなことはありません」ダニエルはきっぱりと言った。「あなたに必要なのは、自分の特性に合った学び方と訓練方法なのです」
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診察の後、ダニエルはマルカスを呼び、ガレスの状態について説明した。
「ガレスは『注意の向け方』と『情報処理』に独特の特性を持っています。これは、現代医学ではADHDと呼ばれる状態に近いものです」
「病気なのか?」マルカスは心配そうに尋ねた。
「病気というより、脳の働き方の違いです」ダニエルは丁寧に説明した。「複数の指示を一度に処理することが苦手で、注意を切り替えるのにも時間がかかります。しかし、興味のあることには深く集中できるという強みもあります」
マルカスは理解しようと努めながら聞いていた。「では、彼を助けるには?」
「訓練方法の調整が鍵になります」ダニエルは提案した。「例えば、複数の指示を一度に出すのではなく、一つずつ確認しながら進める。視覚的な手がかりを増やす。そして、彼の強み―繰り返しの訓練への適性や動物との親和性―を活かす役割を見つけることです」
ダニエルはさらに具体的な提案を続けた。
「訓練内容を小さな段階に分ける。各段階をマスターしてから次に進む」
「口頭での指示だけでなく、視覚的なデモンストレーションを加える」
「騎乗戦闘のような、彼の動物との親和性を活かせる専門分野を検討する」
「彼に合った、独自の装備管理の方法を一緒に考える」
マルカスはしばらく考え込んだあと、決意を固めたように言った。「試してみる価値はある。彼には確かに素質がある。私も教え方を変えてみよう」
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一週間後、ガレスは訓練方法の調整について報告するために白亜館を再訪した。彼の表情は前回よりも明るく、自信に満ちていた。
「先生、信じられません!」彼は興奮した様子で言った。「マルカス隊長が訓練方法を変えてくれたんです。一つずつ指示を出してくれて、次の動作に移る前に確認してくれるんです」
ダニエルは嬉しそうにうなずいた。「効果がありましたか?」
「はい!混乱することが少なくなりました。それに、装備の手入れも、隊長が絵で手順を描いてくれたんです。それを見ながらだと、順番を間違えることが少ないんです」
ガレスはさらに続けた。「それと...隊長が私の馬術の才能を認めてくれました。来月から騎馬部隊の特別訓練に参加させてもらえることになったんです」
「素晴らしいですね」ダニエルは心から喜んだ。「マルカス隊長は良き理解者のようですね」
「はい」ガレスは感謝の念を込めて言った。「隊長は他の隊員たちにも、私への接し方を説明してくれました。みんなも少しずつ理解してくれるようになりました」
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翌日、マルカスも報告に訪れた。彼は明らかに満足した表情で、ガレスの進歩について語った。
「あなたの助言は効果がありました。ガレスは確かに進歩しています。特に、視覚的な手がかりが彼には大きな助けになっているようです」
「素晴らしい」ダニエルは言った。「何より大切なのは、彼の特性を『欠陥』ではなく『違い』として理解することです」
マルカスはうなずいた。「実は...私自身も似たような経験をしてきたのかもしれません。若い頃は指示理解に苦労し、何度も叱責されました。だからこそ、ガレスの苦労が分かるのです」
「それは貴重な共感ですね」ダニエルは関心を示した。「その経験があるからこそ、彼を支援できるのでしょう」
「ええ」マルカスの表情が柔らかくなった。「私はかつての上官のような厳格さではなく、理解と適応を重視したいのです」
二人はさらに、騎士団全体に対してこのような理解を広めるための方法について話し合った。マルカスは、戦術や訓練方法の多様化について考え始めていた。これまでの「一律の訓練」ではなく、個々の兵士の特性に合わせた柔軟なアプローチが、結果的に部隊全体の能力を向上させるかもしれないという考えだ。
「それはまさに白亜館が目指していることと一致しています」ダニエルは熱心に同意した。「一人一人の特性を理解し、それを活かす環境を創ることで、全体がより良くなる」
マルカスは立ち上がりながら言った。「先生、あなたの知識は戦場でも価値があります。機会があれば、騎士団の指揮官たちにも、このような考え方を紹介していただけませんか」
「喜んで」ダニエルは答えた。「人の多様性を理解することは、あらゆる組織にとって重要です」
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それから一ヶ月後、白亜館で小規模なセミナーが開催された。王国騎士団の数名の指揮官が参加し、ダニエルとエルネが「戦士の多様性と強み」というテーマで講義を行った。
「兵士一人一人が異なる特性を持っています」ダニエルは説明した。「それを理解し、適切に配置することで、部隊全体の能力が向上します」
エルネも自身の経験から語った。「私自身も完璧主義という特性に悩まされてきました。しかし、それを『欠点』ではなく『特徴』と捉えることで、薬草の調合など細心の注意が必要な作業に活かせるようになりました」
参加した指揮官たちは、最初こそ懐疑的だったが、マルカスの部隊での成功例を聞き、徐々に興味を示し始めた。
「個々の能力を活かす戦術...確かに理にかなっている」年配の指揮官がつぶやいた。
セミナーの最後に、サプライズゲストとしてガレスが登場した。彼は騎馬部隊での訓練について語り、自分の特性に合った環境でどれだけ成長できたかを証言した。
「私はこれまで、自分が劣っていると思っていました」彼は堂々と語った。「しかし今は分かります。私には私の役割があると」
この言葉に、会場には深い共感が広がった。
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セミナーの成功を受けて、ダニエルは医学ノートに新しい章を記した。
「学習と注意の多様性 - ガレスの症例」
「現代医学でADHDと呼ばれる特性は、この世界でも存在する。情報処理の速さ、注意の向け方、実行機能(計画や順序立てなど)に独自の特徴がある人々だ。彼らは『怠け者』や『のろま』と誤解されやすいが、適切な環境と支援があれば、その独自の強みを発揮することができる。」
「ガレスの場合、訓練方法の調整(一つずつの指示、視覚的サポート)と、彼の強み(馬との親和性、繰り返し訓練への忍耐力)を活かす役割の提供が効果的だった。」
「特筆すべきは、マルカス隊長のような理解者の存在の重要性だ。自身も類似の経験を持つ彼の共感的理解が、ガレスの成長を支えた。これは『治療』が個人だけでなく、環境や社会の変化を含む広範なものであることを示している。」
「また、騎士団のセミナーに見られるように、一人の症例が組織全体の変革につながる可能性もある。『多様性』という概念が、軍事組織のような伝統的な場にも浸透し始めている点は注目に値する。」
ダニエルはペンを置き、窓から見える白亜館の庭を眺めた。そこでは、ガレスが数人の若い兵士たちと馬の手入れについて熱心に説明していた。かつて「要領が悪い」とされた彼が、今は教える側に立っているのだ。
これこそが真の成功だとダニエルは感じた。症状を「治す」ことではなく、その人がありのままの自分を活かせる場を見つけることこそが重要なのだ。
アストラル王国の医療は、少しずつ変わりつつあった。そしてその変化は、単に病気の治療法だけでなく、人々の多様性をどう理解し、尊重するかという社会的な視点にまで広がりつつあった。
ダニエルは満足げに微笑み、次の患者のカルテを開いた。