口先ばかりの書記官?
白亜館の評判が王国中に広まるにつれ、訪れる患者の層も多様化していった。身体の病だけでなく、心の悩み、さらには人間関係や仕事の問題まで、様々な相談が持ち込まれるようになっていた。
冬の到来を告げる冷たい風が吹きすさぶある日、一人の若い男性が白亜館を訪れた。彼はレオルト・ヴァンダーという名の書記官で、王立図書館に勤務していた。華奢な体つきで、柔らかな金褐色の髪を耳にかけ、知的な印象を与える青年だった。
「どうなさいましたか?」エマが受付で彼に尋ねた。
レオルトは少し緊張した様子で、声を低めて答えた。「私は...仕事の問題で相談があるのですが...ここで良いのでしょうか?」
「もちろんです」エマは優しく微笑んだ。「白亜館では様々な悩みを扱っています。シェパード先生がお話を伺いますね」
診察室に案内されたレオルトは、ダニエルの前で深く息を吸ってから語り始めた。
「私は王立図書館の書記官として、三年前から働いています。主に古文書の整理と解析、また新たな文献の記録が私の仕事です」
彼は少し言葉を詰まらせながら続けた。
「問題は...私に対する評価が、同僚や上司の間で真っ二つに分かれていることです。一方では『頭脳明晰で洞察力がある』と高く評価され、別の人からは『口ばかりで仕事が遅い』と批判されます。最近、昇進の話がありましたが、この評価の不一致のために保留になってしまいました」
ダニエルは興味を持って前のめりになった。「具体的に、どのような場面で評価が分かれるのですか?」
「会議や討論の場では、私の意見や分析は高く評価されます。論理的思考や問題の本質を見抜く能力には自信があります」レオルトは少し誇らしげに言った後、表情を曇らせた。「しかし、日常の文書整理や事務処理となると...確かに私は遅いです。注意力が散漫になり、ミスも多い」
「それらの作業中、どのようなことが起きるのですか?」
レオルトは考え込むように目を閉じた。「興味のある内容であれば、何時間でも集中できるのです。しかし、単調な作業になると...私の心は別の場所に行ってしまいます。新しいアイデアが次々と浮かび、それを追いかけているうちに手元の作業が進まなくなる」
「それは苦しいでしょうね」ダニエルは共感を示した。
「はい...」レオルトの目に涙が光った。「私は怠け者ではないんです。むしろ、仕事に対する情熱は誰にも負けないつもりです。だから『口ばかり』と言われると...」
ダニエルはしばらく考えてから、さらに質問を続けた。彼の中で、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動性障害)の両方の特性を持つ可能性が浮かび上がっていた。論理的思考と特定分野への深い集中は前者の特徴であり、注意の制御困難と日常業務の組織化の苦手さは後者の特徴だった。
「子供の頃から、似たような傾向はありましたか?」
「ええ」レオルトはうなずいた。「学校では、理解力の高さで先生に気に入られる一方、宿題の提出が遅れたり、教科書の持ち物を忘れたりして叱られることも多かったです。友達作りも苦手で...」
「人間関係はどうですか?同僚との間で難しさを感じることはありますか?」
「時々、私の言い方が冷たいとか、直接的すぎると言われます」彼は肩をすくめた。「私は事実を述べているだけなのですが...感情面への配慮が足りないようです」
さらなる質問を通じて、レオルトの特性が明らかになっていった。彼は確かに知的能力が高く、特に論理的分析や抽象的思考に優れていた。歴史書や古文書の内容を驚くほど詳細に記憶し、異なる文献間の関連性を見出すことに長けていた。
一方で、日常の作業管理や感情の機微を理解することには困難を抱えていた。彼は自分の感情を言葉で表現することに苦労し、他者の非言語的なサインを読み取ることも苦手だった。
「レオルトさん、あなたの状態は一つの病気というよりも、脳の働き方の特性に関連しているように思います」ダニエルは丁寧に説明し始めた。「私の世界では、あなたのような特性はASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動性障害)の側面を併せ持つとされることがあります」
「病気なのですか?」レオルトは不安げに尋ねた。
「いいえ、病気というよりは脳の多様性の一つです」ダニエルは強調した。「論理的思考や詳細な記憶力という強みを持つ一方、日常的な組織化や社会的コミュニケーションに独特の課題を抱えることがあります」
ダニエルはレオルトの特性について詳しく説明し、それが彼の評価が分かれることとどう関連しているのかを解説した。レオルトは時に目を見開き、時に深くうなずきながら、初めて自分の長年の悩みに説明がついたという表情で聞いていた。
「では...私はこれからどうすれば?」彼はようやく口を開いた。
「まず大切なのは、自分の強みと課題を理解することです」ダニエルは答えた。「そして、環境を調整し、周囲の理解を得ることです。あなたの能力を最大限に発揮できる方法を一緒に考えていきましょう」
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次の数週間、レオルトは定期的に白亜館を訪れ、ダニエルとエルネの指導のもと、自己理解と環境調整の方法を学んでいった。
まず、彼自身の強みと苦手な領域を明確にするためのアセスメントを行った。強みとしては、卓越した記憶力、論理的思考能力、詳細への注意力、歴史や文献に関する深い知識と情熱が挙げられた。一方、苦手な領域としては、複数のタスクの管理、単調な作業への集中維持、対人コミュニケーションの機微の理解などがあった。
「あなたの強みは非常に価値があります」ダニエルは言った。「特に図書館という環境では、その分析力と記憶力は貴重な資産です」
エルネも自分の経験から助言を加えた。「私も完璧主義という特性から、すべてを自分でコントロールしようとして苦しみました。でも大切なのは、自分にできることと、助けを求めるべきことを区別することなのです」
レオルトは少しずつ自分を受け入れ始めていた。「私はずっと、すべてを上手くやらなければならないと思っていました。特に、簡単に見える日常業務ができないことが恥ずかしくて...」
「それが問題の核心かもしれません」ダニエルは指摘した。「誰でも得意なことと苦手なことがあります。苦手なことに助けを求めることは、決して無能の証ではないのです」
次に、彼らは具体的な戦略を考えていった。
1. 作業環境の調整:レオルトが集中しやすい静かな場所で働けるよう、図書館内の配置を変更する提案。
2. 視覚的な作業管理:日々のタスクを視覚化するためのボードシステムの導入。
3. 強みを活かす役割の再定義:彼の分析力を最大限に活かせる特別プロジェクトの提案。
4. コミュニケーションの工夫:同僚との意思疎通を改善するための具体的な方法。
5. 助けを求める習慣:苦手な作業について、適切に支援を要請する方法。
「大切なのは、あなたの特性を『直す』ことではなく、それを活かす方法を見つけることです」ダニエルは強調した。「そして、必要な場面で率直に助けを求めることです」
レオルトは不安そうな表情で尋ねた。「でも、助けを求めると、私が無能だと思われるのでは...」
「そうではありません」ダニエルはきっぱりと言った。「むしろ、自分の限界を理解し、チームの力を活用できる賢明さの表れです。優れたリーダーは、すべてを自分でできる人ではなく、適切なときに適切な人に頼れる人なのです」
これはレオルトにとって新しい考え方だった。彼はいつも、すべてを完璧にこなさなければならないという重圧を感じていた。助けを求めることが強さの表れになりうるという発想は、彼の中で何かを変えたようだった。
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三週間後、レオルトは上司の図書館長アルバート・ウィズダムと共に白亜館を訪れた。アルバート館長は60代の穏やかな学者で、レオルトの才能を高く評価する一人だった。
「シェパード医師、お招きいただきありがとうございます」アルバートは深々と頭を下げた。「レオルトが最近、大きく変わったことに気づきました。彼の提案で今日はここに来たのですが」
「お越しいただき光栄です」ダニエルは二人を応接室に案内した。「レオルトさんとは数週間、彼の強みをさらに活かす方法について話し合ってきました」
レオルトは以前より自信に満ちた様子で、準備してきた書類を広げた。「館長、私は自分の強みと弱みについて、より深く理解するようになりました。そして、図書館での私の役割を再考する提案があります」
彼は明確に整理された計画を説明し始めた。彼自身が「古文書解析専門」としての役割に特化し、日常的な文書管理は他のスタッフと協力して行うという提案だった。さらに、彼の分析力を活かした新しいプロジェクト—複数の歴史文献から王国の失われた歴史を再構築する研究—についても熱心に語った。
「また、私の...直接的なコミュニケーションスタイルについても改善を試みています」レオルトは少し照れくさそうに付け加えた。「感情面への配慮が足りないと指摘されてきましたので」
アルバート館長は感心した様子で聞いていた。「非常に具体的で建設的な提案ですね。実は、私もレオルトの才能を最大限に活かせる方法を模索していたところでした」
ダニエルは説明を加えた。「レオルトさんのような方は、特定の分野で並外れた能力を発揮する一方、他の領域では独自の課題に直面することがあります。重要なのは、その特性を理解し、強みを活かせる環境を整えることです」
「それは図書館全体にとっても有益ですね」アルバートはうなずいた。「各人の強みを活かし、弱みを補い合うチーム作り...私も長年、そのような環境を目指してきました」
レオルトは安堵の表情を浮かべた。「館長、私はこれまで自分の課題を隠そうとして、かえって問題を複雑にしていました。今は、率直に助けを求めることが、より良い結果につながると理解しています」
「その通りだ」アルバートは温かく言った。「誰も一人ですべてをこなせるわけではない。それがチームの意義だよ」
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計画が実行に移されて一ヶ月後、レオルトは進捗報告のために白亜館を再訪した。彼の表情には疲れがあるものの、以前のような緊張や自己否定の色は薄れていた。
「うまくいっています」彼は嬉しそうに報告した。「私は主に古文書解析と特別研究プロジェクトに集中するようになりました。日常業務については、新しい仕組みを導入しました」
彼が説明した新システムでは、各作業の担当者が明確化され、レオルトの苦手な作業は他のスタッフがサポートする代わりに、彼は分析や研究で貢献する体制になっていた。
「最も大きな変化は、私が助けを求められるようになったことです」レオルトは静かに言った。「以前は、自分一人ですべてをこなそうとして、結局は仕事が滞っていました。今は、苦手な作業に直面したとき、『これは私の強みではありません。サポートしていただけますか?』と率直に伝えられるようになりました」
「同僚の反応はどうですか?」エルネが尋ねた。
「最初は驚いていました」レオルトは笑顔を見せた。「私がこれまで頑なだったことを考えると当然です。しかし、私も同僚の苦手な分野—例えば古代文字の解読や複雑な資料の分析—を手伝うようになったことで、相互理解が生まれてきました」
彼は少し考え込んでから続けた。「以前は『口ばかりの書記官』と呼ぶ人たちもいましたが、今ではそれも減りました。私の分析や洞察が実際の成果につながっていることが見えるようになったからでしょう」
「素晴らしい進歩ですね」ダニエルは心から言った。「あなたが強みを活かしながら、課題にも正面から向き合っていることが伝わってきます」
「ただ、まだ完璧ではありません」レオルトは正直に認めた。「急ぎの雑務が発生したときなど、まだ混乱することがあります。そして、時々感情的な反応を理解できず、誤解を生むこともあります」
「完璧を目指す必要はありません」ダニエルは優しく言った。「大切なのは、継続的に学び、調整していくプロセスです。あなたは正しい道を歩んでいます」
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その翌週、思いがけない訪問者が白亜館を訪れた。レオルトとは一見正反対のタイプに見える、活発で社交的な女性書記官のエリーザだった。彼女はレオルトを「口ばかり」と批判していた一人だった。
「私はレオルトについて相談があります」彼女は少し緊張した様子で言った。「彼が最近変わってきて...私も自分の態度を見直すべきか考えています」
ダニエルは丁寧に話を聞いた。エリーザによれば、彼女はいつも期限内に効率よく仕事をこなすことに誇りを持っていた。レオルトの「遅さ」や「非効率さ」が彼女のイライラの種だったという。
「しかし最近、彼が率直に自分の苦手を認め、助けを求めるようになったことで、私の見方も変わりました」彼女は認めた。「そして、彼の分析力が図書館にとってどれほど価値があるかにも気づかされました」
「人は誰でも異なる強みと弱みを持っています」ダニエルは説明した。「チームとして最も効果的なのは、お互いの強みを活かし、弱みをサポートし合うことです」
「そうですね...」エリーザは考え込んだ。「実は私自身、古文書の分析や複雑な歴史的関連性の理解は苦手なんです。レオルトはそこを簡単に、しかも深く理解できる。私はいつもそれを妬ましく思っていたのかもしれません」
彼女は自分自身の気づきに少し驚いているようだった。
「私たちは往々にして、自分とは異なるタイプの人を理解しにくいものです」ダニエルは共感を示した。「しかし、その違いこそがチームを強くします」
エリーザは決意した表情になった。「レオルトに謝罪し、もっと協力的な関係を築きたいと思います。彼の強みを尊重し、私の強みで彼をサポートできれば...」
ダニエルはうなずいた。「それは素晴らしいアプローチです。相互理解と尊重から始まる協力関係は、皆にとって有益でしょう」
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それからしばらくして、王立図書館は大きな成果を発表した。失われていた王国創設期の歴史文書が、レオルトの主導する研究チームによって再構築されたのだ。複数の断片的な文献から関連性を見出し、空白を埋めるという複雑な作業は、彼の類まれな分析力なしには成し遂げられなかっただろう。
発表会に招待されたダニエルとエルネは、レオルトの誇らしげな姿と、彼を取り巻く協力的な同僚たちの様子を見て感動した。かつて評価が分かれていた彼が今や、チームの重要な一員として認められていたのだ。
発表会の後、レオルトは二人に近づいてきた。彼の横には、エリーザの姿もあった。
「シェパード先生、エルネさん、今日は来ていただきありがとうございます」レオルトは嬉しそうに言った。「この成果は、あなた方の助けなしには実現しなかったでしょう」
「成果を上げたのはあなたたちです」ダニエルは微笑んだ。「私たちは少しアドバイスをしただけです」
エリーザが言葉を継いだ。「私たちは最高のチームになりました。レオルトの分析力と私の組織力が組み合わさって、お互いの弱みを補い合っています」
「最初は難しかった」レオルトは正直に認めた。「助けを求めることは、私にとって大きな挑戦でした。自分が無能だと思われるのではないかという恐れがありました」
「しかし、それは逆だったわ」エリーザは笑った。「あなたが自分の限界を認め、協力を求めたことで、私たちも自分の限界を認めやすくなった。図書館全体がより...正直に、オープンになったと思う」
アルバート館長も加わり、白亜館での学びが図書館全体の文化にも影響を与えていると語った。「各人の強みを尊重し、弱みをサポートし合う文化が育ちつつあります。これは仕事の効率だけでなく、スタッフの幸福度にも良い影響を与えています」
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その夜、ダニエルは医学ノートに新しい章を記した。
「強みと弱みの認識 - レオルトの症例」
「ASDとADHDの特性を併せ持つレオルトの症例は、『能力の評価』がいかに一面的になりがちかを示している。彼は同僚から『頭脳明晰』と評価される一方、『口ばかりで仕事が遅い』とも批判されていた。しかし真実は、彼が特定の領域で並外れた能力を持つ一方、他の領域では独自の課題に直面していたということだ。」
「治療の鍵となったのは、自己理解と環境調整である。彼自身が自分の強みと弱みを理解し、それを周囲にも伝えられるようになったこと。そして、無理に『平均的』であろうとするのではなく、自分の強みを活かせる役割に特化し、弱みについては率直に助けを求める姿勢を身につけたことが重要だった。」
「特筆すべきは、『助けを求めることは無能の証ではない』という認識の転換である。レオルトは当初、すべてを自分でこなせなければならないという重圧に苦しんでいた。しかし、自分の限界を理解し、適切に協力を求めることが、むしろチーム全体のパフォーマンスを向上させることを学んだ。」
「また、この症例は個人の変化が環境全体に波及効果をもたらすことも示している。レオルトの変化は同僚や上司にも影響を与え、図書館全体の文化を変えつつある。一人一人の特性を尊重し、強みを活かし、弱みをサポートし合う文化は、医療の領域を超えた社会変革の可能性を示唆している。」
ダニエルはペンを置き、窓の外に広がる星空を見上げた。白亜館での活動は、単なる「治療」の枠を超え、社会の在り方そのものに影響を与え始めていた。人間の多様性を理解し、それぞれの特性を活かす社会—それはこの異世界でこそ、実現できるかもしれないと彼は感じていた。
エルネがそっと入ってきて、彼の隣に立った。「先生、今日の図書館での光景は感動的でした」
「ああ」ダニエルはうなずいた。「レオルトの旅は、私たち自身にも多くのことを教えてくれたね」
「はい。私自身も、完璧であろうとするのではなく、時には助けを求めることの大切さを学びました」エルネは静かに言った。
彼らは黙って夜空を見上げていた。明日もまた、新たな挑戦が待っている。白亜館の使命は続いていく。