王女の涙1
白亜館での診療が順調に進み始めて約半年が経った頃、ダニエルのもとに一通の密書が届いた。それは王宮から送られてきたもので、王太女エレノアに関する相談だった。
ラーンから直々に手渡された羊皮紙には、王太女の状態について簡潔な説明があった。
「太女殿下は、近頃、深い憂鬱に沈んでおられる。一月ほど前、亡き王妃の遺品整理をされた後から、夜な夜な涙に暮れ、しばしば現実から離れたように見えることもある。王は陛下ご自身がお見えになりたいところだが、政情不安により離宮を離れられぬため、シェパード医師に診察をお願いしたいとのこと。極秘裏に、速やかなるご対応を願う。」
ダニエルは書状を読み終え、ラーンを見上げた。「王女の...心の問題ですか」
「はい」ラーンは静かに答えた。「実は、私も少し心配しております。エレノア様は常に理性的で強い方でした。感情を表に出すことはめったになく...」
「感情を抑え込んできた方が、何かのきっかけで解放されることはあります」ダニエルは医師として答えた。「いつ診察に伺えばよいでしょうか」
「今夜、馬車を手配いたします。影の護衛がつきますが、できるだけ目立たぬように移動します」
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離宮は王都から半日ほど離れた湖畔に建っていた。夕暮れの光に照らされた白い建物は、水面に美しく映り込んでいる。政情不安のため、国王ロデリックは一時的にこの離宮に退避していたのだという。
ダニエルはエルネと共に馬車から降り、案内役の侍女に従って離宮の内部へと入っていった。王城とは異なり、こぢんまりとした優雅さのある建物だ。
「陛下がお待ちです」侍女は小さな応接間へと彼らを導いた。
室内では、ロデリック王が窓辺に立ち、外の湖を見つめていた。彼は振り向くと、ダニエルとエルネに深くうなずいた。
「シェパード医師、来てくれて感謝する」王の声には疲れが混じっていた。「白亜館での功績は聞き及んでいる。ドラゴンの心さえ癒せる医師なら、我が娘にも希望があるだろう」
「お力になれるよう努めます、陛下」ダニエルは丁寧に頭を下げた。「エレノア様の状態について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか」
王は椅子に腰掛け、深いため息をついた。
「エレノアは幼い頃から感情を表に出さぬよう教育されてきた。王家の者、特に次の統治者となる者には、常に冷静さが求められるからだ。彼女の母...私の妻は十二年前に亡くなった。エレノアが十歳の時だ」
王の表情に悲しみが浮かんだ。
「先月、彼女は母の部屋の整理を始めた。そして、あるペンダントを見つけたようだ。その夜から、彼女は変わってしまった。夜中に泣き叫ぶ声が聞こえ、日中は魂が抜けたように過ごす。時には、別の人格が彼女の中に宿ったかのように振る舞うこともある」
ダニエルは医師として、解離性障害の可能性を考えた。強い感情の抑圧と突然のトラウマ的記憶の再燃は、そのような症状につながることがある。
「お会いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」王は立ち上がった。「だが、忠告しておく。彼女は時に、自分が誰かに操られているような言動をする。それは...見るに耐えないほどつらいものだ」
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王太女エレノアの部屋は離宮の東側にあり、湖に面した広いバルコニーが特徴的だった。王の許可を得て、ダニエルとエルネは単独で彼女の部屋を訪れた。
ノックの後、侍女が扉を開け、彼らを中へと案内した。
部屋の中央に置かれた長椅子に、エレノア王太女が横たわっていた。二十二歳ほどの若い女性で、金色の髪と青い瞳を持ち、王家の血筋を感じさせる美しさがあった。だが、その目は虚ろで、顔色は青白く、明らかに睡眠不足の様子だった。
「エレノア様、白亜館からシェパード医師がお見えになりました」侍女が静かに告げた。
王太女はゆっくりと顔を向け、彼らを見つめた。「父上が呼んだのですね...」彼女の声は弱々しかった。
「はい、お父上が心配されています」ダニエルは優しく言った。「少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
彼女は静かにうなずき、侍女たちに退出するよう合図した。部屋に残ったのは、ダニエル、エルネ、そしてエレノアだけになった。
「何をお話ししましょう、先生」彼女は虚ろな目で問いかけた。「私が狂っていると?それとも王位継承者として不適格だと?」
「いいえ、そのようなことはありません」ダニエルは椅子を引き寄せ、彼女から適度な距離を保って座った。「あなたが苦しんでいることを理解したいだけです」
彼女は弱く笑った。「私は苦しんでなどいません。ただ...時々、自分が誰なのかわからなくなるだけです」
ダニエルは慎重に質問を続けた。「それはどのような感覚ですか?」
「まるで...別の人が私の中にいるようです。時々、その人が私の体を動かし、私の口で話すのです」彼女はふと顔を背けた。「母上のペンダントを見つけてから、それが始まりました」
「そのペンダントは、今も...?」
彼女は苦しそうに首を振った。「見ることもできません。あれを見ると...」
彼女の言葉が途切れ、突然、彼女の体が硬直した。数秒後、彼女の表情が一変した。顔に力が入り、瞳の奥に何か別のものが宿ったように見えた。
「彼女は弱すぎる」突然、エレノアの声が変わった。より低く、冷たい調子になった。「だから私が守らなければならないの」
ダニエルとエルネは驚きを隠せなかったが、医師として冷静さを保った。
「あなたは誰ですか?」ダニエルは静かに尋ねた。
「私は...保護者よ。弱いエレノアが壊れないように守っているの」
この反応は、解離性同一性障害の可能性を強く示唆していた。強いトラウマや抑圧された感情から自己を守るために、心が別の人格を作り出すことがある。
さらに会話を続けようとしたとき、エレノアの体が再び硬直し、彼女は突然泣き崩れた。
「すみません...すみません...」彼女は元の声に戻っていた。「また起きてしまったのですね」
エルネが彼女に近づき、水を差し出した。エレノアは震える手でそれを受け取った。
「エレノア様、あなたは病気ではありません」ダニエルは慎重に言った。「強いストレスや抑圧された感情によって、心が自らを守ろうとしている状態です。これは『解離性障害』と呼ばれるもので、治療は可能です」
「治療...」彼女は弱々しく反復した。「どうすれば...」
「まず、母上のペンダントが引き起こす記憶について理解する必要があります」ダニエルは言った。「深く抑圧された記憶があるのかもしれません。それを安全に探る方法を考えましょう」
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診察の後、ダニエルとエルネは王に状況を報告した。彼らは解離性障害の可能性と、トラウマ的記憶へのアプローチについて説明した。
「陛下、エレノア様の状態を理解するためには、抑圧された記憶にアクセスする必要があります」ダニエルは慎重に提案した。「私の世界では、さまざまな心理療法がありますが、この世界でそれに近いものがあるか...」
ラーンが口を開いた。「実は、記憶の糸を辿る古い魔術があります。『記憶の霧草』という希少な植物を使ったもので、宮廷呪術師のヴァイスが詳しいかと」
王は少し考え、うなずいた。「ヴァイスを呼べ。だが...危険はないのだろうな?」
「適切に使用すれば安全です」ラーンは保証した。「ただ、抑圧された記憶に触れることは、時に心に大きな波紋を起こすことがあります」
「それこそが私たちの求めるものですが」ダニエルは静かに言った。「もちろん、安全な環境と適切な支援の下で行います」
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呪術師ヴァイスは翌朝到着した。彼は六十代と思われる痩せた男性で、鋭い眼差しと静かな物腰が特徴的だった。
「記憶の霧草」についての説明を受け、ダニエルと薬草担当のエマはその性質を理解しようと努めた。それは高山の霧に覆われた渓谷にのみ生える希少な植物で、適切に調合すると、記憶の深層へのアクセスを可能にするという。現代医学で言えば、一種の催眠状態と幻覚作用を誘発する物質に近いものだろう。
ヴァイスは小さな袋から乾燥した霧草を取り出し、その性質を説明した。
「これを焚くと、霧のような煙が立ち上ります。それを吸い込むことで、意識は現在と過去の境界を越え、抑圧された記憶や感情に触れることができるようになります」
「副作用は?」ダニエルは医師として尋ねた。
「強い感情の解放、一時的な現実感の喪失」ヴァイスは答えた。「まれに、トラウマが深い場合は、さらなる解離状態を引き起こすこともあります」
エマがメモをとる。
「それは避けたいですね」ダニエルは考えを巡らせた。「エレノア様のようにすでに解離症状がある方には、慎重に使用する必要があります」
彼らは治療計画を練った。エレノアの同意を得た上で、彼女の部屋を治療のために準備することにした。緊急時に備えて、鎮静効果のある薬草もエマは用意した。
ダニエルとエルネは医学的な観点から、ヴァイスは魔術的な視点から、この治療を支えることになった。
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治療の日、エレノアの部屋はすべての余分な刺激を取り除くように整えられた。窓にはカーテンが引かれ、柔らかな光のみが部屋を照らしていた。彼女は中央に置かれた長椅子に横たわり、深呼吸を繰り返して心を落ち着けようとしていた。
「準備はよろしいですか、エレノア様」ダニエルは静かに尋ねた。
彼女はわずかに頷いた。「怖いです...でも、このままではいられないことも分かっています」
ダニエルは彼女の勇気に敬意を示し、治療の流れを再度説明した。
「記憶の霧草の煙を吸い、あなたの意識が過去の記憶に触れ始めたら、私たちが質問を通じてガイドします。いつでも『止めて』と言えば、すぐに終了します」
エレノアは深く息を吸い、うなずいた。「始めましょう」
ヴァイスが小さな香炉に霧草を置き、火を灯した。淡い青みがかった煙が立ち上り、ゆっくりと部屋に広がっていった。その香りは不思議と心地よく、松の香りと雨の匂いが混ざったような印象だった。
エレノアは数回煙を吸い込むと、徐々に目が遠くを見るような表情になっていった。彼女の体は弛緩し、呼吸はより深く規則的になった。
「エレノア様、今どこにいますか?」ダニエルは静かに問いかけた。
「王城...」彼女の声は遠くから聞こえるようだった。「私の部屋です...」
「何歳ですか?」
「十歳...母上の葬儀の日です」
ダニエルはエルネとヴァイスに目配せし、ゆっくりと進めることを確認した。彼らは事前に、彼女がトラウマ体験を再体験するのではなく、安全な距離から観察できるよう導くことを打ち合わせていた。
「その光景を少し離れたところから見ているようにイメージしてください。あなたは今、二十二歳のエレノアとして、十歳の自分を見ています」
エレノアのまぶたが震え、彼女はうなずいた。「見えます...小さな私が母上の部屋で...」
「何が起きていますか?」
「母上が亡くなった...皆が黒い服を着ている...私は泣きたいのに...」彼女の声が詰まった。「泣いてはいけないと言われました。『王家の者は民の前で弱さを見せてはならない』と」
彼女の頬に一筋の涙が伝い落ちた。
「父上は悲しそうだけど、涙は見せない...だから私も...」
ダニエルは静かに尋ねた。「それから何が起きましたか?」
「母上の部屋に忍び込みました...誰にも見られずに...そこで初めて泣きました...」エレノアの声が震えた。「でも誰かが入ってきて...老師が...『泣くのはもう終わりなさい。あなたは次の女王になるのだから』と」
「その時、どんな気持ちでしたか?」
「悲しくて...でも泣けなくて...胸が張り裂けそうでした...」