ドジなメイドの秘密
春の訪れとともに、白亜館には新たな陽光が差し込んでいた。ドラゴンのマグヌスとドワーフのグロルドの治療は成功し、白亜館の評判は王国中に広まりつつあった。特に「心の病」と「職業病」という、これまでこの世界では認識されていなかった概念を扱う医療施設として、独自の地位を確立しつつあった。
ある穏やかな午後、ダニエルが医学ノートの整理をしていると、エマが少し気まずそうな表情で診療室に入ってきた。
「先生、面会希望の方がいらしています。王城の...メイドさんです」
「メイドさん?」ダニエルは顔を上げた。「体調不良ですか?」
「いえ...少し複雑なようです」エマは口ごもった。「彼女、リリアといいますが、ドラゴンのマグヌス様に仕えるメイドだそうです。マグヌス様ご自身が、彼女をここへ送られたとか」
ダニエルは興味を持った。マグヌスは治療を終えた後も時々白亜館を訪れ、心身の健康について議論するようになっていた。彼が自ら部下を送ってきたというのは意味がありそうだ。
「お通ししてください」
少し経って、若い女性が診療室に入ってきた。小柄で茶色い髪を短くまとめ、清潔な服装をしている。しかし、その表情は明らかに緊張し、手はわずかに震えていた。
「リリアさんですね。どうぞお座りください」ダニエルは優しく声をかけた。
「は、はい...シェパード先生」彼女は椅子に座りながら言った。「マグヌス様のご命令で参りました。私、本当は来たくなかったんですけど...」
「無理に診察する必要はありませんよ」ダニエルは穏やかに言った。「ただ、マグヌスがなぜあなたを送ってきたのか、理由を教えてもらえませんか?」
リリアはテーブルの上の水差しに手を伸ばしたが、その動きでジャグを倒してしまった。水がテーブルに広がり、彼女は慌てて布を取り出して拭き始めた。
「すみません、すみません!私、いつもこうなんです...」彼女の声は取り乱している。「だから、マグヌス様は...」
「大丈夫ですよ、気にしないでください」ダニエルは別の布を取り、彼女を手伝った。
水を拭き終えると、リリアは深呼吸をして少し落ち着いたようだった。
「マグヌス様は...私のドジについて心配されているようです。最近特にひどくなったので」
「ドジというのは?」
「物を落とす、予定を忘れる、指示を聞き間違える...」彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。「先週は、大事な晩餐会の準備を完全に忘れていて、マグヌス様が大切なお客様を迎える予定だったのに...」
ダニエルは医師として、彼女の言葉の奥にある問題を読み取ろうとした。単なる不器用さではなく、注意力や記憶に関する問題のように思える。
「リリアさん、これらの困難はいつ頃から始まったのですか?」
「子供の頃からです」彼女は静かに答えた。「でも最近、責任が増えて、より目立つようになりました。マグヌス様は怒ったりしません。むしろ...心配してくださるんです」
「マグヌスは理解のある方ですね」ダニエルは微笑んだ。「では、もう少し詳しくお聞きしたいのですが、日常生活での具体的な困難について教えてください」
リリアは少しずつ打ち解け、彼女の日常について語り始めた。朝起きるのが難しいこと、複数の指示を同時に与えられると混乱すること、何かに集中していると周囲の音や動きが気にならなくなり、時間感覚を失うこと。また、興味のないことには集中できず、興味のあることには何時間でも没頭できるという特徴もあった。
「それと...私、頭の中がいつもごちゃごちゃしているんです。考えがたくさん浮かんで、整理できなくて...」彼女はため息をついた。「そのくせ、好きな詩や歌の歌詞は一度聞いただけで覚えてしまうんです」
ダニエルはエマに目を向け、彼女も理解したように頷いた。彼らの目の前にいるのは、現代の医学で言うところのADHD(注意欠如・多動性障害)の特徴を示す人物のようだった。
「リリアさん、あなたの話を聞いていると、ある特定のパターンが見えてきます」ダニエルは慎重に言葉を選んだ。「あなたは『ドジ』と表現していますが、それは注意力や集中力、記憶の働き方が多くの人と少し違うからかもしれません」
「違う...?」彼女は不安そうに見上げた。「それはつまり、私が劣っているということですか?」
「いいえ、決してそうではありません」ダニエルはきっぱりと言った。「異なるというだけです。あなたの脳は、特定のことに対しては並外れた能力を発揮し、別のことには苦労する。それは価値の問題ではなく、特性の違いなのです」
リリアの目に涙が浮かんだ。「でも、私はいつも周囲に迷惑をかけて...」
「それは環境があなたの特性に合っていないからかもしれません」ダニエルは説明した。「たとえば、複数の指示を一度に与えられると混乱するのなら、一つずつ指示を受ける方法を考えることができます」
彼はエマに頼んでエルネを呼んでもらった。この診察には彼女の視点も役立ちそうだった。
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エルネが加わり、三人でリリアの困難と対処法について話し合った。エルネは自身の完璧主義との闘いについて少し話し、リリアを安心させた。
「私も自分の特性と向き合い、それを受け入れる過程にあります」エルネは優しく言った。「先生に教わったのは、自分の弱みを認めつつ、強みを活かす方法を見つけることの大切さです」
ダニエルはうなずいた。「リリアさん、まずは『タスクの視覚化』から始めてみましょう」
彼は紙を取り出し、簡単なスケジュール表を描いた。
「毎日の仕事を目に見える形でリスト化し、終わったら印をつける。細かくタスクを分解して、一度に一つだけに集中するのです」
リリアはその紙を興味深そうに見つめた。「こんな簡単なことで...」
「シンプルな方法こそ、効果的なことが多いんです」ダニエルは微笑んだ。「また、あなたが特に没頭できる活動を見つけることも大切です。そういった活動は、あなたの強みを示している可能性が高いからです」
彼らは話し合いながら、リリアに合った対策をいくつか考えた。
1. 重要な予定や情報を小さなノートに記録する習慣
2. 複雑な作業は、小さなステップに分ける
3. 静かな環境で準備をする時間を確保する
4. 得意な分野(詩や歌など)をマグヌスへの奉仕に活かす方法
「そして」ダニエルは最後に言った。「マグヌスに正直に話してみることも考えてください。あなたの特性について理解してもらえれば、より適切な役割を与えてもらえるかもしれません」
「マグヌス様に...?」リリアは恐れているようだった。
「彼は理解のある方です」ダニエルは自信を持って言った。「実際、あなたをここに送ったのも、あなたを助けたいという気持ちからでしょう」
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翌日、驚くべきことにマグヌス自身が白亜館を訪れた。ドラゴンは中庭に身を横たえ、ダニエルに挨拶した。
「シェパード医師、リリアのことで相談に乗ってくれたそうだな」
「はい。彼女の特性について話し合いました」
マグヌスはうなずいた。「彼女は心優しく、詩や歌の才能に長けている。しかし、通常のメイドの仕事では...」
「彼女の脳は少し異なる方法で機能しています」ダニエルは説明した。「注意を向ける対象を切り替えることが難しく、時間感覚や記憶にも独特のパターンがあります。現代医学では、これをADHD...注意欠如・多動性障害と呼びます」
「障害...」マグヌスは低く唸った。「それは彼女が劣っているという意味か?」
「いいえ、そういう意味ではありません」ダニエルは急いで言った。「むしろ、脳の働き方の違いです。彼女には彼女なりの強みがあります。集中できる対象には驚くべき才能を発揮することもあるのです」
ドラゴンはじっと考え込んだ。「私自身も完璧主義という特性で苦しんだ。リリアも同じように、自分の特性で苦しんでいるのか...」
「そうですね。しかし、環境を調整し、彼女の強みを活かす役割を見つければ、彼女はもっと活躍できるでしょう」
マグヌスの目に決意の光が宿った。「私のような古い存在も、新しい考え方を学ぶ必要があるようだ。リリアに何か提案はあるか?」
ダニエルはリリアとの話し合いをもとに、具体的な提案をいくつか示した。特に彼女の記憶力と詩への愛着を活かし、マグヌスの会合や儀式の際の言葉の記録係としての役割や、訪問者の好みや特徴を覚えておく「記憶係」としての役割などを提案した。
「それと、彼女に仕事を頼む際は、一度に一つずつ、できれば書き出したリストの形で伝えると良いでしょう」
「なるほど」マグヌスは感心したように頷いた。「彼女の混乱は、私の指示の出し方にも問題があったのかもしれないな」
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その週の終わり、リリアが再び白亜館を訪れた。以前とは打って変わって、彼女の表情は明るく、自信に満ちていた。
「先生!」彼女は嬉しそうに言った。「マグヌス様が私に新しい役割を与えてくださいました。『記憶の守護者』というポストです。来客の名前や好み、過去の会話を記録し、思い出すのが私の仕事になりました」
「それは素晴らしいですね」ダニエルは心から喜んだ。
「そして、これを見てください」彼女は小さな革製のノートを取り出した。「マグヌス様特製の記憶帳です。日々のタスクと、重要な情報を記録します」
ノートは美しく装丁され、内部は色分けされたセクションに分かれていた。マグヌスらしい気配りと芸術性を感じる品だった。
「マグヌス様は言われました。『誰にでも得意なことと苦手なことがある。大切なのは、その特性を理解し、活かすことだ』と」リリアの目には涙が光っていた。「初めて、自分が認められたと感じました」
ダニエルはエマとエルネに目配せし、三人とも満足げに微笑んだ。マグヌスとリリアの変化は、白亜館が目指す理想の一つを体現していた—病気を「治す」だけでなく、個々の特性を理解し、それを活かす環境を創ることの重要性を。
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その晩、ダニエルは医学ノートの新しいページを開いた。
「注意力の特性と環境調整 - リリアの症例」
「現代医学でADHDと呼ばれる特性は、この世界でも存在する。注意の切り替えの困難、時間管理の問題、興味に基づく選択的な集中力などの特徴が見られる。しかし、これを単なる『ドジ』や『怠慢』と見なすのではなく、脳の働き方の多様性として理解することが重要である。」
「治療の鍵は薬物ではなく(この世界にはそのような薬はない)、環境調整と強みの活用にある。タスクの視覚化、作業の分割、適切な役割の設定などが効果的である。」
「興味深いことに、マグヌス・ドラゴンのような長寿で賢明な存在でさえ、人間の認知の多様性について学ぶことがあった。彼自身の完璧主義との闘いが、リリアの特性に対する理解と受容を促した可能性がある。」
「この事例は、『治す』ことより『理解し、適応する』ことの重要性を示している。すべての人がそれぞれの特性を持ち、それを尊重し活かす環境こそが、真の健康をもたらすのである。」
ダニエルはペンを置き、窓から見える月明かりに照らされた白亜館の庭を眺めた。診療所を始めた当初は、現代医学の知識を伝え、病気を治すことに集中していたが、徐々にその視点は広がりつつあった。病気の「不在」ではなく、それぞれの特性を理解し活かす環境の「存在」こそが、真の健康の姿なのかもしれない。
庭の隅には、先日マグヌスが運んできた大きな石のベンチがあった。ドラゴンは「休息も仕事の一部」と言って、それを白亜館に寄贈したのだ。その上に、小さな人影が座っているのが見える。リリアだった。彼女は月に向かって静かに詩を詠んでいるようだった。
ダニエルは窓を閉め、次の日の診察の準備を始めた。白亜館の仕事は続く。そして少しずつ、この異世界の医療の形が見えてくるようだった。