妄想するドワーフ
「オイラの身体は、誰かが勝手に作り替えた偽物だ。だから自分なんて本当はいないんだ...そう思うと夜も眠れなくてね」
診療室には、がっしりとした体格の男性ドワーフが座っていた。グロルド・アイアンハンドというその鍛冶師は、山岳地帯のドワーフ集落「深き炉の民」に属する一流の職人だった。彼の仕事は特に金属装飾と細工に専門化しており、王宮の依頼も受けるほどの腕前だという。
ダニエルは慎重に問診を続けた。「その感覚はいつ頃から始まったのですか?」
「半年ほど前からかな」グロルドは分厚い指で顎髭をいじりながら答えた。「最初は夢の中だけだったんだが、だんだん起きてる時も...自分の手を見ると、まるで他人の手のように感じるんだ」
ダニエルは精神科医としての経験から、これが解離性障害や妄想性障害の症状である可能性を考えた。しかし、彼はすぐに診断を下さず、さらに詳しく状況を探ることにした。
「お仕事は何をされているのですか?具体的に教えていただけますか?」
グロルドの顔が少し明るくなった。「オイラは金細工師だ。特に金メッキの技術では腕に覚えがある。先祖代々の秘伝の技だよ」
「金メッキ...」ダニエルは何かに気づいて、さらに質問を続けた。「その作業工程について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
グロルドは誇らしげに説明を始めた。「まず金を特殊な水銀と混ぜてね、ペースト状のアマルガムを作る。それを装飾したい品物に塗り広げて、それから炉で熱するんだ。そうすると水銀が蒸発して、金だけが表面に残る」
ダニエルはエマとエルネに意味深な視線を送った。二人も彼の考えを察したようで、エマがすぐにノートを取り始め、エルネは小さくうなずいた。
「そのアマルガム製造や加熱の工程は、どのような環境で行っていますか?」
「もちろん工房の中さ」グロルドは当然のように答えた。「最近は大きな注文が続いてて、一日中作業してることもある。むしろ熱心に働きすぎるくらいさ」
「換気はどうですか?」
「山の中の工房だから、窓は小さいんだ。冬は特に閉め切ってるよ」
ダニエルはいくつかの身体的な症状についても尋ねた。グロルドは手の震えがあること、時々めまいを感じること、記憶力の低下を訴えた。また、彼の言動にはわずかな焦燥感も見られた。
身体検査では、わずかに協調運動の障害が見られ、瞳孔反応もやや鈍かった。口腔内を確認すると、歯肉には青みがかった線が見えた。
「グロルド、一つ提案があります」ダニエルは慎重に言葉を選んだ。「あなたの症状を完全に理解するために、工房を訪れさせてもらえないでしょうか?そこでの作業環境を見ることで、より良い判断ができると思うのです」
グロルドは少し警戒したが、やがて同意した。「構わんよ。明日の朝、案内しよう」
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翌朝、ダニエルとエルネは山岳地帯へと向かった。エマは診療所に残り、他の患者の対応をすることになった。
ドワーフの集落は山の斜面に巧みに作られており、多くの建物が半ば岩に埋め込まれていた。グロルドの工房は集落の少し離れた場所にあり、常に煙を上げる煙突が特徴的だった。
「ようこそ、オイラの工房へ」グロルドは扉を開けた。
中に入るなり、ダニエルは空気の質の悪さに眉をひそめた。炉から立ち上る金属の蒸気、研磨時に舞う微細な粉塵が空間を満たしている。特に奥の作業台には、水銀を含むアマルガムの製造と加熱のための設備があり、その周辺の空気は特に重く感じられた。
「どれくらいの時間、ここで作業をするのですか?」
「日に十時間は下らんな。特に細かい装飾を施す時は、もっとだ」グロルドは誇らしげに答えた。
ダニエルは小さな布を取り出し、工房の棚に一時間置いた後、布が灰色に変色していることを確認した。
「グロルド、私の世界では、こういった環境で働く職人に特有の病気があります。『金属熱』とか『水銀狂』と呼ばれるものです」
ドワーフは警戒心と興味が混ざった表情を見せた。「何だって?」
「水銀の蒸気は目に見えませんが、呼吸によって体内に入り、特に脳に影響を与えます」ダニエルは静かに説明した。「それが手の震え、めまい、そして...あなたが体験している『自分の体が自分のものではない』という感覚を引き起こす可能性があるのです」
グロルドは無言で彼を見つめた。
「他の鍛冶師たちにも、似たような症状はないですか?」エルネが優しく尋ねた。
「そういえば...」グロルドは考え込むように言った。「兄貴分のトーリンも、最近手が震えると言ってたな。それに若いフィリは記憶力が悪くなったって嘆いてた」
「彼らにも会わせてもらえますか?」
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グロルドの提案で、同じ集落の鍛冶師たちが集まった。ダニエルは彼らにも簡単な診察を行い、多くが軽度の水銀中毒の症状を示していることを確認した。
「時々、手が勝手に震えることはないか?」ダニエルが年長のドワーフに尋ねる。
「それは年のせいだろう」と言いながらも、老ドワーフは自分の手を見つめ、「確かに、最近は細工物が以前ほど上手くいかん...」と渋々認めた。
別の若いドワーフは「夜、目を閉じると、金属の塊が体の中を動き回る感覚がある」と明かした。
ダニエルはノートに記録しながら、「これは個人の弱さではなく、職業に関連した症状かもしれません」と説明を始めた。
工房に戻り、ダニエルはドワーフたちに水銀中毒について詳しく説明した。
「水銀はとても有用な金属ですが、その蒸気は危険です。特に閉鎖的な空間で長時間曝露されると、体内に蓄積します」
「でも私たちの先祖も、何世代もこの方法で金細工をしてきたんだぞ」年長のドワーフが反論した。
「おそらく、現在ほど大量の作業はしていなかったのではないでしょうか」ダニエルは指摘した。「また、以前は野外や換気の良い場所で作業していたかもしれません」
グロルドは不安そうな表情を浮かべた。「じゃあ、私たちの技術は...」
「放棄する必要はありません」ダニエルは急いで言った。「安全に実践する方法があります」
彼は自分が見た問題点と、それに対する解決策を詳細に説明した。
1. 換気の改善:大きな窓を設け、強制的に空気を循環させる装置の設計
2. 作業時間の制限と交代制の導入
3. 防護用のマスクの開発(現代のマスクを異世界の素材で再現)
4. 水銀の取り扱い方法の改善(密閉容器の使用など)
5. 解毒効果のある薬草の定期的な摂取
エルネは特に薬草療法について詳しく説明を加えた。彼女の知識によれば、この世界にもキレート作用を持つ特定の薬草が存在し、体内の重金属を排出する助けになるという。
「しかし」ダニエルは慎重に付け加えた。「グロルドの症状には、水銀中毒だけでは説明できない部分もあります。『自分の体が作りものだ』という感覚は、確かに水銀の影響で始まったかもしれませんが、それが続くのには心理的な要因も関わっているでしょう」
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診療所に戻り、ダニエルはグロルドと個室でさらに話を続けた。
「あなたの症状には二つの面があると思います」彼は診察室でドワーフに説明した。「一つは体内に蓄積した金属による影響。これには解毒薬と作業環境の改善が必要です」
ドワーフは半信半疑の表情だった。
「もう一つは、その体験があなたの心にもたらした影響です。体が自分のものではない感覚は、実際の金属中毒と、職人としてのあなたの繊細な感覚が組み合わさった結果かもしれません」
「では、オイラの体は偽物ではないのか?」グロルドが不安げに尋ねた。
ダニエルは思慮深く答えた。「それは...あなたが決めることです。私にできるのは、その感覚と共に生きやすくなる方法を一緒に探すことです」
「どういう意味だ?」
「例えば」ダニエルは椅子に深く腰掛けた。「あなたは優れた職人として、金属を形作り、新しいものを創造します。ある意味で、あなた自身も日々の仕事や経験によって『作られている』と考えることもできるでしょう」
グロルドの表情が変わった。「なるほど...確かに職人は自分の作品に魂の一部を込めると言われる...」
「そうです。あなたの感覚を『体が偽物だから価値がない』という否定的なものから、『自分は日々の創造によって形作られている』という肯定的なものへと変えていく可能性があります」
グロルドはしばらく沈黙した後、おもむろに自分の手を見つめた。「これらの手で作ったものは...確かに価値があった」
「そして、その手を使う人間にも、同じように価値があります」ダニエルは静かに付け加えた。
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次の数週間、ダニエルとエルネはドワーフの集落を定期的に訪れ、工房の改善と治療の進捗を確認した。グロルドたちは驚くほど迅速に環境改善に取り組んだ。ドワーフたちの工学的知識は優れており、効率的な換気システムや、金属ワイヤーと特殊な布を組み合わせた防護マスクなど、創意工夫に満ちた解決策を次々と開発していった。
「見てくれ、先生!」グロルドは誇らしげに改良された工房を案内した。「煙は全て上に引き上げられ、外に出るようになった。そして作業場を区画分けして、アマルガム作業は専用の部屋で行うようにした」
ダニエルは感心して新しい設備を調べた。「素晴らしい改良です。これなら水銀への曝露は大幅に減るでしょう」
身体症状の改善も見られ始めていた。手の震えは減少し、めまいも減った。最も重要なのは、グロルドの「自分の体が偽物だ」という感覚が徐々に変化しつつあることだった。
「今でも時々、そう感じることはある」彼はダニエルに打ち明けた。「だが、以前のように恐れてはいない。むしろ...職人として自分を形作ってきたという考えが、心地よく感じられるようになってきた」
エルネも治療に積極的に関わっており、彼女の軽度の治癒魔法は、水銀によって傷ついた神経系の回復を助けているようだった。また、彼女自身も完璧主義との戦いを続けていることをグロルドに話すことで、彼との信頼関係を深めていた。
「実は私も、すべてが完璧でなければならないという思いに苦しんでいました」彼女はある日、グロルドに告白した。「それが、私が何度も同じことを確認してしまう原因だったのです」
「なるほど」グロルドは大きくうなずいた。「オイラたち職人も完璧を求める...それが時に重荷になることもあるな」
「シェパード先生に教わったのは、完璧を目指すことと、完璧でなければならないと苦しむことは違うということです」
「賢明な言葉だ」グロルドは深く頷いた。「金細工も、最初から完璧にはならない。何度も形を整え、磨いていくものさ」
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治療開始から一ヶ月後、グロルドは白亜館を訪れ、ダニエルに特別な贈り物を持ってきた。それは精巧に作られた小さな医療器具のセットだった。ピンセット、メス、針など、すべてが驚くほど精密に作られており、従来の器具よりも格段に使いやすかった。
「オイラの技術で、少しでも恩返しができれば」グロルドは照れくさそうに言った。「水銀は減らして、代わりに新しい合金を使ったんだ。もっと安全でね」
ダニエルは感動して器具を手に取った。「これは素晴らしい...今までで最も精密な器具です。これで多くの命を救えるでしょう」
「それと、もう一つ」グロルドは続けた。「白亜館のために、専門の医療器具を作る工房を始めることにした。もし何か必要な道具があれば、遠慮なく言ってくれ」
これは予想外の展開だった。専門の医療器具製作者との協力は、白亜館の治療能力を大きく向上させるはずだ。
「本当にありがとう、グロルド」ダニエルは心からの感謝を伝えた。「医療と鍛冶の技術の融合...これは新たな可能性を開くでしょう」
グロルドは誇らしげに胸を張った。「先生よ、あんたは教えてくれた。たとえ体が『作られたもの』だとしても、それには価値があるとね。だったら、オイラが作るものにも同じだけの価値があるはずだ」
ダニエルはうなずいた。「その通りです」
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その晩、ダニエルは医学ノートに新しい章を書き加えた。
「水銀中毒と妄想 - ドワーフの症例研究」
「職業的な有害物質への曝露は、しばしば身体症状と精神症状の複合的な問題を引き起こす。特に水銀は神経系に作用し、手の震え、めまい、記憶障害などの身体症状と共に、解離感や妄想など精神症状も引き起こしうる。」
「治療においては、環境要因の改善が第一歩となる。換気の改善、防護具の使用、作業時間の制限など。しかし、いったん形成された精神症状は、原因となる毒素が取り除かれた後も継続することがある。」
「この場合、精神症状に対しては、それを単に『否定する』のではなく、患者の世界観に沿った形で『再解釈』を促すアプローチが有効である。グロルド・アイアンハンドの場合、『体が作られたもの』という感覚を、職人としての自己認識と結びつけることで、むしろ肯定的なアイデンティティに転換することができた。」
「また、職業病の治療においては、患者の職業的アイデンティティを尊重することが極めて重要である。単に『危険だから仕事を変えるべき』と伝えるのではなく、同じ仕事をより安全に続ける方法を共に模索することで、患者の尊厳と自主性を守ることができる。」
「興味深いことに、グロルドの症例は、身体的病気と精神的状態の相互作用の典型例であると同時に、医療と職人技術の相互利益の可能性も示している。彼の精密な医療器具製作は、白亜館の治療能力を向上させるだろう。」
ダニエルはペンを置き、窓の外を見た。山の方向には、今もドワーフたちの炉火が赤く明滅していた。彼らの技術は今、より安全になり、さらに医療のために用いられようとしている。
異世界での彼の役割は、単に病気を治すことではなく、この世界の知恵と自分の知識を融合させ、新たな可能性を見出すことなのかもしれない—そう思いながら、彼は次の章のための白紙のページを開いた。