プロローグ -召喚-
異世界へようこそ
ダニエル・シェパードは、オハイオ州の小さな町グリーンバレーの総合病院で忙しい一日を終えようとしていた。彼が専門とする精神科外来は、今日も予約でぎっしり埋まっていた。
「シェパード先生、最後の患者さんがキャンセルになりました」
受付のマリアンが顔を覗かせる。ダニエルはほっと息をついた。ジョンズ・ホプキンス大学医学部で優秀な成績を収めたエリート医師が、なぜこの田舎町の病院を選んだのか——それは彼の中の使命感だった。都会の大病院ではなく、医療過疎地で本当に必要とされる場所で働きたいという思いが、彼をこの地に導いた。
精神科専門医としての顔を持つダニエルだが、小さな地域病院ゆえに、しばしば救急外来の当直にも入り、あらゆる疾患と向き合うことも珍しくなかった。
「じゃあ、今日の診療録をまとめておくよ」
ナースステーションに立ち寄り、電子カルテを開く。抗うつ薬の処方を調整した老年期うつ病の患者、PTSD治療のため認知行動療法を続けている退役軍人、パニック障害の発作で救急搬送された大学生...今日も様々な心の傷と向き合った一日だった。
カルテを更新しながら、ダニエルは微かな呪文のような言葉が聞こえてきたような気がした。まるで誰かが異国の言葉で何かを唱えている。
「誰かいる?」
振り返ると、ナースステーションは既に誰もいない。シフト交代の時間だ。不思議に思いながらも、ダニエルはカルテ入力を続けた。その時だった。
眩い光が視界を満たし、回転するような感覚に襲われる。彼の意識が引き伸ばされるような奇妙な感覚。「脳卒中か?解離性の発作か?」医師としての思考が一瞬働いたが、次の瞬間、彼の体は完全に別の場所に立っていた。
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「召喚の儀は成功したようだな」
低く響く声に、ダニエルは目を開けた。そこは石造りの広間。中世の城を思わせる荘厳な空間に、甲冑を身にまとった騎士らしき人物と、長いローブを着た数人の老人が彼を取り囲んでいる。
「これは...何らかの幻覚か?」ダニエルは自分の声が聞こえることに安心しながら呟いた。「何かドラッグを摂取したか、もしくは過労による...」
「異世界からの賢者よ、我らはあなたの力を必要としている」
ローブの男が一歩前に出て丁寧に一礼した。
「聖なる予言によれば、危機の時、異界より知恵ある者が現れるとあった。あなたが我らの救世主なのだ」
ダニエルは自分の白衣を見下ろし、ポケットに入れていた聴診器や瞳孔ライト、反射神経を確認するための小さなハンマーなどが無事なことを確認した。記憶も正常で、解離性の症状にも見えない。彼は深呼吸をして状況を整理しようとした。
「私はダニエル・シェパード。医師です」
彼は冷静さを保とうと努めた。「今、どこにいるのか、どうやってここに来たのか説明していただけますか?」
騎士と老人たちは互いに顔を見合わせた。
「医師...?それは治療師のことか?」一人の騎士が尋ねた。
「治療師、そうですね。人の病気や怪我を治療します」
老賢人と思しき人物が前に進み出て、ダニエルをじっと観察した。
「あなたは薬草や魔法で治療を?それとも...」
「薬草や...魔法?」ダニエルは一瞬戸惑った。「私は現代医学を実践しています。薬物療法や外科的処置、そして心理療法も」
「心の...治療?」老人の目が輝いた。「それは大変貴重な技術です。我が国の人々は、心の病に対してはほとんど無知なのです」
ダニエルはようやく状況を理解し始めた。これが何らかの集団的妄想や幻覚でないならば、彼は本当に異世界に来てしまったらしい。それも中世ヨーロッパを思わせる魔法のある世界に。
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最初の混乱から数時間後、ダニエルは状況をより詳しく把握していた。この世界は「アストラル王国」と呼ばれる国の王城にいるらしい。彼らは「予言」に従って特殊な召喚魔法を使い、「危機の時に現れる賢者」を呼び寄せようとしたのだという。
「それで、どのような危機なのでしょうか?」ダニエルは尋ねた。
彼に対応していた老賢人のラーンは、深いため息をついた。
「疫病、戦争の傷、そして...心の病です。我が国では、多くの人々が奇妙な行動や苦しみを抱えていますが、それを単に『気の迷い』や『性格の欠陥』としか捉えられないのです」
話がそこまで進んだとき、何やら外が騒がしくなった。
ダニエルは部屋の窓から見える中庭を眺めた。そこでは若いメイドらしき女性が床に倒れ、激しく呼吸をしていた。周囲の人々は困惑し、中には「魔術の攻撃だ」と叫ぶ者もいる。
「あそこで何が起きているんですか?」
ラーンは窓の外を見て顔を曇らせた。「また始まった。若いメイドが発作を起こし...」
ダニエルは迷わず立ち上がった。「見せてください」
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中庭に駆けつけたダニエルは、すぐに状況を把握した。若いメイドは過換気症候群の症状を示していた。早く浅い呼吸、手足のしびれ、めまい、そして明らかな恐怖の表情。
「皆さん、少し下がってください」
ダニエルは冷静に指示し、メイドの隣にひざまずいた。「大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸してみましょう」
彼は自分の手を上下に動かしながら、呼吸のリズムを示した。「私の手に合わせて...そう、ゆっくりと」
メイドの呼吸が徐々に落ち着いてくると、ダニエルは静かに話しかけた。
「今日、何か特別なことがありましたか?」
「は、はい...」メイドは震える声で答えた。「王家の来客があり、私が初めて給仕を担当することになって...とても緊張して...」
「緊張すると、体はこんな反応を見せることがあります」ダニエルは穏やかに説明した。「これは魔法の攻撃でも、恥ずべきことでもありません。極度の緊張による自然な反応なのです」
周囲が驚いたような表情でダニエルを見つめる中、メイドの呼吸は完全に正常に戻った。
「あ、ありがとうございます...」メイドは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「本当に賢者だ...」誰かがつぶやいた。
ダニエルは立ち上がり、はっきりとした声で言った。「私は賢者ではありません。医師です」
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その夜、ダニエルは自分のために用意された城の一室で、今日の出来事を整理していた。異世界への召喚—これが現実だとしたら、彼は元の世界に戻れるのだろうか?
しかし、今日のメイドの件を見ても、この世界には医学的知識を必要としている人々がいる。特に精神医学の概念がほとんど存在しないようだ。
「専門は精神科ですが、総合病院で働いていたので、基本的なことなら他の分野も対応できます」
彼はラーンに説明していた。「ただ、私の世界の薬や医療機器はここにはありません」
「しかし、知識はあなたと共にあります」ラーンは静かに答えた。「それは宝よりも価値があるのです」
窓から見える満天の星空は、地球のそれとは微妙に異なる配置だった。ダニエルは深いため息をついた。
「元の世界に戻る方法を探しながら...ここでできることをやってみよう」
彼は小さなノートを取り出し、今日の出来事と観察したことを書き始めた。これが後に「白亜館診療録」の始まりとなることを、彼はまだ知らない。
翌日、王宮の一角に彼のための診療スペースが用意されることになっていた。異世界での医師としての日々が、今始まろうとしていた。