6話 これ、つまらないものですが
アリエルも充分満足といった様子だったので、彼女が用足しに行っている隙に、手早く会計を済ます。
戻ってきてすぐ、店を後にする。
外に出ると、辺りはもう暗くなっていた。
だというのに、繁華街ということもあってか、まだ若い女の子たちですら飲み歩いているようだ。楽しそうな笑い声が、時折、夜の町に響いてくる。
思った以上に安全な町のようだ。
腹ごなしを兼ね、アリエルと歩いて帰ることに。
酒で火照った身体に、夜風が心地好い。
青く涼しい夜──黄金色に輝くきれいな満月、そこにうっすらと掛かる雲も、なかなか風情がある。
歩き初めてしばらくし、横を向くと、丸々と膨らんだ下腹が目に入った。下腹部の辺りを擦りつつ、苦しそうではあるが、幸せそうなアリエル。
『それって、おれの子か?』なんてことは……断じて言ってない。ふと頭に過ぎっただけ。でも、凄まじい殺気が飛んできた。
周囲一帯の犬たちが、キャイーン、キャイーンと一斉に情けない鳴き声を上げ、一目散に逃げていく……。繁華街の路地裏で、おろらく残飯でも漁っていたのだろう。
凄いぞ! アリエル。これで野良犬に怯えずに済んだ、ありがとう……そして、すまなかった。うん、ごめんよ。
はぁ〜あ、もうこんな楽しい時間も、あと少しで終わりなのかぁ。
「「……」」
こんな風に黙って二人で歩いていると、なんだか妻に出て行かれる夫のような気分だ。結婚したことすらないのに……。
はあ、もう宿に着いちまったよ。
受付で鍵を受け取り、静かな階段、静かな廊下……そして、お互いの部屋の前までやってくると、後は「「おやすみ」」と挨拶を交わして、互いの部屋に入るだけだった。
現実なんて、こんなもんだ。
そういや、明日の朝早くには、出立してしまうんだったな。
きちんとお見送りしたいから、いつもより早めに寝なきゃ。
だが、その前にやっておかねばならないことがある──
ふぅーっ、疲れた。とりあえず、今日のところはこんなもんでいいかな。
さて、寝るとしよう……。
でも、こういうときに限って、なかなか寝付けないんだよな。ああ、わかってたさ。
結局、明け方近くまでぐだぐだした末、やっとのことで、うとうとし始めた。
──かと思ったら、もう朝だ。窓の隙間から外が少し明るくなり始めたのがわかる……ちっとも寝た気がしねえ。
仕方ない。ちょっと早い気はするが、昨日の続きをやってしまおう。
隣の部屋のアリエルを起こしてしまわないよう、そぉっと静かに窓を開けた。朝焼け前の、僅かな明かりを頼りに、窓際で準備する。
昨日、急遽思い立って、食事へ行く前に再び、例の雑貨屋へ赴いていた。そして、プラスチック製の容器数個を買っておいたのだ。
袋からそれらを取り出し、出窓のスペースに並べていく。
まずは、容器の中を【精霊水】で、きれいに洗浄していった。
部屋の天井近くの空間には、別の水の塊が宙を漂っている。
昨日の夜、ありったけの魔力を込めて作っておいた極上品質の【魔水】──今回は初の試みで、水の精霊さんの魔力を極力使わないよう、できるだけ俺自身の魔素だけに集中し、生成したものだ。
そう、俺自身の中にも、魔素があるのが感じられるようになっていたので。
そして、もう一つの発見は、一度生成した精霊水や魔水を精霊が蓄えられるということ……と言っても、空中に浮かぶ精霊さんの周りをこうやって、ただ漂わせているだけなんだけどね。
にしても、水の精霊さんには面倒かけて、すまないねえ。
実は今回、急に思い立ったということもあって、うっかりして作業用の大きな容れ物を買い忘れていたから。ほんと助かったよ。
試しに少し飲んでみる……うん、旨い。昨晩作成したときと同じ味だ。味の変化はないな。
効能の変化の方は……うん、わからん。いや、多少すっきりしたか。寝不足の疲労感が解消されたのかも。
元々、時間経過によって品質に変化がないかチェックしようと思ってたんだけど……。
最近、肉体に関しては元気そのものだから、疲労回復効果を確認しようがなかった。そもそも、起きてすぐ確認しようとしたのもナンセンスだった。
昨日の夕方、突然思い付いたこととはいえ、ほんと抜けが多い。
もうちょっと前に気が付いてれば、なにかいい方法を思いついたかもしれないけど……見知らぬ人で試すわけにもいかんことだし。そもそも、今更言ったところで、な。
精霊さんに一晩中、部屋に浮かべてもらっていた魔水を、小さな容器の中へ一つずつ充填していく。後は漏れてこないようにしっかりと蓋をするだけ。
おじさんの俺が精魂込めて作った特濃の魔水──富士山の天然水ならぬ、【おじさん水】だ。
自分で言っててなんだけど、どうにも嫌な響きだな。いやいや、これって、精霊さんが作った精霊水と効能は変わらないはずだからね。
魔水と言っても麻酔とは違うから。別に変な使い方する気はさらさらないから、誤解せんといて、アリエルちゃん。
なにも余計なものは入れてない。出してもいないし、出てもいないはずなんで。
これをアリエルが疲労困憊したときに飲んでもらう……うっ、やっぱ、なんか卑猥な感じがするな。
なんかぐったりしたアリエルの口に、これを……おぉぅ! どういうわけだ? 生唾が……止まらん。
妄想はさておき、これなら大概の疲労くらい、ばっちり吹き飛ばしてくれるだろう。
とはいえ、水は重い。だからこそ、できるだけ魔素を濃密にして体積を減らしたんだ。
軽くて小さめなプラスチック容器が手に入ったのも幸いだった。旅で持ち運ぶのに、嵩張ったり、割れでもしたら、かえって邪魔になるだろうからね。
リュタンちゃん、ありがとう!
……いや、仕入れたのは、あのおやじの方か? しょうがねえ。今度会ったら礼の一つでも言っとくか。
この容器をパステルカラーのかわいい袋に入れたら、出来上がりだ。
うん、こういう魔力的な餞別なら、おそらくアリエルだって受け取ってくれるだろう。
あれ!? やっぱり「気持ちわりーよ。おっさん」とか言われるやつか?
まあ、要らないって言われたら、言われたで仕方ないか……後で泣きますけど。なんならその場で涙ぐんじゃうかもしれませんけど。
さてと、そろそろアリエルも起き出す時間かな?
さすがに挨拶もなしで出掛けちまうこともないだろうけど、念のため、先に廊下へ出て待っていよう。
いや、ちょっと待て。それってなんだかストーカーぽいな。我ながら気持ちわりーぞ。
はあ、今更だけど、この世界の時計って、どうなってるんだ?
そういや食堂で食器下げるとき、ここの厨房では砂時計を使ってるのは見かけたな。教会の鐘らしき音も何回か聞こえてきてたくらいだから、時計もあるにはあるのか? だったら、アリエルと何かしら示し合わせておけばよかったか……。
俺だけ腕時計しててもしょうがねえと思って、深く考えなかったけど、ちと浅はかだった。
うん。今更、気持ち悪がられても、やだな。やっぱ先に食堂へ行って、ゆっくり朝飯食いながら待つとしよう。
──あらかた朝食が済んだ頃、アリエルが食堂にやってきた。
「おはようさん」
「おはよ。なんだよ? 今日は珍しく早いんだな?」
「さすがに今日は、な」
珍しく、アリエルもまだ眠そうな顔している。
おいおいっ、そんなんで大丈夫なの? 事故ったりしないでよ? あーた。
そういう俺も、あまり寝てないことがバレるのが恥ずかしかった。だから、念のため、部屋を出る前、しっかりと精霊水で顔を洗ってきていたのだが。
お茶をチビチビ飲みながら、偶に会話を交えつつ、アリエルが食事を終えるのをそれとなく待つ。
「アリエルさん、だめですよ。淑女たるもの、そんなに急いで食べたら……んっもう!」
「おいっ、それって、いったい誰のつもりだよ?」
アリエルのお母さん役──昨日判明した仮想シスターをイメージしてみたのだけど、やっぱりだめだったか。お気に召さなかったみたい。
まあ、そりゃそうだ。そのシスターに俺は一度も会ったことがないからね。そもそも名前しか知らない相手を、俺が勝手に想像しただけだから、アリエルが納得するわけもない。いや、なにね……なにせ暇だったもので。
「で、いつ頃、出発するつもりなんだ?」
「この後、部屋に荷物を取りに行って、すぐだな」
おいおい、そんなすぐなのかよ!? そっか。なら、今、渡しておいた方がいい。
「これ、つまらないものですが」
「つまらないもの?」
「あれっ!? この言葉は通じへんの? んじゃ、餞別なんで受け取っておくんなまし」
「おっ、なんだよ?! すげーかわいい袋じゃんか」
やっぱりか! リュタンちゃんのセンスは抜群な。女の子の心に刺さる感じ?
やばっ、なんか袋に中身が負けてる気が……。
「ごめん。期待してるところ悪いけど、中身の方は、その……ただ単に魔力を籠めただけの水だから。一応、俺の魔素を目いっぱい込めて生成したやつで」
「おぉっ、なんか凄そうだな! 魔物に投げつければいいのか? あんがとな」
いやぁーっ、投げ捨てないで!
「あのぅ、一応、回復薬のはずだから、飲んでください。……もし嫌だったら、手を洗うのにでも使って……捨ててもいいから、せめて俺が見てないところで捨てて。お願いだから……うるうる」
「あはは、分かってるって。冗談だよ。こんなありがたい物、捨てるわきゃねえだろ……ったく。それにまたそうやって、小芝居しておちょくりやがって」
違うの、アリエルさん。これは寂しさの裏返しなの。そんな面倒くさい生き物なの、わたくしって。
おっと、時間がないか? そうそう遊んでばかりもいられないな。
「本当に世話になったな。正直助かったよ、ここまでおまえが居てくれて」
「ふっ、ばか言ってんなよ。それはお互い様だろ? あたしもいろいろと、その……勉強になったよ。ありがとな」
目に溜まった涙がレンズとなって、アリエルたんが百倍かわいく見える。
「おいっ! なんかまた失礼なこと考えてたろ?」
「ひぃぇっ! いえいえ、そんなわけ……ないでしょ」
うっ、またしても、バレた!? なんでやねん?
「それじゃ、そろそろ……行くからな」
「うん」
あぁ、アリエルさんが部屋に戻ってしまわれた。
冷めたお茶すらほとんど残っていないカップを両手で包み、ぼーっとしてると、アリエルとの出会いの記憶が甦る。
ははは、最初は殺されかけたっけな。それにしては、仲良くなれた方か……。
取り留めのないことが浮かんでは消え、しばらくすると、アリエルが階段を下りてきた。
席を立ち、アリエルの後を追って、外に出る。
あれ、どこだ? アリエルがいない……。
きょろきょろと辺りを見回していると、どこか懐かしいような感じのする、稲藁に似た香ばしい匂いが漂ってきた。
馬の嘶きに気づき、振り向く。
すると宿屋の裏手から、アリエルが手綱を引いて戻ってきた。
よかった! まだ出発してなかった。
「元気でな」
「ああ、じゃあな」
最後の挨拶を交わすと、アリエルはあぶみに足を掛け、颯爽と馬に跨がる。すぐに馬を疾走させ、門を……あっ、門の前で門衛に止められた!? しかも、なんかめっちゃ叱られてる!
うん、なるほど。町の門は下馬した状態でゆっくり通らないといけないらしい。勉強になったぞ!! アリエル。
最後までいろいろ教えてくれてありがとう。今回は反面教師だったけど。
門の外に出たアリエルは、今度こそ、本当に矢のような勢いで馬を駆って、行ってしまった。
あぁ、結局……また一人になっちまったな。