30話 大地が豆腐のように削れていく
兆の桁にも届くほど多数の、蝶が織りなす素晴らしい眺望を堪能しつつ、紅茶の香りと砂糖の甘さで心身共に、超〜癒やされた。
「しつこ」
ん、あれっ!? ユタンちゃんには、砂糖甘すぎた? ああ、砂糖に対して、カップが小さすぎたか。あはは、ごめんよ。
「違うと思う」
「ん、なに? スプライト」
「別に」
「そう?」
それにしても、旅に出て早々、こんな素晴らしい景色に巡り合えるだなんて。うん、寄り道した甲斐があった。
想定外と言えば……。
旅の最中って、食事を用意するのも、片付けるのにも、なにかと手間がかかる──そう思って、基本的に昼食は摂らず、多めの朝食と夕食で済ませる気でいた。
今朝も宿で、みんなに多めの朝食を摂らせてきたわけだけど……。
にもかかわらず、予想以上に腹が減ってしまったのだ。総量は同じであっても、食事サイクルの変化に、なかなかすぐには身体が対応してくれないらしい。
まあ、活動量が普段より多いせいもあるかな。
慣れない初日くらい、軽めの間食か、なにか甘い物を用意しておくべきだった。今回は、あま〜いティータイムでなんとか凌げたけど。
とはいえ、旅の生活サイクルに慣らしていくことも必要だからね。しゃあないか。
さて、軽くエネルギー補給も済んだことだし、そろそろ旅を再開するとしよう。
テーブルと椅子は、このままでいいよな?
今日みたいに蝶の渡りがなくても、ここはなかなかに景色がいい。日溜まりで、爽やかな風も時折吹いてくるいい場所だ。誰かが立ち寄った際には、休憩で利用してくれるだろう。
ティーセットの方は、思いの外、スプライトが気に入ってくれたようだし、保冷庫の上の空きスペースにでも載せて、運ぶか。
いや、待てよ。ジンバル機構って、天地逆転は防げても、衝撃吸収の方はまるで期待できそうにない。割れ物を運ぶには、どうにも不安だ。
緩衝材でも作るか? 古くからの、あれで。
そこらに転がっていた枝を集め、風魔法で表面を薄く削り取る。それを更に細長く裁断していった──そう、木毛を作ってみたのだ。
なにかに使えると思って買っておいた麻袋の中に、この木毛をいっぱいに詰め、茶器の保護に利用する。これなら輸送中、そうそう割れることはないだろう。
まあ、割れたら、割れたでいい。またいつでも作ってやれるんだから。
さて、平坦な道のりということもあって、ここまで結構な距離を歩いてきた。
ユタンちゃんの脚力も未知数だったし、それ以上に、肉体を得たばかりのスプライトにとって、旅がどれほど負担になるか心配だったけど……全くの杞憂に終わった。
そもそも、スプライトは四大妖精のシルフ──普通にしていても、自身が纏う風が自然に軽量化を図ってしまう。見た目以上に軽いの、ほんと。
今さっき、お姫様抱っこしたばかりだから、確かだ。楽々だった。おっさんの俺でも、腰を全く痛める心配のないほどの軽さ──まるで羽毛布団のよう。
いや、だって、スプライトがあんまりにも自慢するもんだから、つい……というか、これほどの美女をお姫様だっこできる機会を俺が逃すわけがない。
はは、夢のよ〜う! あはは、正直、重さなんてどうでもいいっての。
まあ、普段からして、あんな軽い状態なのに、いざとなれば、移動する際、風のアシストが掛かるもんだから、疲れ知らずというわけだ。
ユタンちゃんに関しては、スピード、クイックネス、タフネス、全て申し分ない。
俺にしても、齢四十五にして、地球での常識が音を立てて崩れ去るほどの、常識外れな身体能力を発揮していた。
一見すると、美女、美幼女、おっさんの三人組といった頼りない顔ぶれではあるものの、こと移動力に関しては、勇者にも引けを取らない化け物トリオと言っても過言ではない。
そして、ついに……本物の化け物と出くわし、それが証明されることとなった。
初め、俺は何が起こっているのか、全くわかっていなかった。
叫び声のようなものが聞こえたかと思えば、幾ばくか、間が空いた後──突然、俺たちが歩いている右横、少し離れたところに、ぐちゃぐちゃになった塊が落っこちてきたのだ。まじ、びびった……。
少ししてから、それが、かつて馬車であった物だと、やっと認識できた。そのくらい酷い有様だった。
この先、街道は右に大きくカーブしており、ここからでは林が邪魔で先が見通せない。
信じられないことに、どうやら視界を遮っているこの林の上を飛び越えて、馬車が落下してきたようなのだ。いったい何をどうすれば、そんなことが起こり得るのか見当も付かなかった。
落下に先立って聞こえた悲鳴も、今はもう聞こえてこない……。
先へ進んだものかどうか逡巡しているうちに、【歩いてくボックス】から、なにかが飛び出し……いや、なにかではない。あれはまさしく、ユタンちゃんだった。
弾けるような勢いで、もうカーブを曲がり、見えなくなっていた。
俺が慌てて駆け出すのと、ほぼ同時に──『【疾風迅雷】』──スプライトが移動アシストの魔法を掛けてくれた。
一緒に後を追う。
林を右に回り込むと、途端に視界が開ける──そこには今まで見たこともないような生き物が、街道に立ち塞がっていた。それも、なにかを圧し潰そうと、何度も何度も腕を地面に叩きつけて。
毛皮がぶよぶよに弛み、セイウチみたいにたくさんの皺ができた黒い巨体──半端じゃない。アフリカ象を一回りほど大きくした、でかさだ。
胸に見える歪な白斑紋が、俺になにかを訴えかけてくる……。
それでいて、四肢はセイウチのヒレのようなかわいらしいものではなかった。熊以上に太く、全てを切り裂きそうな強靭な五本の鉤爪をしている。
腕を大きく振り上げては、振り下ろすと、大地が豆腐のように削れていく。
太く長い牙が、口から大きくはみ出し、肉を喰らうのが待ちきれないかのように、涎をボタボタと垂れ流している。
涎まみれになっている黄褐色の鼻先も、やけに目立つ。
極め付きは、眼窩から血の涙を流しつつ、更に赤黒く怪しい光を放つ瞳……あれは、いったい!?
いやいや、そんなことはどうでもいい。今はそれどころじゃない。なんせ、あのデカブツに近寄って、紙一重でちょこまかと避けているのが、ユタンちゃんなのだから。
やばいよ、やばいよ。やばばば……やばいよぉ……どど、どうすんの、これ? は、はよ、早く助けねえと……。
「ユタンちゃぁーん! 引いて。一旦引いてぇーっ!!」
えっ、まじ!? もうこんな近くまで戻ってきてる? あ、そうか! 魔法線か。繋がってる効果か。よし、今なら。
「消えてぇえ、無くなれぇぇえいーーーっ!」
ありったけの魔素を込め、魔法をぶっ放した。
いや、魔法とは、とても呼べやしない。なにもイメージできなかったから……。目の前の醜悪な存在をただただ消し去りたいがため、解き放っただけ──それが魔素の噴流となって、吹き出しただけの。
魔の奔流が過ぎ去った跡には、あらゆるものが灰燼と化していた……。
「あぁ〜あ、やっちゃったわね。やっつけるには、やっつけたけど……。やりすぎよ」
わかっているって、俺だって。いや、放った直後に気がついたわけだけども。
今ならわかる! これは危ない。だめっ、絶対!!
「おもろ」
あっ! そうだった。
「ユタンちゃん、だめでしょっ! あんな危険なことしちゃあ。心配で心配で、おじさん危うく死んじゃうとこだったよ? めっ!!」
しかも、町くらいなら、危うく全滅させちゃうとこだったし……ふぅ、あっびっねえ。
「たのし」
「えっ!? なにが?」
「さけてる」
「えっ!? 裂けてるって、どこか怪我したの!? どこ、どこ?」
「違うでしょ。攻撃を避けるのがって、ことよね?」
「そ、そうなの?」
小さな頭が取れちゃいそうになるくらいの勢いで、何度も頷いてるユタンちゃん。
え、なに? ユタンちゃんって、戦闘狂なの!? 戦闘民族ヤサイ系のお人なの? ベーコン好きの、ごりっごりの肉食なのに……。
「ばかね。単にダンスみたいで楽しいってだけでしょ」
「うむ」
はあ、どうやら、そうらしい。よかったぁ、ほっとしたぁ……って、いやいや、そうじゃないよっ!
「だめだめ、危ないからぁ。危険だからぁ。もう二度としちゃ駄目だからね」
「やだ」
「ユタンちゃん、めっ!」
「むし」
えぇぇーっ、ユタンちゃん、もう反抗期? お、おじさん、どどっ、どうしたら??
「あほ」
「おいっ! スプライトからも、なんか言ってくれ」
「別にいいんじゃない。あの程度の魔物」
「へっ!? あれって……魔物だったの?」
「はぁあっ!? それこそ、なんだと思ったのよ? あんな危険なの放ってまで倒したくせに」
「そこつ」
はは、ユタンちゃんまで……。
へえ、そっかぁ。あれが、魔物だったんか。
あぁぁっ、そうだった! 誰か襲われてたんだった……うっ、まさか、あの潰れた肉片って、馬か!?
じゃあ、馬車に乗ってた人って……げっ、まじか!? あ、あれが?
おぅっうぇっ、げぇっおぉぅっ……。
「えっ、だ、大丈夫!? いきなり、どうしたのよ?」
「ふぅ、はあ、ふぅ、はあ、うぅん。は、はは、大丈夫。平気だから……ふぅ」
うっ、また。喉に胃酸が。……でも、よかったぁ。スプライトのやつ、気が付いてないみたいだな。
おいおい、まじかよ? あのぼろ布と一緒に、木の枝に絡まったり、飛び散ってるのが、人の……欠片なのかよ……。
まあ、馬車が、あんな高い林を飛び越えてったくらいだからなぁ。ああもなるか。
ん、あれっ!? おかしいな。魔物って、たとえ一度倒されても、何度も復活してくるって話じゃなかったっけ? 近くに怪我した動物がいる限りは……。
ああ、人も、馬も即死だったせいか!? もしかして、それが幸いしたのかも……なんまいだぶ。
とりあえず、穴掘って埋めてやろう。
いや、駄目なんだった。この世界では火葬しないと。そういや、アンデッド化するおそれがあるって、レイノーヤさん言ってたもんな。仕方ない。
とはいえ、まずは穴掘りだ。火葬してる間、火が辺りに燃え広がらないようにしておかないと……。
遺骸を集めて、掘った穴の中に収め、火を灯す。
徐々に火力を強めていき、灰になるまで待った……。
最後に、遺骨に土をかけ、墓標を立てる……ふぅ。
全部魔法を使って済ませてしまった。手を触れずに埋葬したこと、どうか許してほしい。君らだって、これ以上死を汚されたくはあるまい。俺もこれ以上吐きたくないもの。
拝むくらいはしてやるから、成仏しろよ……。
……ふぅ、もういいかな。水魔法での浄化をイメージし、念のため、服を着たまま、全身を隈無く洗浄していった。
……あぁ、君ともお別れか。どうやら、水の精霊の魔力が尽きてしまったようだ。
今までありがとな、水の精霊さんや。
せめて最後は俺の手で天まで送還してやらないとな。
自身の体内にある魔素を消費し、上昇気流の筒を編んでいく。そこに水の精霊を乗せ、昇華させてあげた。
まるで鎮魂の光のよう……。
うぅぅ、いつまでも感傷に浸ってる場合じゃない。さ、寒っ! 風邪ひきそう……。びしょ濡れの服に温風魔法を当て、すぐに乾かす。
はあ、いつかどこかで、魔物に出くわすとは思っていたけど……。
んっ!? なんだろう? この違和感。なにかが変……。
いったい、全体、なにが?
……ああ、これか。木が倒れたり、地面が削れてたりしているのが、この周辺だけに限定されてる。それが異様に感じられるんだ。
あれほど荒れ狂った魔物、それに、あの巨体だ。ただ歩いてきただけでも、ここまで通った跡が何かしら残りそうなものを……。そんな形跡がどこにもない。
なぜだ?
まさかこの街道に沿って、なにも壊さずに、おとなしく歩いてきたわけでもあるまいに……。いくらなんでも、それは……なぁ。
いったいどうやって、ここまで来たんだ?
ん、なんだ!? あんなところに光が……あ、精霊、いつの間に?
危ない危ない、見落としてたのかよ。まあ、魔物の方に気を取られすぎてたからな。
今更だけど、やはり我を忘れてたみたい。
『ささっ、ちこう。近う寄れ! 我が同志よ』
ほほほ、愛いやつ、愛いやつ、ん、黒いやつ!? なんと! 君はレアな、闇の精霊殿ではござらぬか。
ははは、仲良くやろうではないかい。のぉ。




