表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

本編

「お姉ちゃん、一緒に遊ぼう」

いいよ、坊や。お姉ちゃんとたくさん遊ぼうね。

「お姉ちゃんは、優しいね!」

ありがとう。坊やはもっと、優しいね。

「お姉ちゃん、相談に乗ってほしいんだ」

いいよ。なんでもお姉ちゃんに言ってね。

「お姉ちゃん、つらいことがあったの」

お姉ちゃんに話してごらん。お姉ちゃんは坊やの味方だよ。

「お姉ちゃんと、ずっと一緒にいたい」

そうだね、お姉ちゃんも、坊やと一緒にいたいよ。

「お姉ちゃん、大好き!」

うん、嬉しいな。お姉ちゃんも、坊やが大好きだよ。

「お姉ちゃん、結婚して!」

ふふ、嬉しいなあ。坊やと結婚したら、幸せだね。

「お姉ちゃん、愛してる!」

とっても嬉しいよ。お姉ちゃんも、坊やを愛してるよ。



私は、どこで間違ったんだろう?



20歳の時、彼氏ができた。優しくて聡明で、思いやりのある素敵な人だった。

22歳の誕生日、彼は、サファイアのついた指輪を差し出し、私に婚約を申し出た。涙が出るほど嬉しくて、彼との結婚を約束した。

彼との素敵な未来が待ってる。そのはずだった。



「お姉ちゃん、結婚してください。」

小学校低学年の頃から可愛がっている9つ歳下の坊やがいる。昔から子供は好きで、坊やと遊んだりおでかけしたり、色んなことを教えるのがとても楽しかった。

坊やは、私を何度も大好きと言ってくれた。愛してるとまで言ってくれた。結婚してほしいとせがまれた。 最初に言われたのは17歳の頃だろうか。まだ坊やは8歳。子供らしい恋心に、私は心躍った。本当に結婚できたら、うれしいだろうな。

けれど、子供の頃に歳上に憧れる、麻疹みたいな恋心だろう。将来への漠然としたイメージだけで発せられる、軽い気持ちのプロポーズ。思春期になれば、同世代の子に恋をして、一回りも歳の離れたお姉ちゃんへの恋なんて、忘れていく。そういう小さな恋だ。寂しいな。でも、私が坊やの未来を決めてしまうわけにはいかないよね。


そう思ってた。


「お願い。ぼくと結婚して。」

坊やはとても真面目な子だ。いつもちゃんと目を見据えて言ってくる。なんだか本気のプロポーズに思えて、心地よかった。嬉しいよ。私も大好きだよ。私もそう返してあげていた。

けれど、私はもう婚約している。もう、ちゃんと断らなくてはならない。坊やを傷つけてしまうが、この経験を糧にして本当の幸せを見つけてほしい。坊やももう13歳だ。ちゃんと区切りをつけるべきだろう。

「お姉ちゃんと結婚したいって言ってくれて、本当にありがとう。嬉しいよ。でもね、ごめんね。お姉ちゃんは、坊やにとって特別な存在ではいたいけれど、結婚という形は、ちょっと違うかな。私にも、大好きな人がいるんだ。もちろん坊やも大好きだよ?けど、その人とは生涯を共にしたいの。坊やはまだまだ小さいから、歳上のお姉ちゃんに憧れちゃう気持ちはわかるよ。誰でもそういう時期はあるの。でも坊やがこれから色んな人と出会って、色んなことを経験したら、もっと素敵な人が見つかる。坊やは素敵な子だから、きっと誰かの大切な人になれる。その人と幸せな家庭を築いていってほしいな。お姉ちゃんは、坊やのこと応援してるよ」

なるべく坊やを傷付けないようを言葉を選んだつもりだ。泣いちゃうかな。でも坊やは賢いから、納得してくれるよね。


けれど、坊やの顔は、真剣な表情を崩さなかった。

「知ってるよ、その男。ぼくより後に知り合ったよね。ぼくはその前から何度も結婚してほしいって言ってたよ。ぼくはずっと本気だったよ。どんな困難があっても、お姉ちゃんを一生涯幸せにする覚悟があるよ。お姉ちゃん、喜んでくれたよね。ぼくと結婚したら幸せって言ったよね。それなのに、お姉ちゃんはぼくを拒絶してその男を選ぶんだね。…もう一度言うよ。ぼくと結婚して。」

想像よりも覚悟が強かった。口では何とでも言えるとはいえ、その目が覚悟を物語っていた。これを、断らねばならないのか。

「坊やが寂しい気持ちになるのは、お姉ちゃんも辛いよ。でも、お姉ちゃんは、彼のことを本当に愛しているんだ。坊やも、そんな風に思える素敵な人ときっと出会えるよ。お姉ちゃんは、いつまでも応援しているからね」

本当に辛かった。坊やのことは本当に大好きだ。だから拒絶したくなかった。だからこそ、今まで引きずってしまったんだろう。完全に私のミスだ。

坊やは真面目でやさしくて、賢くて、本当に素敵な子だ。私がダメでも、幸せになれるはず。けど、このままでは、ショックが大きすぎて病んでしまうかもしれない。引きこもったりしてしまうかもしれない。私もそんな坊やを見るのは嫌だ。

しかし、坊やから帰ってきた言葉は…想像を遥かに超えていた。


「わかった。…なら、ぼくはあの男を殺す。嫌なら、ぼくを殺して。」


耳を疑った。あの心優しい坊やがそんな脅しをするなんて。いや、脅しじゃない。本気だ。覚悟を決めた目をしている。…そうだ。坊やが結婚を求めてきた時は、いつもこの目だった—————


「坊や、落ち着いて。まず深呼吸をして、落ち着いて。ちゃんとお姉ちゃんとお話しよう。お姉ちゃん、坊やがとてもつらいの、痛いほどわかるよ。でも、だからって、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりするのは、絶対に違う。坊やは、そんなことする子じゃないはずだよ。坊やは人を思い遣れる優しい子だよ。だから、そんなことしたらお姉ちゃんがどう思うかもわかるはずだよ。ねえ坊や、落ち着いて、考え直して。お姉ちゃんも一緒に考えるから、ね?」

必死に訴える。言葉を絞り出す。考えて考えて、どうしたら坊やが落ち着いてくれるか、必死で考える。けれど、坊やはナイフを差し出したまま、全く表情を動かさなかった。坊やは錯乱しているのではない。覚悟を決めているからこそ、むしろ驚くほど落ち着いているのだ。

「さあ。ぼくを殺して。」

私の前で、坊やが差し出したナイフが光る。坊やは、私に自分の死を選ばせている。彼を殺すより、私に殺されて絶望を見ずに消えることを選びたいんだろう。心優しい坊やは、やっぱり人を傷付けるつもりはないんだ。そう、安心してしまった。

「坊や、私は受け取らないよ。お姉ちゃん、優しい坊やを信じてる。坊やが幸せな未来を歩んでいけることを信じてるの。坊やの未来を終わらせたくないの。坊やを傷つけることなんてできないの。だからおねがい。生きて。幸せを掴んで。そのためなら、お姉ちゃんなんでもするよ」

泣きながら訴えた。坊やの前で泣いたのなんて初めてだ。坊やといる時はいつも幸せでいっぱいだったから。

「お姉ちゃんがあの男と結ばれる時点で、ぼくは一生苦しむんだよ。そこに幸福は存在しない。お願い、ぼくを殺して。」

「できないよ。坊やを傷付けたくないよ」

「ぼくの気持ちを弄んだ挙句拒絶して、傷付けたお前が今更言うな!!」

坊やにこんなふうに怒鳴られる日が来るなんて。お前と吐き捨てられる日が来るなんて。お姉ちゃんと、無邪気に優しく呼んでくれた坊やに、こんなことを言わせてしまっただなんて。

坊やの言うことは正しかった。私はもう、坊やをめちゃくちゃに傷付けたんだ。今更傷つけたくないなどと、どの口が言っているんだと。

「ごめんね…ごめんね…お姉ちゃんが悪いよね…全部お姉ちゃんが悪いの。ごめんね…だから、お願い…坊やが幸せになるために、お姉ちゃんなんでもするから、お願い…」

「なら、ぼくを選んで」

静かに、しかし、ほんの少しだけ縋るような声で、坊やはもう一度言った。多分これが、最後のチャンス。そうだ。そうすべきなんだ。それが最善策なんだ。けれど、この期に及んで、私は彼との人生に執着していた。

「…ごめんね…」


坊やがナイフを戻した。諦めてくれたのかなと、私は坊やの優しさに甘えていた。



「さよなら。」



一言、抑揚のない冷たい言葉が投げつけられた。ただの別離の挨拶ではない、重い失望の気を纏っていた。

「お願い、いかないで!お姉ちゃんのところに戻って、おねがい…!」

言葉はもはや届かず、扉は静かに閉まった。

あぁ、やってしまった。大好きな坊や、愛しの坊や、大事な大事な、私の坊や。もう私の元には戻ってこない。私の前で、あの笑顔を見せてはくれない。あんなに愛してくれたのに、もう抱きしめることはできない。

そうか、私は抱きしめることすら、最後にしてあげなかったのだ。坊やは、そのささやかな温もりすら拒絶されたんだ。もう、取り返しがつかない。坊やはもう、遠く遠く、私の知らないところへ…


本当に?


まさか、不安が過る。坊やは、本当に私に別れを告げたのか?裏切られてもあれだけ執着していた私を、本当に諦めた?

坊やの行先は…………彼だ。坊やは、「知っている」と言った。坊やは、彼を知っている。つまり………


しかし、私の足は動かなかった。電話を手に取ることすらしなかった。このままでは彼は…

坊やは、とても賢い子だった。時に、恐ろしい程に。坊やなら、彼を難なく殺せる。しかし、私は何もしなかった。もちろん彼に死んでほしくない。しかし坊やをこれ以上阻害することができなかった。坊やが殺しを完遂することを、…どこかで望んでいた…?


私が、本当に、愛していたのはーーーー





「お姉ちゃん、喜んでくれたよね。ぼくと結婚したら幸せって言ったよね。」

そうだ、確かに言った。もし坊やと結婚できたら、間違いなく幸せと思えた。


「結婚という形は、ちょっと違うかな。」

バカなことを言うな。何も違わないじゃないか。私は坊やに本気で恋をしていたじゃないか。坊やは、本気だったじゃないか。それを私は、勝手に子供の戯言だと諦め、切り捨て、勝手に新しい恋愛を始めた。これは坊やの失恋じゃない。私の浮気だ。


私は坊やの気持ちが本気かどうか、一度でも向き合って確かめたか?適当な言葉を投げかけただけだ。坊やは何度も何度も言ってきた。私の言葉が上辺だけだと見抜いていたんだ。しかし私の気持ちにも気付いていたんだ。だから何度も何度も、自分は本気だと、覚悟があると、示してくれた。本気だから、お姉ちゃんも本気で選んでいいと、チャンスをくれていた。そのチャンスを、浅はかな思い込みですべて私が潰したんだ。


暗い部屋で1人泣き叫んだ。何もかも自分が悪い。私は自分の軽率な判断で、2人の人間を不幸にした。彼は何の罪もなくこのまま殺され、坊やはボロボロの心と重い罪を抱える。

このまま死んでしまいたい。けれど、それをしたら坊やの心を愈々粉々にしてしまうだろう。傷だらけの心で罪を背負って、結果得るのが私の死体では、あまりにも報われない。


「ぼくを選んで」

坊やは、あれほど傷ついても、あれほど失望しても、最後にチャンスをくれた。それでもなお、私は拒絶した。そして今ですら、坊やが思いとどまってくれることを期待している。なんと甘ったれた人間なのだろう。


その時。扉が開いた。 坊やの足が見えた。

「お姉ちゃん、ごめんね。ぼくが間違ってた」

そんな言葉を期待してしまった。まだ、坊やの優しさに縋っていた。

甘ったれた希望に縋って顔を上げると、血塗れのナイフを持った坊やの姿が、希望を打ち砕いた。

ああ、やってしまったんだね。


「もう、お姉ちゃんがあの男と幸せになる未来はないよ。残念だったね」

彼が死んだことを示すために血のついた刃を見せ、血を滴らさないよう素早く収めた。坊やの賢さがよくわかる。彼を殺すときも、手際よく済ませたんだろう。

私は、坊やが再びお姉ちゃんと呼んでくれたことに、わずかに安堵していた。

「坊や…本当に…やってしまったの…?」

「ぼくが嘘ついたことあった?正直で嘘つかない、って褒めてくれたお姉ちゃんなら、わかるよね。」

そうだ、坊やは嘘をつかない。だから、本当に、彼はもうこの世にいない。

彼はどんな最期を遂げただろうか。坊やは礼儀正しいから、彼にしっかり謝罪をしてから殺したのだろう。彼は底抜けに優しいから、力で坊やを抑えつけたりせず、まず話そうとしたはずだ。坊やを傷つけたことを謝罪したかもしれない。自分に何の罪もなくても。

坊やも彼も、賢く、礼儀正しく、人を思い遣れる、とても心優しい人だ。だから大好きだった。ああ、私は彼を、坊やの代わりにしていたんだ。

「僕を恨む?殺す?好きにしなよ」

坊やは私の前で無防備に立っていた。彼はもういないからお姉ちゃんは僕のものだ、とは言わない。最初からずっと、選択権は私に委ねている。

「お姉ちゃん、言葉が見つからないよ。ただ、坊やがそんなに苦しかったことに、気づいてあげられなくて、本当にごめんね。坊や、お姉ちゃんは、これからどうしたらいい?お姉ちゃんにできることがあるなら、何でも言ってね。坊やのためなら、お姉ちゃん、何でもするよ」

私はずっと選択を間違えていたんだ。だから、私の間違いで、こんなことを引き起こしてしまった。もう、私は何も選べない。選ぶ資格はない。私は坊やに、未来を委ねた。

「ぼくを愛して。最初からそうしてれば、ぼくは誰も殺さずに済んだんだよ。あの男の命に興味はないけど、ぼくが罪を負うことも、お姉ちゃんが悲しむこともなかった。」

そうだ。最初から答えは提示されていた。それだけで、解決したはずだ。最良の選択肢を、私は最後の最後まで否定し続けたんだ。

彼が死んだ今、私にはもう坊やしかいない。坊やにも、私しかいない。坊やは、殺人犯だ。私が選ばなければ、もはや幸せな人生は望めないだろう。いや、最初からそうだったのだ。

私は、本来ここで心を鬼にして、坊やに自首と更生を促さなければならない。子供を導く大人の義務で、坊やの過ちを呼んだ私のけじめだ。しかし、それをしてしまえば、私達はどちらも心が砕け散ってしまうだろう。

「そうだね。もしお姉ちゃんが最初から坊やの気持ちにちゃんと向き合ってたら、坊やは誰も殺さずに済んだかもしれないね。あの人も、坊やも、お姉ちゃんも、誰も悲しまずに済んだね。お姉ちゃんは、本当に罪なことをしちゃった。でも、時間は巻き戻せない。お姉ちゃんにできることは、今この瞬間から、坊やを全力で愛することだけ。そうだね。ずっと待たせて、ごめんね…」

ほんの少しだけ、坊やの表情が和らいだ。

「めいっぱい、抱きしめて。愛して。愛の言葉を囁いて。」

ようやく、坊やの欲しかったものを、あげられる。いつでもあげられたのだ。坊やは目の前にあるこれをずっと欲して、私は目の前で握りつぶし続けていたんだ。たったこれだけのことをしてあげなかったせいで、こんなことになってしまったんだ。

「坊や、おいで。」

そっと、優しく、けれど今までで一番強く、坊やを抱きしめた。

「温かいね。坊やの鼓動が、お姉ちゃんの腕の中で、優しく響いているよ」

坊やの頬をそっと撫でる。凍りついていた表情が、ほんの僅かに赤く染まっていた。

「可愛い坊や。お姉ちゃんの大切な坊や。愛してる。世界中の誰よりも、坊やを愛してるよ。坊やの笑顔が、お姉ちゃんの一番の幸せ。坊やの涙が、お姉ちゃんの一番の悲しみ。坊やのすべてを、お姉ちゃんは愛してる。だからどうか、ずっとずっと、お姉ちゃんのそばにいて。」

そっと、坊やにキスをした。まだ幼い坊やの唇が、心地よかった。そう感じながら、彼にキスをしてしまったことを酷く後悔した。ああ、この唇も、この温もりも、最初から坊やだけのものだったはずだ。坊やは汚れてしまった私をいつまでも抱くことになるんだ。

坊やは、キスに少し照れながら、とびきりの優しい顔で、汚れた私を抱き返してくれた。あぁ、なんて心地良いんだろう。私はあろうことか、恋人を殺した人間に抱かれて、心地良さを感じていた。いつの間にか、彼への恋慕が消えていた。その程度の恋のために、大事な大事な坊やを壊してしまったんだ。

「ずっと一緒だよ。お姉ちゃん。…ぼくは殺人犯だ。子供とはいえ、追われる立場だ。お姉ちゃん、一緒にいてくれるよね。どこまでも一緒に逃げてくれるよね。」

もう迷いなんてなかった。この腕の中の愛おしい宝物を、手放す気はなかった。

もし自首させたら、坊やは少年院だろうか。出てくるまで、何年かかるだろうか。もはや、私はそれを待てない。もう片時も離れたくなかった。何年会えなくても、心はそばにいるなどと、綺麗事を言う余裕はなかった。

何より、私は坊やの信頼を失っているのだ。少年院にいる間にさらに他の男に靡くことを、私がどれだけ否定しても、坊やが信じることはない。

「坊や、一緒に逃げよう。どこまでも、一緒に。坊やが殺人犯だとしても、お姉ちゃんの気持ちは変わらない。坊やがどんな立場にいても、お姉ちゃんは、ずっと坊やのそばにいる。それが、お姉ちゃんの決意。お姉ちゃんの贖罪。もう一人で苦しむことはないんだよ。お姉ちゃんが一緒にいるから。どんな困難が待ち受けていても、二人なら乗り越えられる。お姉ちゃんはもう、坊やのことを絶対に裏切らない。だからどうか、お姉ちゃんを信じて。一緒に行こう。」

「ありがとう。おねえちゃん。愛してる。君はもう、ぼくの共犯。同じ罪を背負ってる。一生ぼくと、罪とともに生きていくんだ。一生だよ。」

「そうだね、坊や。お姉ちゃんは、坊やの共犯者になった。坊やと同じ罪を背負って、一生坊やと一緒に生きていくよ。もう、離れない。私達は、永遠に一緒だよ。」

「約束だよ。…行こう。警察が気付く前に、遠く遠く、誰もいない、誰も気付かない場所に、2人だけで。」

あぁ、もう、後戻りはできない。普通の人生には、二度と戻れないだろう。けれど、坊やの手を取った私は、高揚していた。


「坊や、もう、後戻りはできないね。私たちは、もうお互いしか頼れない。坊やがお姉ちゃんを愛してくれるなら、お姉ちゃんは、坊やのために何でもするよ。さあ、一緒に行こう。もう、誰にも邪魔させない。二人だけの世界へ行こう。どこまでも、どこまでも、一緒に。」

坊やと固く手をつないで、私達は飛び出した。まだ何処へ行くのか、わからない。けれど、坊やと2人なら、何処へだって行ける気がした。

「ねえ、お姉ちゃん。あの男を殺したこと、恨んでる?」

そうだ、本来なら坊やにとって私は、自分を恨む人間のはず。しかし、私にはもうわからなかった。彼はとてもいい人だ。彼の安心感と魅力は、本物だった。もし坊やがこんなことをしなければ、私は彼と、平穏で幸せな生活を送れたに違いない。なのに…私は坊やに対する恨みは…全くなかった。

「恨んで、ないよ。全く恨んでないの。やっぱり、私には坊やが一番大切だったんだね…。」

恨みはない。けど、大人として、坊やにはちゃんと言わなくてはならないだろう。

「ねえ、坊や。たしかにね、お姉ちゃんは坊やを恨んでない。けどね、あの人には、何の罪もない。坊やが苦しんでいたことは、絶望していたことは、痛いほどわかる。でも、だからって、殺していい理由にはならない。坊やはとっても賢いから、わかるよね。お姉ちゃんは、坊やのことが大切で大好きだから、坊やと一緒に逃げることを選んだ。でも、坊やの気持ちを、ちゃんと聞きたいな。坊やはどう思っているの?あの人を殺したことを、後悔している?それとも、ああするしかなかったと思ってるの?お姉ちゃんは、坊やの気持ちをちゃんと理解して受け止めたい。どんな気持ちでも、お姉ちゃんは坊やの味方だから。」

「ぼくは、あの男の命には全く興味ない。ただの、穢れ。最愛の人についた、穢れ。確かに、何の罪もない。罪があるのは、ぼくの気持ちを無視したお姉ちゃんだ。何年も前から、ぼくはお姉ちゃんを愛していた。愛を伝えていた。それを勝手に子供の戯言と、若気の至りと見做して向き合わなかった、あなたが悪い。ぼくは人を殺したことそのものに後悔はない。あなたがぼくを切り捨てる選択をした時点で、ぼくには選択の余地はなかった。ただ、この罪がなければ、逃げる必要も隠れる必要も、なかった。普通で、幸せな生活を送れた。だから、ぼくは後悔はないけど、あなたを恨む。一生恨む。この恨みを中和できるのは、あなたの愛しかない。」

坊やは、私が彼と結ばれる未来そのものに絶望していた。私が坊やを受け止めなかった時点で、確かに、坊やに選択肢はなかった。恨むのも当然だ。けれど坊やは、この恨みを抱えてなお、私を心から愛してくれる。私が愚かにも拒絶しようとした愛は、この世で一番の、無上の愛だった。

「そうだね、坊や。恨むのは私じゃなく、坊やだね。でも、坊やはこんなに恨んでも、私をこんなに愛してくれるんだね。ごめんね。坊やの本気の愛に、気付いてあげられなくて。坊やの本気を子供の言うことだと勝手に決めつけて。一度でも向き合ってれば、こんなことにはならなかったのにね。ごめんね。全部全部、お姉ちゃんが悪いね。坊やのこと、ずっとずっと、本気で好きだったんだよ。だから、これからはずっと、永遠に、坊やを愛し続けるよ。だから、お姉ちゃんを許してくれる…?」

坊やは、優しい声で、けれど少しだけ強く、私に言った。

「だめ。許さない。絶対に。その罪は一生抱えていくの。あなたは、ぼくを一度裏切った。ぼくの愛を受け入れるふりをしながら、ぼくに寄り添うふりをしながら、他の男に色目を使い、ぼくを拒絶した。味方だと、愛していると嘯きながら、明確に拒絶した。だから、あなたには罪という楔を打ち込み、ぼくと繋ぎ止める。その楔を抜こうとするなら、ぼくは更に罪を重ね、楔を増やす。ぼくは他の命に興味はない。他の誰を傷つけようが、人生を奪おうが、構わない。あなたを繋ぎ止めるための贄に過ぎない。ぼくに罪を重ねてほしくなければ、自分の罪を負い続け、ぼくを生涯愛し続けるしかない。」

本気で愛していた。本当だ。自分が本気じゃないから拒絶したのではない。坊やが本気で無いと勝手に思い込んだだけだ。けれど、坊やはまだ信じてはくれない。坊やの信用は、これから深く深く愛し続けることでしか、得ることはできない。坊やは、その選択肢を与えてくれた。やっぱり、坊やは優しいね。大好きだ。

これから先、坊やからは何度も聞くだろう。愛してほしいと。そのたびに、私は応えなければならない。応えたい。坊やの提示する私達の未来は、過酷で、たまらなく魅力的だった。

「安心して。お姉ちゃんは、いつまでも坊やのそばにいるよ。坊やを心から、たくさんたくさん、愛し続けるよ。それが、お姉ちゃんの約束だから。」

坊やは、真剣な眼差しで、私の顔を見つめた。あぁ、その表情。私に幾度も見せてくれたね。その表情で、私に愛を伝えてくれたね。その表情がたまらなく愛おしい。

「約束。今ここで、ぼくの口に、誓って。」

改めて、覚悟を決めた。坊やの目をしっかりと見て、宣誓する。

「坊や、分かった。今、ここで誓うよ。私は、この命ある限り、坊やのことを愛し続ける。どんなことがあろうと、坊やのそばから離れない。坊やが苦しんでいる時は、一緒に悩み、一緒に苦しむ。坊やが喜んでいる時は、一緒に喜び、一緒に笑う。坊やの喜びは、私の喜び。坊やの悲しみは、私の悲しみ。坊やのすべてを、私は受け入れる。」

坊やの手を取り、強く握る。

「だから坊や、どうか、私を信じて。私は、坊やのことを決して裏切らない。これは、私と坊やの、決して違えない、約束だよ。」

そっと唇を当て、深く深く、時の流れを忘れるほど長く、約束の口づけを交わした。

「わかった。信じる。ずっと、信じさせてね。」

「もちろん、ずっとずっと。」

「うん。ずっと、一緒。片時も離れない。ぼくはまだ、子供だ。男とはいえ、子供。だから今は、あなたの庇護が要る。ぼくを守るために、あなたは罪を重ねる必要もあるかもしれない。その罪は、ぼくも背負う。共に過ごして、ぼくが大人になれば、ぼくもあなたを守る。あなたと守り合って生きていくんだ。ぼくたちの愛が変わらぬ限り、どんな困難も2人で打ち払おう。世界がすべて敵になったら、世界を滅ぼしてでも生き続け、愛し続けよう。」

「お姉ちゃんが悪くても、坊やはお姉ちゃんを守ってくれるんだね。一緒に罪を背負ってくれるんだね。すごく嬉しいよ。坊やが子供の間は、お姉ちゃんが坊やを守る。坊やが大人になったら、今度は坊やがお姉ちゃんを守る。二人で支え合って、生きていこうね。世界がすべて敵になっても、お姉ちゃんは絶対、坊やの味方だよ。」


こうして私達の、長い長い、永久に続く愛の逃避行は始まりを告げた。坊やと二人で、どこまでもどこまでも、逃げ続けた。誰も知らない場所で、たった2人だけで、静かに寄り添い、愛を確かめ合った。


私達の傍らには、小さな指輪が煌めいている。青いサファイアの嵌った、あの人からの婚約指輪。彼への未練ではない。私の過ちへの戒めと、罪もなく死んだ心優しい青年への贖罪のために。



坊やは、幸せになれたかな?私は坊やと一緒で、世界で一番、幸せだよ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ