1.任務
「おはようございます、ふぁ…。」
まだ若干眠たげな挨拶と共に、圭人は仮眠室のドアを開けた。昨晩の仕事を終えた後、そのまま商会本部に泊まっていたのである。
といってもそれは珍しい事ではなく、いつものことだった。彼が自宅に帰宅するのは、むしろ珍しいことである。
帰宅しない理由は色々あるが、まぁ一番の理由は、ただ単に家まで帰るのがめんどくさいというだけのことだ。瞬間移動という便利な能力があるくせに、と同僚たちからはよく怒られている。だが圭人が態度を改善することはない。どうせ帰ったところで待っているのは、何日敷きっぱなしにしているのかもはや分からない布団が乗ったベッドと、虚しくモーター音を響かせている空っぽの冷蔵庫だけである。
そんなしょっぱい寝床に帰るくらいなら、即退勤即出勤できる仮眠室暮らしの方がずっと快適だった。だから圭人はよっぽどのことがない限り、仮眠室の居住権を手放す気がないのである。
「おはよー!」
仮眠室を出ればすぐに明るい挨拶が返ってくる。毎日聞いているその甲高い元気な声は、もちろん昨晩も仕事を共にしたケモ耳少女、チコのものである。
色々事情があって家なき子であるチコも、圭人と共に仮眠室に泊まる日々を過ごしていた。
しかし今の今まで眠りこけていた圭人とは違い、彼女はきっと今日も朝の6時には目覚めて、社内を遊び場にして楽しげにぐるぐると走り回っていたのだろう。
圭人を見て嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってくるチコの姿を見て、圭人は力なく笑った。朝から元気な彼女と自分を比べ、年齢による体力の差など諸々の老いを感じ、やるせなくなったのである。
「眠たそうねぇ圭人。始業時間にはなんとか間に合ってるけど、今日も遅刻ギリギリよぉ?仮眠室に寝泊まりするのは良いけど、それならもう少し早く起きてきなさいな〜。」
「はい、すんません室長。」
「口だけの謝罪なのが丸わかりね〜、んもぅ。」
やれやれと肩をすくめるスーツ姿の小柄な女性は源光子。ウェーブのかかった肩までの栗毛に、菩薩のような笑みを絶やさない目元。いかにも温厚そうな雰囲気をまとった女性だが、室長と書かれた札が輝く立派な机の前に座っている通り、彼女こそ、この特別顧客担当室のトップである。つまり圭人にとって、彼女は頭の上がらない直属の上司だ。
「当然だけど今日も仕事がありますからねぇ。早く顔洗って来て、その寝ぼけ顔を直してきなさいな〜。」
かろうじてスーツに着替えてはいるものの、寝起きなのが丸わかりの圭人を見て、光子はぴんと人差し指を天井に向け、発破をかける。
「ふぁい、いってきます。」
圭人はまだ出てくる欠伸を何とか噛み殺して、仮眠室の隣にある給湯室に向かうことにした。するとチコがテテテッと駆け寄ってきて、その道中に加わった。
「チコも一緒に行く〜!」
「えぇ?お前は寝起きじゃないんだから顔洗う必要はないだろぉ。」
「さっき泥遊びしたから、手が真っ黒なんだ〜。」
「ありゃまぁ…これはドロドロ…。」
バアッと、こちらに向けて元気よく見せつけられた小さな両手は確かにドロドロの真っ黒である。朝から元気が良くて大変よろしいが、一つ不安なことがあった。すでに嫌な予感が大有りだが、圭人は念の為聞いておくことにした。
「えーと、まさかドアノブとか汚してないよね?チコちゃん」
「ん?窓から入ってきたからわかんない!」
ニカっと笑うチコに「これはやられた」と圭人はガクッと項垂れた。
恐る恐る窓の方を確認すると案の定、部屋には泥でべっとり汚れたカーテンがはためく全開の窓が一つある。どうやら彼女はあそこから出入りしたらしい。
ちなみにここはオフィスビルの3階である。単純に元気が良いではちょっとすまされないやんちゃっぷりだ。
「そうねぇ。じゃあ圭人、顔洗うついでにあのカーテンも。」
「はい、洗濯してきますね…。」
光子ののほほんとした、だけど有無を言わせない言葉に、圭人は小さくため息を吐いて頷き、カーテンの元へ行って回収した。
確かにチコの脅威的な身体能力ならば、窓からの出入りも容易な事なのだろうが、できれば今後は階段を使ってドアから出入りをして欲しい。危ないのは勿論だし、毎朝圭人にカーテンを洗うという仕事が増えるのも困るからだ。
顔を洗い、カーテンの洗濯も終わった後、圭人はお盆に三人分の飲み物を乗せて、事務室まで戻って来た。
「お茶入りましたー。」
「わ〜い、ありがとね〜。」
「チコのもある!?」
「あぁ、あるよ。ほれ。」
光子の机にお茶を置いた後、先に戻ってソファでくつろいでいたチコに、ココアの入ったキャラクターもののマグカップを手渡してやる。彼女はそれにパタパタと尻尾を振って喜びを表した。
「わぁ、ココアだー!ありがとー!」
「おう、こぼすなよ。」
「大丈夫だもん!へへっ。」
笑顔でココアを受け取った後、チコはくぴくぴとそれを勢いよく飲みはじめた。一口飲み込んだ後に、より一層大きく動き始めた尻尾を見れば、美味しかったのはすぐに分かる。
彼女はこんな風に獣の耳や尾を持っていて、まるで犬科動物のような特徴を持っているが、チョコレートもタマネギも平気で、ココアもこうして問題なく飲むことができる。むしろ、味覚は見た目通り子供なので、ココアのような甘いものが大好物だった。圭人はそれを分かっているので、チコにはいつもお茶ではなく、甘いココアを淹れてやる。ちなみに牛乳の割合を書いてあるレシピより少し少なめにし、濃いめの味わいにしたのが、チコの好みだ。
両手でマグカップを抱え喜ぶ少女の姿を微笑ましく眺めた後、圭人は自分も一息つこうと机についた。しかしお茶を一口飲んだところで、すぐに光子から声がかかり、その手は止められる。
「圭人〜。」
「はい、なんですか?」
穏やかな呼びかけに、なんとなく嫌な予感がしつつ室長机の方を見ると、そこにはいつも以上にニコニコした顔で、こちらを見つめている光子の姿があった。
(あぁ、これは何か大きい仕事が入ったな…)
基本的に仕事嫌いで物臭な圭人は、それを察した瞬間、一気に憂鬱な気持ちになった。
もちろん顔には出さない。これでも社会人を数年やっているので、そのくらいの技量はある。いかに本心でやる気が無かろうとも、雇われ人として一応の体裁を保つ必要があるのだ。
何とかぎこちなく笑顔を作って、圭人は上司の次の言葉を待つ。
(昨日みたいな、楽〜な仕事ばっかりやりたいもんですけどねぇ…)
昨日チコと二人で行った違法渡航者の捕縛任務は、他部署の人手不足で回ってきたヘルプの仕事だった。
ああいう仕事は、すぐに片付けられるうえ、圭人の能力なら大して苦労もないので好ましい。
「手間なく楽して簡単に」
それが仕事をする上で、圭人が一番大切にしているモットーである。
しかしこの部署《特別顧客担当室》宛てに回される仕事は、いつも厄介極まるものばかりで、圭人がモットーに反する振る舞いをしなければならないことも多い。
なぜならここは、他の部署だと手に余るようなVIPからの依頼や、難度の高い仕事をこなすのが役割だからである。
そう考えると、この部署の社員というだけで、社内でも実力を認められたエリートということになるわけだが、圭人はどこまで行ってもイマイチやる気のない社員であった。能力とやる気は比例しない、そういうこともある。
しかしやる気がどうであれ、ここの所属社員は圭人と光子、それからチコと、あともう一人しか居ないのである。光子は室長として司令塔をやる必要があるし、チコは精神的にまだ幼く、一人で任せられる仕事には限りがある。後のもう一人は優秀なあまり多忙を極め、手が空いていないのがデフォルトだ。すなわち、ここで圭人がサボっていられる余裕はどこにも無い。
働きたくなくても働かされる、それもまた社会人の定めだった。
「はい、それじゃあ二人とも揃ったところで、今日のお仕事を発表しま〜す。ばばーん、久々の長期任務で〜す。」
気の抜けた効果音を口にし、わーっと拍手し盛り上げようとする光子に、上司らしい威厳はあんまり無い。彼女の言葉を聞いて、「あぁやっぱり仕事の話だ」と圭人が肩を落としているのを容赦なく無視して、光子は仕事内容の説明を始めた。
「依頼人は商会本部です。顧客No.14番様からの通報により、敵性邪神に拉致監禁された一般人を、3日前、商会本部が保護しました。この保護された一般人の安全が完全に確保されるまで、彼女を護衛するというのが、今回私たち特別顧客担当室に任されたお仕事で〜す。」
わーパチパチ、と能天気に拍手する光子だが、出てきたワードが不穏すぎる。圭人は背中にじっとりと嫌な汗をかくのを感じた。
「いやいや、ナンバー顧客様からの通報に、敵性邪神って…厄ネタすぎるでしょう。」
「あら?うち宛に来た仕事で厄ネタじゃなかったことが、今まであったかしら〜?」
「うぐ、それはそうですけど…。」
圭人は言葉に詰まった。
一手順でも間違えれば世界の破滅が始まる箱型パズルの解体に、起こせば周囲の時間が巻き戻り続け、最終的に無に帰す赤ん坊の運搬。超発達し某国の軍事システムを掌握したAIとの知略勝負に、一都市を洗脳したカルトとの全面抗争。
どれも全て、この特別顧客担当室が音頭を取って事態を収束させた過去の任務たちである。
しかしそんな過去の厄ネタ仕事の数々を思い返しても、今回のは多分、トップクラスにやばい仕事だった。
まず通報者だが、顧客名ではなくNo.で呼ばれたという事は、この通報者は商会にとって、かなりのVIPということである。
恐らくその正体は神または邪神と、かつて呼ばれていた超自然的存在のナニカだろう。
神と邪神の違いは何かと聞かれると難しいが、商会の規定では『人間に害を加える事を積極的に楽しむ』のが邪神で、『害そうという意識なく、結果的に人間を苦しめている』のが神だという事になっている。ま、どちらにせよ、触らぬ神に祟りなし、というのが真理であることに変わりない。
そしてそんな彼らは、ただ名前を呼んだだけでもよろしくない事が起きてしまうことがあるため、商会内部ではNo.を使って呼ぶことが決まっていた。
「これ、どう考えてもVIPさまが、ウチを使って一騒動起こしてやろうって考えてるのが丸見えですよね。神同士のいがみ合いにまんまと巻き込まれて…はぁ、胃が痛い。」
神による拉致監禁という「やらかし」を、他の神が気づいて通報してきた、というのは一見感謝すべきことのように思えるが、実際は全然違う。
神は基本的に人のことなんて考えない。他神が人間を使って何をしていようが、自分に不利益さえ起こしていなければ放っておくのが当たり前だ。
恐らく通報してきた神は、相手の神のしていることの邪魔をしたいがために、商会に通報という手段をとってきたのだろう。
直接自分が相手するのは面倒くさいが、相手の足は引っ張りたい。もしくは、あいつ気に入らないから、暇つぶしに人間でもけしかけて邪魔してやろう。恐らくそんな考えでのことだ。
要するに、神対神の敵対構図に、商会が巻き込まれた、というわけである。
「まぁまぁ、神様方の思惑がどうにせよ。一般人が被害にあっているのなら、助けにいくのが商会のお仕事ですからねぇ。」
「それはそうですけど、そうですけどぉ……。」
光子のもっともな言葉に圭人はガックリと項垂れ、いじけるように机の溝を指でなぞった。
正直、この手の巻き込まれ系仕事は定期的にある。どれもこれも、本当に困ったものだ。
異能者といえど、人間が神相手に大した事などできるわけもなく。神と関われば毎度毎度、骨折り損のくたびれもうけ。命あって帰れたらそれだけで大金星、花丸満点、大団円。
…恐らくこの護衛対象とやらを保護するまでに、すでに多くの部署が邪神勢力との戦闘に投入されたのだろう。というか、多分そのせいで人手不足になって、昨日、圭人たちが他部署の仕事を手伝うハメになったのだ。
「まだ敵性邪神の保護対象への執着は解けていません。なので、任務中は邪神の眷属及び信奉者達による襲撃が予想されま〜す。みんなで頑張って守りましょうね〜!」
圭人が仕事内容に怖気付いている一方、光子は常と変わらず「さ、お仕事お仕事!」などと言ってのほほんとしている。このくらいの修羅場は、彼女にとっては既に慣れた話なのだろう。さすが勤続年数ウン年目なだけはある。とてもそうとは見えない若々しい見た目をしているが。
圭人は小さくため息を吐き、光子の方を見た。
「まぁ、やれるだけの事はやりますよ。いつも通り、遺書も用意しておきますがね。」
「後ろ向きねぇ。何だかんだ生還し続けてるのが貴方じゃない。」
「だって俺はいつも逃げ回ってるだけですもん。逃走に特化した能力で良かったなぁと、常々思ってます。」
「確かに瞬間移動は便利な能力よね〜。」
「ま、神相手の時は、単に目こぼしされてるだけだと分かってますけどね。予知予測ができるタイプの相手とか、逃げる先まで届く広範囲攻撃とかされたら、俺なんて一発で死にますから。」
自嘲を交えてそう言った圭人に、まだ自体を飲み込めていないらしい顔でチコが口を挟む。
「神さまが相手なのー?ならチコの出番だね!」
ふんふんと鼻息を荒くし興奮するチコは、確かに対神との戦闘に特化した特殊能力を持っている。これまでの任務でも、その戦闘力には何度もお世話になった。
「敵性邪神を抑えるのは、本部の部隊が頑張ってくれてるから、ウチの方まで神様本人が来るのはそう無いことだと思うけどぉ…そうね〜、万が一来ちゃったらチコが頑張ってね。」
「おぅ、頼むぞチコ。」
「うん!前みたいにガオーってして、モグモグってするね!」
なんとも迫力のない言い方だが、チコの力は本物だ。戦いに関しては誰よりも信頼できる。
神と戦うなんて状況…基本的には回避したいところだが、万が一のこともある。今回はチコからなるべく離れずにいよう。圭人は心の中で硬く誓った。
「さて基本セットのお二人さんだけど、今回は二人だけじゃ、ちょっぴり手が回らなさそうだからぁ…助っ人を呼んだわ〜。」
「おっ、さすが室長。ありがとうございます。」
良かった。流石に荷が重い仕事だと思っていたので、助けが来るのはとてもありがたい。圭人は一気に喜色満面になった。
これまでの仕事でも他部署から応援をもらうことは何度もあった。圭人はその中から、来て欲しい人物をいくつか頭に思い浮かべた。
どの人も戦闘能力に長け、かつ自分の代わりに現場を引っ張っていってくれそうな優秀な人物。要するに、自分の生存率を上げつつ、指揮系統なんかは丸投げして、楽がしたい。そういうことである。
「誰が来るのかなー?チコ達も知ってる人?」
チコの問いかけに、光子は首を横に振った。
「いいえ〜、訓練校を出たばかりの新人さんよ。」
「新人…?大丈夫ですか、そりゃ?」
新人と聞いて、圭人はどっと不安になった。笑顔は引っ込み、再び冷や汗が額に浮かんでくる。
訓練校というのは、サルタヒコ商会が異能者を育てている教育機関のことだ。
異能者たちは大抵幼い頃に商会に引きとられ、12になったら訓練校で異能の使い方や人外と渡り合う方法を習う。そして訓練校を卒業した後、正式な商会の社員となって働くのだ。
つまり、卒業したばかりの新人となると、年齢的に言えばまだ10代のはずである。
正直、うちの部署でそんな若造がやっていけるのかというと…かなり怪しかった。
そして今回の仕事は、神対神の対立構造。とっておきの厄ネタ。とても新人が切り抜けられるような内容の仕事ではない。
もし仕事の途中で殉職、とかなっても俺は責任取れないですよ、と圭人は心の中で光子に向かって叫んだ。
「んー、戦闘力に関しては圭人よりずっと強いと思うけど〜。」
「戦いだけがウチの仕事じゃないでしょう。現場経験ないのをいきなり実践投入なんて…俺もフォローしきれるか分からんですよ。」
「まぁ、若いその子が選ばれたってのは…今回の護衛対象との相性を考えての事もあるから〜。」
変わらずにこやかな光子。
圭人と違い、彼女はこの仕事に不安など一切感じていないようである。
きっと知っている情報も、見えている景色も、全て圭人のレベルより遥かに上のはず。そんな彼女が問題ないと笑っている。それならば部下の自分は信じるしかない。圭人は小さく息を吐いて自分を納得させ、頷いた。
「分かりましたよ。室長の指示に従います。職務を完遂できるよう、俺は精一杯努めますよ。」
「うん。偉い偉い。圭人たちなら何も問題ないわよ、大丈夫。」
微笑む光子に、圭人はまだ自信なさげに苦笑いで応えた。だけどそれもいつものこと。ここでうだうだ杞憂している暇があったら、やるべきことをさっさとやった方が面倒がない。手間なく楽して簡単に。いつだって自分のそのモットーに従うだけだ。
圭人は光子から仕事の資料を一式受け取ると、改めてその内容に目を通した。書いてあることはどれも読めば読むほど頭の痛くなる内容である。だけど仕事モードに入った圭人にもう迷いはなかった。
「それじゃ、いっちょ働きに行きますかね。行くぞー、チコ。」
「うん、いつも通り頑張るよー!」
「はぁい。助っ人の新人さんには、先に護衛対象の居る病院に行ってもらってるからね〜。いってらっしゃ〜い。」
ヒラヒラと手を振る光子に、圭人は軽く頭を下げ、チコと共に部屋を出ていく。
「さて、手は打ったけど…どうなることかしらね〜。」
一人部屋に残された光子は、手元に残された資料を見つめ、ゲームの始まった盤上を眺めるように、楽しげな笑みで呟いた。




