8-1.眠れぬ夜:彼女の視点
街の中を歩いていた。
きっとそれはこの国では、ありふれた平凡な街だ。
アスファルトで舗装された車道と、ガードレールで守られた歩道。その両脇に立ち並ぶ住宅は、似た形のが三棟連続したかと思えば、随分古い形の日本家屋が突然現れたりもする。
古さと新しさが入り混じり、緩やかな世代交代が行われている、ごく普通の住宅街だった。
私は、なぜか迷うことなくこの街を歩いていた。
覚えていないのに、体が覚えているかのように真っ直ぐ道を選んでいくのだ。
少し行くと、学校があった。
同じ制服を着た生徒たちが、バラバラと散らばっていながらも何処となくまとまった集団となって、校門をくぐっていく。
私の足は、当たり前のようにその集団の中に溶け込んで昇降口を抜けると、迷いなく教室へと進んだ。
だけど、教室の扉をこの手が開けた瞬間、ぴたりと足が止まった。
(私、どこに座ればいいんだろう?)
何故か、私の教室は間違いなくここだという確信があるのに、座席がわからない。
教室の中にいる生徒たちは、私が来たことなんて気づかず楽しそうに朝の談笑をしていて、後からやってきた生徒たちも、扉の前で立ち尽くしている私をまるで居ないものかのようにして通りすぎていく。
そうこうしていくうちに、教室内のすべての座席が埋まってしまった。
私は愕然としながら、その様子を見ていることしかできない。
(ここに私の席はないんだ…)
そう感じた瞬間、私は体の内側にぽっかりと、埋まらない空洞があることに気付いた。
本当に体に穴が空いているのかは分からない。だけど何かが、確実に、身体の中から抜け落ちている。
それは私にとって、とても重要なもので、私を構成する要素の中でも、とてもとても大切なものだったはずなのに。
(私…何を失くしてしまったの?)
ふらふらと失意のまま学校を出て、私は再び住宅街の中を歩いていく。
カタタン、カタタン、と電車の音が聞こえて顔を上げれば、線路が見えた。
線路沿いを歩いていけば踏切があって、数人が踏切が開くのを待っていた。
目を凝らせば、踏切の向こうには商店街があった。どうやらみんな、あそこを目指しているらしい。
私はその人たちと一緒になって、開いた踏切を通り、商店街へと足を踏み入れた。
平日の午前中。商店街は空いている。
きっと常連なのだろう主婦やご老人が、店先で店主と会話をしている。
気ままな野良猫が店と店の間の隙間に置かれた室外機の上に寝転び、鳩は呑気に道の真ん中を横切って、お爺さんの自転車にうっかり轢かれそうになっていた。
これもきっと、どこかで見たことのある光景。
だけどやっぱりそこに、私の居場所はない。
(もっと、もっと遠くまで…)
どうしようもない焦燥感に駆られ、まばらな商店街の雑踏から逃げるように駆け抜け、私は新たな住宅街に足を踏み入れていく。
そんなに走ったつもりはないのに、いつの間にか空は夕暮れに染まっていて、山へと帰るカラスがカァカァ鳴いていた。
(帰り道…わかんないや……)
泣きそうな気持ちになりながら、それでも何とか自分の居場所を探して歩み続ける。
電柱があって、車道と歩道があって、その両脇には家が建っている。踏切を渡って、商店街を抜けた先も、変わり映えのしない住宅街だ。永遠にこうして、私の居場所が存在しない街が続いているのだろうか?
(あ…)
ふと足を止めたのは、古い平屋建ての木造家屋の前だった。その庭には、立派な柿の木が生えていて、私はなぜか無性にそれに惹かれたのだ。
柿の木は生垣の向こうにまで枝が伸びていて、柿の実が歩道に落ちてきそうになって揺れている。
私は足を止め、それを見ていた。
どうにも目が離せなくて、じっとその場で立ち尽くす。
しばらくすると、集団下校の子供達が走ってきて、道にはみ出た、揺れる柿の実を見つけた。
やんちゃそうな先頭の男の子が立ち止まったかと思うと、背負っていたランドセルを地面に置いて、踏み台にした。どうやらあの柿の実をもごうとしているらしい。
周りにいた子供達も、男の子の挑戦をやいのやいのとヤジを飛ばしながら応援している。そうしているうちに一人の女の子が、ランドセルに刺していた物差しを男の子に貸した。
男の子はそれを勇敢に掲げ、ペシペシと柿の実をを叩く。
「あっ!」
男の子は、柿の実を叩いた勢いそのままにバランスを崩して転んでしまった。だけどその刺激は、一緒に柿の実のバランスも崩したらしい。
コテンと枝から落っこちてきた柿の実を、転んだままの状態で男の子は受け止めた。その瞬間、彼は子供たちの英雄になり、歓声が上がる。
ワーッと盛り上がる子供達を呆然と見ていると、ガララっと引き戸が勢いよく開く音がした。
「コラーッ!」
盛り上がりに気づいてやって来たらしい。生垣の向こうからこの家のお爺さんが顔を出し、勢いよく彼らを怒鳴った。
子供達はそれを聞いて「逃げろー!」と楽しそうな悲鳴をあげて、散り散りに去っていく。
お爺さんは散っていった子供達をやれやれと見て、実の無くなってしまった枝を一瞬見上げたが、すぐに諦めたかのようにため息を吐き、また家の中に戻っていった。
一人残された私は、まだ立ちすくんで柿の枝を見ていた。
重たい実を落として身軽になった柿の枝は、他の枝に混じって、風の中、ゆらゆらと揺れる。
もう実の無いそれは、他の枝と同じ姿なのに、なんとなく、あの枝にはかつて実がついていたんだとわかるのは、何故だろうか。
(私にも、ちゃんと実がなっていたのかな?)
ギュッと、空洞を感じる胸の辺りで手を握る。
やはり外からでは分からない。
だけど何かが欠けているのだ。この身体は。あの、実をもがれた柿の木のように。
カァカァ。
帰りを急かすように頭上でカラスが鳴いた。
だけどまだ、私は帰る場所が分からない。
そして、誰かに聞きたくても、私は私のことを名前しか覚えていない。
方代神奈子。
病院で目が覚めて、色々聞かれて、唯一答えられたのが年齢と、その名前だけだった。
こんな情報だけで、誰が私の家や帰る場所を教えてくれるというのだろう?
不安が体を包み込み、胸の空洞の中すらも埋めていこうとする。
まるで迷子になった子供のような気分だ。
途方もない寂しさ。
このまま自分は居場所も無く、そして誰からも見つけて貰えず、そのうち透明になって溶けて消えてしまうのではないかとまで思う。
そもそもだ。私は本当に方代神奈子なのか。
他の何も覚えていないのに、名前と年齢だけ忘れていないというのは不自然じゃないか。
私は成長し実をもがれた柿の木ですらなく、実があったと錯覚しているだけの枯れ木なんじゃないのか。
「う…うぅ。」
終わりのない不安と最悪の想像に堪えきれず、私はその場でうずくまり、ぽたぽたと涙をこぼしていた。
もちろん、そうして泣く私に気づく人は、この街には誰もいない。
だけど…
「方代さん。」
穏やかで優しい男の人の声が聞こえた。
私はなんとか涙を拭って立ち上がり、声の方へと振り返る。
「瀬奈…さん。」
道の曲がり角で立っているスーツ姿の青年は、まるでこちらを探していたかのようだった。
少し癖があり、所々はねた暗い茶色の短髪。スーツは上等そうなのに、アイロンをあまりかけていないのか、シャツには少し皺が寄っていて、だけどネクタイはいつもお手本のように綺麗な結目。
私を見つめるその表情は胡散臭いくらいの笑顔で、営業スマイルという言葉がぴったりなのに、その笑顔がこちらを安心させるために作られた笑顔であることを、今の私はちゃんと理解していた。
「瀬奈さん!」
私は思わず彼に向かって駆け出していた。
彼はいつも手袋をしている。瞬間移動させるため、相手に触れる必要があるからだろうか。その黒手袋が外されたところを、私はまだ見たことがない。
だけどそれでも、手袋越しでも彼の温もりはいつも伝わってくる。
いつも私を安全なところへと連れていってくれる、あの手の温もり。
私はいま、猛烈にあの手に、自分の手を握って欲しかった。
私の存在を誰かに信じて欲しかった。
「っ!」
手を伸ばした先で掴んでいたのは虚空だった。
暗い天井。沈黙したままの丸い天井灯がこちらを見下ろしている。
そこでようやく、私は今までずっと夢を見ていたのだと理解した。
カチカチと、壁にかけられた時計が音を立て、胸がドキドキと激しく音を奏でる。暗い室内。静かなはずなのに、それらがやけにうるさく感じてしまい、現実を思い起こさせる。
あぁ、戻ってきたのだ。
「夢…か。」
はぁ、と一つ息をこぼし、呼吸を整え、体を起こした。
隣を見れば、体をギュッと丸めて眠る可愛らしいケモミミ少女の寝姿があって、思わず笑みが溢れた。
少し喉が乾いたな、と思って私はこっそり部屋を抜け出すことにした。
部屋を出たら、リビングの扉から灯りが漏れていて、誰かがまだ起きているのだと悟った。
もしかして、と思いながら、恐る恐る扉を開ける。
そこにはやっぱり、彼が居た。
私はそのことに心の底から安堵して、まだ自分が「方代神奈子」であることを信じてみようと思ったのだった。




