プロローグ
深夜0時。街は暗闇に落ち、人々の多くがもう眠りの中にある。
2月という季節はまだ春遠く、時折吹く風は肌を刺すように冷たい。
「…この時期の屋外仕事はこたえるなぁ。」
瀬名 圭人はビルの屋上でその身を凍えさせながら白い息を吐いた。
もうじきこの仕事は終わるんだからと、己を慰めても寒いものは寒い。街の明かりを見るくらいしかする事がないのもよけいに退屈で、心の底からつまらなかった。
せめて寒さだけでもなんとかできるよう、カイロの一つでも持ってくれば良かったなと静かに後悔したが、それも今更だと思いなおして、圭人は大人しく待ち人を待つことにした。
「…待たせたようだな。」
体が夜風ですっかり冷え切った頃、ようやく屋上の出入り口から、一人の男がのそのそと現れた。
全身黒尽くめで、見るからに怪しい男である。職質してくれと言わんばかりの風体だ。
しかし彼こそ、圭人が待ち侘びていた今日の仕事相手に違いなかった。
「いえいえ、お気になさらず。依頼主のユアトさんですね?」
待たされた事に対する苛立ちなどは一切表に出さず、圭人は得意の営業スマイルを浮かべて男を出迎える。
「あぁ、私がュアトだ」
男の口から改めて発せられた名前は、人間には発音できそうにも無い、なんとも不思議な響きをしていた。
それもそのはず、この男は人間ではない。
そしてその事は、圭人も相手も、百も承知の上でのことだった。
「商品引き渡しの前に、本人確認のため、会員カードをお見せいただいても?」
「チッ…」
「申し訳ございません。一応念のためです。マニュアルでそう決まっているもので。」
苛立つ男に対し、申し訳なさそうに微笑んで言うと、男はわざとらしく舌打ちして一枚のカードをポケットから取り出し、こちらに向かって投げつけるように乱暴に渡してきた。圭人は「おっと」と言いながらそれをキャッチし、手の中に収める。
「ほらよ。これで良いだろ?早く商品を渡してくれ。腹が減って死にそうなんだ。」
男は体をイライラと揺すって、終始落ち着きがない。まるで何かの中毒者のようだ。
だがそれを敢えて無視して、圭人はゆっくり焦らすようにカードを端から端まで眺めた。
暗闇の中、月明かりを頼りに確認したカードには「ュアト」の名前と、犬のような顔をした醜悪な怪物の顔写真が貼ってある。それに驚きはしない。初めから分かっていたことだ。
最後にカード裏面の数字を用心深く確かめた後、ニヤリと確信を持って圭人は笑ってみせた。
「あーはいはい、確かにユアト様のカードですね……有効期限切れですけど。」
「なっ!?」
カードの裏面の数字を指で分かりやすくなぞりながら、煽るようにやれやれと肩をすくめてみせる。
そこに書かれているのは、このカードが一カ月前に、すでに有効期限切れしていることの証明だった。
男はそのことに気づいていなかったようで、その指摘に大きな声をあげ、あからさまに動揺をみせた。
「期限切れなのでこちらのカードは使用できませんねぇ。今回のお取引も、残念ながら中止という事で…。」
「っふざけるな!」
ヒラヒラとカードを振りながら、より一層煽るように言ってやると、黒尽くめの男は怒りをあらわに、こちらに向かって力任せに拳を振ってきた。
ブンッと風を切る音が響く。すごい勢いだ。こんなの当たればひとたまりもないだろう。
しかし男の攻撃を予め予測していた圭人は、ひらりとそれを躱し、呑気に言ってのけた。
「うわっと、危ないじゃないですかぁ?暴力はやめましょう?お互いのために。」
「っクソがァっ!!」
余裕ぶったその態度に、男はますます頭に血を登らせていく。そしてその感情と共に、徐々に彼の偽りの仮面は剥がれ落ちていった。
「っ俺は、腹が、減ってイるんだァッ!!!」
グオオッという一際大きな獣の雄叫び。それと共に男は拳を勢いよく振りかぶった。拳は既に人の形をしていない。黒いスーツがビリビリと音を立てて破れる。すっかり肥大化したそれは、とても醜い怪物の手に変わっていた。それはこの世のどんな動物とも違う、あるいはあらゆる動物の鋭さを組み合わせたようなものだ。
圭人は勢いよく向かってきたその手を再び、ひょいと後ろに跳んで軽く避けると、改めて彼に告げた。
「やれやれ…本物のユアト様は、先日会員カードの再発行にいらっしゃいましたよ。なんでも今までのカードを紛失してしまったとかで。」
「っ!」
突きつけられた言葉に、男はいよいよ自分が追い詰められたことを悟ったらしい。
そしてようやく、今日のこの取引自体が、他人のカードを不正に利用しようとした自分を捕まえるための罠だということにも気がついたようだ。
「偽者とバレているなら仕方ない…お前ごとここで喰ってヤルッ!」
骨格がバキボキと変わっていく歪な音が屋上に響き渡った。同時に、ビリビリと服が裂ける悲鳴のような音が鮮烈に響き渡っる。まるでホラー映画のワンシーンだ。
そしてそれらの音が全て鳴り止んだ後、男の体は完全に怪物のソレに変わっていた。
「グルルゥ………」
人間よりも遥かに巨大な体躯。醜く歪んだ獣の顔。月光に照らされ、鋭くのびた爪と牙がぬらぬら怪しく光る。あぁ、グロテスクの一言。
辺りにはいつの間にか下水のような悪臭が満ちていて、そしてその匂いの元は明らかにこの怪物からきていた。
(予想通り…グールか)
匂いと姿から怪物の正体をそう判断した圭人は、片耳につけているインカムで仲間に連絡を取ることにした。これ以上の対応は別の担当にやってもらおう。なにせ自分は、荒事向きの能力ではないのだから。
「チコ、聞こえるか?奴さん正体表したよ。事前情報通り、グールで間違いない。多分顧客のカードは拾ったんだろう、違法渡航の野良だ。」
ジジッという無線特有のノイズが少しして、それから甲高い少女の声が無線機から返ってくる。
『あいあいさー!すぐに向かうね!』
その可愛らしい声を聞き届けた直後、怪物の爪が鋭くこちらに向かって飛んできた。
「ッ!」
しかしその爪は圭人に届かない。
すでにそこに圭人の姿は無かったからだ。
「どこだ!?」
目の前から一瞬で姿を消した圭人に、怪物は動揺して叫ぶ。
「ここで〜す。」
へらへらと揶揄うような声で、圭人は怪物の背後で笑ってみせた。
「っ!異能者め!」
バッと振り返り、怪物はすぐさま爪を振りかぶる。しかしその攻撃はまたしても空振りに終わった。
「はーい、安心安全《サルタヒコ商会》の異能者でーす。」
「っ!」
次に圭人が現れたのは、屋上の貯水塔の上だ。
怪物の爪はどうやってももう、簡単には届かない位置である。
見てわかる通り彼は、明らかに《瞬間移動》していた。
「っクソ!!」
苛立ちと悔しさで吠える怪物。
圭人にすっかり気を取られた怪物は、自分の背後に小さな少女が現れていることに気づかない。
少女は貯水塔の上の圭人をチラリと見て微かに笑うと、そのまま無言で右手を振りかぶった。
「っ!?ッゴハァッ!!」
それは小さな女の子が出したものとは、とても思えない威力の一撃だった。
怪物はその身に何が起こったのか理解できぬまま、勢いよく吹っ飛ぶ。
そして内臓が軋む鈍い音を立て血を吐きながら、そのままガツンと屋上の柵に打ち付けられた。
柵は金属製だが、あまりの衝撃で曲がってしまったらしい。ギギィッと、耳障りな鈍い金属音が周囲に響いた。
「おじさん、後ろがガラ空きだよー。」
少女は血を吐いてその場に伏した怪物を見て、少しだけ気の毒そうにしながら言った。
彼女の頭には大きなイヌ科動物の耳が生えており、スカートの裾からはフワフワとした赤毛の尻尾がはみ出ている。彼女もまた、圭人と同じく、ただの人間では無い事をその姿が物語っていた。
「チコ、捕縛任務って事を忘れるなよ。そいつ、元の世界に送り返さないといけないんだからな。」
「あいあい!」
思いの外吹っ飛んだ怪物を見て、思わず心配になり、圭人は念の為に声をかけた。少女は貯水塔の上からこちらを見下ろしている圭人に向かって「大丈夫だ」とグーサインを送り無邪気に笑ってみせる。
「ぅヴ。」
「動いたら痛いよ〜?」
怪物は吹き飛ばされた痛みで、いまだ動けずにいるようだ。
少女はトコトコと怪物のそばに近寄ると、どこに隠し持っていたのか縄を取り出し、あっという間に縛って拘束してしまった。
それを見届けてから、圭人はひらりと貯水塔から飛び降りる。そして慎重に怪物の様子を伺い、自分が近寄っても大丈夫か確認した。
「………死んではないよな?」
「息の根はちゃんとあるよ〜。」
少女に言われ、圭人はようやく怪物に近寄った。
怪物はいまだ痛みで動ける様子では無いらしい。ひゅうひゅうとか細い呼吸をしていて本当に大丈夫か少し不安になるが、命は問題なさそうにみえる。
「それじゃ、動けなさそうなうちに、とっとと本部まで送るか。」
「な…ナニを…っスる。」
圭人の呟きに、わずかに意識を取り戻したらしい怪物は、酷く耳障りな震え声を出した。痛みから、声もまともに偽れなくなっているらしい。
怪物の問いに、圭人は静かに答えてやる。
「俺の異能でサルタヒコ商会の本部にお前を送還するんだよ。違法渡航に加え、会員に擬装して商品タダで奪おうとしたんだ、重罪だぜ。」
「…っ!」
「人間の肉なんかに興味持たずに、元の世界で暮らしてりゃ良かったのになぁ。もしくはちゃんと金払って正規ルートでくれば、味見くらいは認めてやったかもしれないぜ。」
「ゥ、ヴグ…」
「気の毒だが、商会本部の尋問は拷問と変わりないぞ。これから覚悟しとくんだな。」
「ま、マテッ!!ヤメてクレ!」
怪物はこの後自分の身に起こる事を想像したのか、悲痛な叫びを上げた。
だがそれに圭人が心動かされる事はない。
こんな事は何度も経験してきている。彼の中に、怪物に対する同情は一切なかった。あるのはただ「職務を遂行する」という意思、それだけだ。
「じゃあな。」
圭人はそっと優しく怪物の頭に触れた。怪物が抵抗する間もない、一瞬のことだ。
直後、怪物の姿は跡形もなく屋上から消え去る。
圭人の能力は『瞬間移動』。それは自分自身だけでなく、触れた相手も任意の位置に飛ばすことができた。
ピロリン。
少しして、スマホから無機質な通知音が短く響く。
圭人は画面を点けて、内容を確認した。
『対象の牢への送還を確認した。任務完了、帰投せよ』
差出人は『商会本部』となっている。見慣れた四文字。それを見て圭人は静かに安堵する。
どうやら怪物の瞬間移動は成功したらしい。これで本日の仕事は終了だ。
通知を確認すると圭人は、隣でぼんやり自分のことを見上げている少女、チコの頭を優しく撫でてやった。
「任務完了。帰るぞチコ、良くやったな。」
「うん!」
少女は圭人の言葉に嬉しそうに尻尾を振ると、その腕に無邪気にギュッと抱きついた。もちろんそれに、怪物を殴り飛ばす怪力は込められていない。
圭人は彼女に柔らかく微笑み返すと、静かに目を閉じた。
そして次の瞬間、二人の姿は静かに屋上から消えていた。あの怪物と同じように『瞬間移動』したのである。
屋上には、少しばかり歪んだ柵以外に、なんの痕跡も残っていない。
今夜ここで起こった事を知るのは、空にぽっかりと浮かぶ丸い月だけだった。