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第9話★

時間を遡り、セレナが自由都市イーディスへ向かう数日前のことだった。


ウィッチワークスの隠れ蓑となっている名もなき開拓村の教会。


その奥にある応接室は、長い年月を経て沈殿した古びた紙と、上質な革の匂いが混じり合い、一種独特な重苦しさを醸し出していた。


外は相変わらずの雨だった。


この季節特有の、冷たく粘り気のある長雨だ。


窓ガラスを叩く雨音は、規則的でありながら不協和音を奏で、室内の静寂をより一層、死に絶えたもののように際立たせている。


その静止した時間の中で、セレナ・ヴァンテールは、部屋の中央に置かれた革張りのソファーに、主人のように座っていた。。


漆黒のシスター服――本来であれば神への奉仕と慎みを象徴する聖なる衣。


だが、今の彼女が纏うそれは、単なる喪服か、あるいは死神の作業着にしか見えない。


裾は乱れ、太腿がわずかに覗いている。


行儀悪く足は、黒いコンバットブーツを脱ぎ捨て、磨き上げられた革を汚すことも厭わない。


彼女の手には、教会の図書室から無断で持ち出した、百科事典ほどもある分厚い歴史書が開かれていた。


挿絵(By みてみん)


セレナの赤い瞳が、黄ばんだページの上を滑る。


そこに記されているのは、英雄譚でも神の奇跡でもない。


領土争い、宗教戦争、魔女狩り、そして大崩壊。


人間の歴史とは、インクではなく、血で書かれているのだと証明するような記述ばかりだ。

「……ふん。人間ってのは、いつの時代も殺し合いしかしねぇな」


セレナは退屈そうに呟き、ページをめくった。


指先には気だるさが滲んでいる。

彼女に記憶はない。

自分がどこの誰で、どんな人生を送り、なぜ死にかけ、そしてなぜ吸血鬼として蘇ったのか。

「救世主」に救われたという断片的な事実以外、彼女の過去は白紙だ。

だからこそ、彼女は時折こうして歴史書を読む。

自分という個人のルーツが見つからないならば、せめてこの世界がどのように形作られてきたのか、その「全体像」を知ることで、自分の立ち位置を確認しようとしているのかもしれません。

だが、どれだけページをめくっても、そこに書かれているのは他人の殺し合いの記録だけで、彼女の乾いた心を潤すものは何もなかった。

(オレは、いったい何を探しているんだ……)

自嘲気味に本を閉じようとした、その時だった。

ノックもなしに、重厚な扉が無音で開かれた。

「おやおや、歴史書を読むなど勉強熱心で大変よろしいですぞ。……しかし、セレナ殿」

入室してきたのは、カルロス神父だった。

彼は大仰に肩をすくめ、両手を広げてみせた。その仕草は舞台役者のようであり、同時に獲物を追い詰める道化師のようでもあった。眼鏡の奥にある瞳は細められ、笑っているようでいて、その奥には氷のような冷徹さが光っている。


「淑女として、また聖職者の端くれとして、応接用のソファーに座り、本を読むよとは……はしたないですぞ。神が見ておられますよ?」


カルロスの声は、甘い毒のように粘り気を帯びていた。


図書室だと硬い椅子と机が無いのでここで寛いで読んでいたというのに。


「……チッ」


セレナは本から視線を外さず、露骨に舌打ちをした。


「暇つぶしに読んでただけだ。どう読もうとオレの勝手だろ。それに神様なんざ、とっくの昔に愛想尽かしてどっか行っちまったよ。もし居たとしても、こんなカビ臭い部屋なんか覗き見しないさ」


セレナはぶっきらぼうに吐き捨てた。


彼女にとってカルロスは、組織からの監視役であり、生理的な嫌悪感を催させる存在だ。


だが同時に、今の自分をこの世界に繋ぎ止めている唯一の「鎖」であることも理解していた。


「やれやれ、相変わらず貴方は……口が減らないお方だ。その美しい口から冒涜的な言葉が飛び出すたびに、吾輩はゾクゾクしてしまいますぞ」


カルロスは呆れたように首を振るが、すぐにその表情を粘着質な笑みへと変えた。


「変態神父め」


セレナは侮蔑ぶべつした。


彼はゆっくりと歩み寄り、セレナのソファーの背後に立った。


「いえ、それよりも仕事の依頼ですぞ。……端的に申し上げると、『人狼狩り』でございます」

その単語が落ちた瞬間、セレナの眉がピクリと跳ねた。

ページをめくる手が止まる。

彼女はようやく本を閉じ、上半身だけを起こして、不快そうに背後のカルロスを見上げた。

「人狼? ……おい、神父。ボケるにはまだ早いぞ」

セレナは手元の歴史書の背表紙を、コンコンと指先で叩いた。


「オレは記憶がないが、知識はある。この本によると、人狼種ライカンスロープは『大崩壊』の後の混乱期に、人間族の近代兵器と数に押され、徹底的に駆逐されたと書いてあるぞ。数十年前に、純血種は絶滅したはずだ」


かつて、獣人の中でも最強の戦闘力を誇った人狼たち。


しかし、産業革命を経た人間たちは、銀の弾丸と蒸気機関、そして組織的な掃討作戦によって彼らを追い詰めた。


歴史書には、最後の群れが北の山脈で殲滅された日付まで記されている。


「ええ、そうですとも。滅びたのです。……『天然オリジナル』は、という意味では」


カルロスは含みのある言い方で、喉の奥でクツクツと笑った。


その笑い声は、雨音に混じって不気味に響いた。


「天然……?」


「歴史とは、勝者によって都合よく書き換えられるものです。公には絶滅したことになっている。しかし、需要があれば供給が生まれるのがこの世のことわり。やがて何世代も渡り、品種改良と実験のおかげで従順な養殖の人狼が完成したのです。


そう、吸血鬼を狩るための猟犬として」


カルロスは、まるで今日の天気の話でもするかのように軽く言った。


セレナの脳裏に、どす黒い想像が走る。

「牧場」。

「実験」。

「品種改良」。


それは、かつて何者かによって、人間から吸血鬼へと作り変えられた自分自身の境遇と、嫌というほど重なる響きだった。


「はっ……人間ってのは、どこまで腐ってやがるんだ」

セレナは眉間に深い皺を寄せ、吐き捨てるように言った。


自らの利益のために無理やり管理し、消費する。

それは神への冒涜であり、生命への冒涜だ。

「まあ、その辺りの事情は現地に行けば分かります。……ところでセレナ殿、その本には続きがありませんかな?」

カルロスは話題を変え、セレナが読んでいた本を顎でしゃくった。


「その歴史書の『暗黒時代』の章。……かつて、とある地域では――『人類は吸血鬼によって支配されていた』という記述が」

セレナの心臓が、ドクリと大きく脈打った。


吸血鬼。


自分自身の特性。


だが、記憶のない彼女にとって、それは自分のことであるようで、どこか遠い他人事のような、奇妙な感覚をもたらす言葉だった。


セレナは無言でページをめくった。


そこには、古風な挿絵と共に、かつての支配構造が記されていた。

月夜に聳える城。

跪く人間たち。

グラスに注がれた血を優雅に傾ける、美しくも冷酷な「夜の貴族」たち。


「……ああ、書いてあるな。『夜の貴族』と呼ばれる吸血鬼たちが、人間を家畜として管理し、その血を税として納めさせていた暗黒時代があった、と」


セレナは努めて冷ややかに、ただの文字情報を読み上げるように答えた。


「それがどうした? 大昔の話だ。ただのお伽噺だろ」

「お伽噺、ですか。……ふふっ」

カルロスは、まるで獲物を前にした爬虫類のように、目を細めてニタリと笑った。

彼はソファーを回り込み、セレナの正面に立った。その影が、セレナの上に落ちる。


「歴史は繰り返すのですぞ、セレナ殿。円環のようにね」


「……何が言いたい」


「かつて、強者である吸血鬼は、弱者である人間を家畜とした。そして今、力を得た人間は、かつての強者であった吸血鬼を滅ぼし、人狼たちを家畜としている。……支配する側が変わっただけで、構造は何も変わっていないのです」

カルロスの言葉は、鋭利な刃物のようにセレナの胸に突き刺さった。


「力こそが正義。管理こそが秩序。貴方が忌み嫌う『牧場』のシステムも、元々は吸血鬼を狩るための猟犬だったのです。ところが吸血鬼が激減し、人狼が余って来たので別の用途に使おうとしてるのでしょう。なんと愚かな」


彼は一歩、さらにセレナに近づき、耳元で囁くように告げた。


「貴方がこれから向かう場所で見るのは、愚かな人間たちのごうです。……吸血鬼として蘇った貴方にとって、それは実に皮肉で、そして懐かしい光景かもしれませんな?」


セレナの体温が下がった気がした。


自分の中にある「吸血鬼としての本能」が、カルロスの言葉に呼応して、ざわめくのを感じたからだ。


血への渇望。


弱者への蹂躙衝動。


それらが、記憶を失う前の自分にも確実に存在していたのだと、突きつけられているようだった。


「……ふざけたことを抜かすな」


セレナは不快感を露わにし、歴史書をソファーに叩きつけるように置いた。


そして、足を下ろして立ち上がり、カルロスを睨みつけた。


「オレは吸血鬼だが、過去の亡霊じゃない。今のオレは、ウィッチワークスの掃除屋だ。それ以上でも以下でもない」


カルロスの言葉は、記憶のない彼女の深層心理にある「何か」――おそらくは罪悪感や、種族としての原罪のようなもの――を、土足で踏み荒らされたような感覚にさせた。


これ以上、この男と哲学的な問答を続ければ、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。


「さっさと現地の場所を教えろ。……その人狼だか何だか知らねぇが、さっさと片付けてやる。雑用だろうが何だろうが、仕事ならこなすさ」


セレナは、逃げるように話題を任務へと戻した。


カルロスは、セレナの動揺を見て取り、満足げに口角を吊り上げた。


「これは失敬。……少し、意地悪が過ぎましたかな。では、こちらを」


カルロスは懐から封筒を取り出し、うやうやしく差し出した。

そこには、今回の任務地が記されていた。


『自由都市イーディス』


自由。


支配と被支配の話をした直後に提示されたその都市名は、あまりにも皮肉な響きを持っていた。


セレナはそれをひったくるように受け取ると、乱暴にカルロスの肩をぶつけて部屋の出口へと向かった。


「……行くぞ。雨が止むのを待ってたら、カビが生えちまう」


重い扉を開け、廊下へと出る。


背後で、カルロスの声が追いかけてきた。


「良い旅を、セレナ嬢……。貴方の瞳に、人の業がどう映るのか、楽しみに待っておりますぞ」


その嘲笑うような声は、長く、粘り強く尾を引いて、セレナの耳に残り続けた。


これが、すべての始まりだった。


消えたはずの獣。


繰り返される支配の歴史。


そして、記憶なき吸血鬼が直面する、自身への問いかけ。


窓の外では、雨足がさらに強まっていた。


その激しい雨音は、これからセレナが向かう街で待ち受けているのは血と涙に塗れた悲劇を予感させるように、いつまでも響き続けていた。

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