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第8話

全身を擦りむいた傷と、泥まみれの身体を、引きずりながらリディアとマルタは国境の森を抜けた。


背後の闇から響いていた猟犬の咆哮は、いつの間にか遠ざかっている。


二人の目の前には、赤茶色のレンガ造りの町並みが広がっていた。


夕暮れの光を浴びて輝くその景色は、泥と暴力に支配されていた「牧場」とは対極にある、文明と安らぎの象徴に見えた。


自由都市イーディス。


ここは、国家間の緩衝地帯に位置し、人種や種族による差別が法的に禁じられている数少ない街の一つだ。


行き交う人々を見れば、人間の商人とドワーフの鍛冶屋が笑い合い、獣人の労働者が堂々と大通りを歩いている。


マルタが噂に聞いた通り、そこには「管理」や「隷属」といった重苦しい空気はなく、ただ解放された活気が流れていた。


「見たかい、リディア! 自由よ! ここが私たちの新しい家になるのよ!」


マルタの泥だらけの顔に、希望の光が戻った。


「リディア、今日から私がお母さんよ。血は繋がっていなくても、私たちは家族。ここで暮らして、幸せな生活を送ろうよ!」


彼女はリディアの手を強く握りしめる。

その温もりは、恐怖で凍りついていたリディアの指先を、わずかに溶かすようだった。


「……ここなら、怯えることもなく暮らしていけるのですか?」


リディアがおずおずと尋ねると、マルタは力強く頷いた。


二人は、希望という名の幻影に導かれ、この美しい街の門をくぐった。



   ◇



二人が身を寄せたのは、街外れにある、古びた家屋の一室だった。



そこを手配したのは、先に第三牧場から脱走したと言われ、同胞達の脱出の手引きをしてこの街に潜伏しているという人狼――グレンという男だった。


「よく無事で辿り着いた。追っ手は巻けたか?ここでは獣人として暮らしていく。

まずは腹ごしらえと身なりをきれいにしないとな」


グレンは、清潔なシャツを着こなし、髪を整え、完全に人間の社会に溶け込んでいた。


その振る舞いは洗練されており、怯えるリディアたちに水と毛布を与え、優しく労った。


彼は、街では重要な役職についており、この街での信頼も厚い。


まさに、同胞を救う「救いの神」のように見えた。


「ありがとう、グレン。貴方がいなければ、私たちは森で野垂れ死んでいたわ」


マルタは涙ながらに感謝した。


しかし、リディアは本能的な違和感を覚えていた。


グレンの笑顔は完璧すぎるのだ。


目が笑っていない。


その瞳の奥底には、牧場の研究員たちが実験動物を見る時と同じ、冷徹な計算と、昏い愉悦が宿っている。


グレンは、二人を安心させて部屋を出ると、扉の向こうで薄く笑った。


「これでまた、おとりが増えたな」


グレンは十数年前、第三牧場よりもさらに過酷な実験が行われていた「第二牧場」から脱走した生き残りだった。


彼は人間を憎んでいたが、同時に、力のない同胞をも軽蔑していた。


彼にとって重要なのは、自身の生存と、この街での地位を守ることだけ。


最近、町長が、彼の正体に疑念を持ち始めている。


追跡者の目を逸らし、自身の「人狼狩りの英雄」としての地位を盤石にするためには、手頃な生贄が必要だった。


マルタとリディアは、彼にとって「同胞」ではなく、使い潰すための「燃料」でしかなかった。



   ◇



街での潜伏生活が始まって数日。


倉庫の外に出ることは禁じられ、二人は薄暗い部屋の中で息を潜めていた。


最初の数日は配給された食料があったが、それもすぐに底をついた。


飢え。


人狼の代謝は人間よりも激しい。空腹は理性を削り、獣の本能を暴走させる毒となる。


「お腹が空いたろう? 可哀想に」


ある夜、グレンが現れた。


手には食料を持っていない。


彼はふらつくマルタの肩を抱き、耳元で囁いた。


「この街では、獣人のための肉を手に入れるのは難しい。だが、俺たちは特別な絆で結ばれている。……俺の『生命』を分けてやろう」


グレンは自らの腕をナイフで傷つけ、滴り落ちる鮮血をグラスに注いだ。


鉄の臭い。


そして、濃厚な魔力の香り。


それは、獣人族の間では絶対のタブーとされる行為だ。


同族の血を飲むことは、魂を穢し、精神を崩壊させる禁忌。


「だめです、マルタ! それは……!」

リディアは止めようとした。


だが、極限の飢餓状態にあるマルタの目には、その赤い液体が甘美な果実のように映っていた。


「ごめんね、リディア。一口だけ……一口だけだから……」


マルタは震える手でグラスを受け取り、それを飲み干した。



グレンは、その様子を慈父のような、あるいは悪魔のような微笑みで見下ろしていた。


第二牧場の耐え難い実験の成果として彼が得た能力は彼の血に、「狂狼病きょうろうびょう」の耐性者だった。


人狼の脳を侵し、凶暴性を極限まで高め、理性を破壊する不治の病。


グレン自身は発症しない「キャリア(保菌者)」であり、その血は猛毒そのものだった。



   ◇



変化は劇的だった。

数日後、マルタの高熱が引くと同時に、彼女の眼差しから「光」が消えた。


最初は些細な苛立ちだった。


次に、独り言が増えた。


そして、夜になると目が赤く充血し、喉の奥から獣の唸り声を漏らすようになった。


「……肉。……肉が欲しい……」


マルタは夜な夜な倉庫を抜け出し、街を徘徊し始めた。


最初は野良犬やネズミ。


やがて、その牙は家畜へ、そして夜道を歩く孤立した人間へと向けられるようになった。


リディアは、帰ってきたマルタの口元が赤く染まっているのを見るたび、布団の中で震えた。


「どうして……どうしてこんなことをするのです、マルタ……」


リディアの声は届かない。


マルタは、リディアを見ても、もう娘代わりとして愛した少女とは認識していないようだった。そこにいるのは、ただの「弱い肉」であり、縄張りを荒らす邪魔者だった。


リディアの世界は、急速に灰色に塗り潰されていった。


牧場で味わった、終わりのない絶望的な日々。


命からがら逃げ出した先で待ち受けていた、同族による裏切り。


そして、唯一の希望であり、心の支えであっ

たマルタの、醜悪な転落。


(希望なんて、最初からなかったのです)


これ以上の心の痛みから逃れるため、リディアは無意識のうちに感情を殺すことを選択した。


悲しめば心が壊れる。


怒れば殺される。


だから、何も感じない。


瞳の奥のスイッチを切り、ただ目の前の事実を、どこか別の風景のように無感動に見つめるだけになった。


ある嵐の夜。


完全に人狼へと変貌し、理性を失ったマルタが、リディアに襲いかかろうとした。


「グルル……ッ、ガァアッ!!」


リディアは抵抗しなかった。


マルタに殺されるなら、それでもいいと思った。


だが、マルタの爪がリディアの喉元に触れた瞬間、彼女の動きが止まった。


混濁した意識の深淵で、かつて誓った「守る」という意志の欠片が、最後の抵抗をしたのかもしれません。


マルタは苦悶の表情で頭を抱え、獣の咆哮を上げながら、窓を突き破って外へと飛び出した。

「グルル……リディア……ゴメンネ……」


去り際に聞こえたその言葉は、まだ正常な意識が残っていたのか。


もう引き返せない所まで来ている。


リディアは、割れた窓から吹き込む雨風に打たれながら、ただ座り込んでいた。


逃げ込んだ先の、街外れのボロボロの家。


彼女は、たった一人、置き去りにされた。

 


  ◇

時を同じくして、自由都市イーディスは恐怖に支配されていた。


連日のように発見される、食い荒らされた遺体。


「人食い人狼」のニュースは、街の空気を一変させた。


「やっぱり獣人は野蛮だ」


「あいつらは人間を食料としか見ていない」


差別意識が再燃し、無実の亜人たちが石を投げられ、店を追い出される。


グレンが描いたシナリオ通り、街は混乱と憎悪の渦に飲み込まれていった。


自警団団長のグレンは、毎晩のように出動し、市民を守る英雄を演じた。


だが、彼は人食いマルタを。


本命のマルタは泳がされ、恐怖を拡散させる装置として利用され続けていた。



事態を重く見た町長は、もはや地元の戦力では解決不能と判断した。



彼は震える手で、闇の組織への受信機を繋いだ。

「……金はいくらでも払う。この街の平穏を取り戻すため、最強の解決屋を派遣してほしい」


こうして、黒血の魔女――セレナ・ヴァンテールに、この人狼狩りの任務が割り当てられることになった。


それは、街を救うための依頼であり、同時に、罪なき犠牲者を闇に葬るための死刑執行命令でもあった。



   ◇



廃屋の窓辺。


リディアは膝を抱え、薄汚れたガラス越しに、灰色になった世界を眺めていた。


雨はやんでいたが、空は重く垂れ込めている。


彼女の心には、マルタを追いかける気力も、ここから逃げ出す意志も残っていなかった。



(生きる場所なんて、どこにもない)



脳裏に焼き付いているのは、理性を失い、血走った目で自分を睨んだマルタの顔。


あの優しかったマルタは、もう死んだのだ。


今、街を彷徨っているのは、グレンの悪意が作り出した哀れな怪物に過ぎない。


自分にはもう、帰る場所も、頼れる人も、生きる理由もない。


唯一残された感情は、「無」だった。


心を守るために、彼女は自らの魂を氷漬けにしたのだ。


リディアは知らなかった。


その灰色に染まった世界のすぐ外側から、一台のバイクが、冷たい排気音を響かせて近づいてきていることを。


黒い修道服を纏い、大鎌ではなく黒いライフルを持つ死神。


最期の時が近づいてきた。

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