第7話★
冷たい雨が、辺境の森の地面をぬかるみに変えていた。
裸足の足が泥に沈み、引き抜くたびに重い音を立てる。
息は白く、喉は焼け付くように痛い。
それでも、二人は止まることを許されなかった。
「……ハァ、ハァ……っ」
少女――人狼のリディアは、木の根に足を取られて無様に転倒した。
泥まみれになった水色の髪。粗末な麻布の服からは、痩せ細った手足が覗いている。
その首には、個体識別であることを示す『No.78』と刻印された鉄の首輪が嵌められていた。
「リディア!」
前を走っていた女性が、すぐに駆け戻ってきた。
彼女はリディアの実の母ではない。
同じ施設で飼育されていた、人狼の女性――マルタだ。
彼女は震えるリディアの体を抱き起こし、泥を拭った。
「立って、リディア。休んじゃだめ。追いつかれるわ」
しかし、リディアの瞳は虚ろだった。
恐怖で焦点が定まらず、ただ地面を見つめている。
「……もう、嫌……」
リディアは、消え入りそうな声で呟いた。
「逃げても、無駄です……。私たちは『第三牧場』の商品……。どこへ行っても、人間に見つかれば殺されるか、連れ戻されるだけ……」
『人狼養殖工場』。
表向きは希少動物の保護施設だが、その実態は、人狼を強制的に管理し、その強靭な肉体を労働力や実験動物として、あるいはペットとして出荷する施設だ。
リディアはそこで生まれ、空を見ることもなく育った。
「この世界に……私が生きる場所なんて、ないのです……」
リディアの目から、雨とは違う温かい雫が溢れ出した。
絶望。諦め。
それは、長年の飼育生活によって心に植え付けられた、逃れようのない呪縛だった。
「いいえ! あるわ、必ずある!」
マルタはリディアの痩せた肩を強く掴み、力いっぱいに抱きしめた。
母の体温が、冷え切ったリディアの体に伝わる。
「聞いたことがあるの。この国境を越えた先に、私たちのような亜人や獣人を匿ってくれる『隠れ里』があるって。そこには鎖も、首輪もない。誰も私たちを家畜とは呼ばない場所が」
「……そんな場所、本当に……?」
「あるわ。だから、希望を捨てないで。一緒に逃げよう、リディア。お前だけは、あんな地獄で終わらせたりしない」
マルタの言葉に、リディアの瞳にわずかな光が戻りかけた。
だが、その希望を切り裂くように、森の奥から野太い怒号と、猟犬の咆哮が響いた。
「おい! 足跡があったぞ!」「『商品』を逃がすな!」「傷モノにするなよ、高く売れるんだからな!」
看守たちだ。
電気警棒とライフルを持った、工場の管理部隊が迫ってきている。ライトの光が、木々の隙間を縫って乱暴に走った。
「……! 来たわ」
マルタはリディアの手を引き、立ち上がらせた。
「走るのよ、リディア。振り返っちゃだめ。前だけを見て!」
二人は再び走り出した。
泥を跳ね上げ、茨で肌を切り裂きながら。
背後から迫る「死」と「隷属」の足音に怯えながら、少女たちは、存在するかどうかも分からない希望の光を求めて、漆黒の森を駆け抜けていく。
――その森の先に、黒き魔女の銃口が待ち受けていることも知らずに。




