第5話★
廃倉庫の空気は、もはや空気と呼べるものではなかった。
錆びついた鉄骨の腐臭、長年閉じ込められた湿気、そして何度も繰り返された実験の残滓――
それらが混濁し、粘性を持った“死”として肺の奥に沈殿していく。
呼吸をするたび、世界が汚れていく感覚。
それでも、セレナ・ヴァンテールは眉一つ動かさなかった。
天井の亀裂から落ちる水滴が、床の水たまりに波紋を広げる。
ぽたり、ぽたり、という音は、まるで巨大な心臓の拍動のようで、
この倉庫そのものが、まだ生きているかのような錯覚を与えていた。
――否。
生きているのではない。
ただ、死にきれていないだけだ。
倉庫の中心に立つセレナの周囲を、影が取り囲む。
それらは、かつて“人間”だったモノたち。
皮膚は裂け、肉の下から突き出た鋼鉄の四肢が不規則に痙攣し、
露出した配線が火花を散らしている。
関節は生体の限界を無視して逆方向へ折れ曲がり、
喉から漏れる音は、言葉でも悲鳴でもなかった。
歯車が空転するような、不快なノイズ――
生命という概念を嘲笑う、純粋な不協和音。
――合成人間。
リー・シャオロンが“作品”と呼んだ、ウロボロスの失敗作。
「……本当に、趣味が悪い」
吐き捨てるように呟いた瞬間、
影の一つが壊れた玩具のように跳ね上がり、突進してきた。
速い。
人間の反射神経では、到底追いつかない速度。
だが、その瞬間。
セレナの内側に巣食っていた虚無が、すっと後退していくのを、彼女は明確に自覚した。
――考えるな。
――問うな。
――ただ、動け。
戦闘という行為だけが、
「私は何者か」という問いを完全に消し去ってくれる。
血が、踊る。
瞳が妖しく赤く染まり、吸血鬼の権能が解放される。
血流操作。
全身の毛細血管に命令が下り、心拍数が跳ね上がる。
筋繊維一本一本に、過剰なほどの酸素が叩き込まれた。
世界が、遅くなる。
突き出された鋼鉄の腕を、最小限の体重移動でかわす。
風を裂く音が、頬をかすめた。
次の瞬間、コンバットブーツが振り下ろされる。
ぐしゃり。
骨と金属が混じり合った感触が、足裏から伝わった。
人間の骨が砕けるはずの場所で、一瞬だけ異様な硬さが抵抗し、
そして屈服する。
体勢を崩した合成人間の喉元へ、右手のナイフが吸い込まれる。
一閃。
刃は神経束と人工血管を正確に断ち切り、
赤と黒が混ざった液体が噴水のように噴き上がった。
セレナが身を翻すのと、血飛沫が闇に軌跡を描くのは同時だった。
背後。
もう一体。
左手が跳ね上がる。
試作型ハンドガン――ブラットペイン・ハンドガンモード。
引き金を絞る。
炸裂音。
その瞬間、
――腕が、壊れるかと思った。
12.5mm弾の反動。
人間どころか、通常の吸血鬼ですら片手では扱えない代物。
衝撃が、手首から肘、肩、鎖骨へと一気に突き抜ける。
骨が悲鳴を上げ、筋肉が引き裂かれそうになる。
実際、左腕はありえない角度で持っていかれかけていた。
「……っ!」
だが、セレナは抑え込んだ。
血流操作を即座に変更。
左腕を一時的に強化し、筋肉を無理やり固定する。
痛覚は遮断しない。
あえて、残す。
――この痛みが、現実だ。
砲身が跳ね上がるのを強引にねじ伏せ、
セレナは、口元だけで笑った。
嘲るように。
まるで、この世界そのものを見下すかのように。
「……悪くない」
弾丸は寸分の狂いもなく、機械化された心臓部を撃ち抜いていた。
鋼鉄の胸郭が内側から爆ぜ、合成人間は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
――レオナの設計思想は、正しかった。
セレナは止まらない。
撃ち、斬り、踏み込み、かわし、撃つ。
ナイフと銃が、両腕で交互に歌う。
反動で軋む左腕を無視し、再び引き金を引く。
痛みが走るたび、
笑みが深くなる。
血流操作で引き上げられた身体能力は、もはや“戦闘”ではない。
これは――選別だ。
醜悪な混沌の中に描かれる、ただ一つの秩序。
漆黒の修道服が翻るたび、
死という名の静寂が、正確に配置されていく。
やがて。
最後の一体を残し、倉庫は沈黙に包まれた。
片隅で、青年が座り込んでいる。
彼もまた合成人間だったが、目の光は完全には死んでいない。
人の意志が、かろうじて残っていた。
――彼は、見ていた。
この地獄の中で、唯一、秩序だった存在を。
(……綺麗だ)
恐怖よりも先に、その感情が湧いたことに、青年自身が驚いていた。
孤児として生まれ、
温かい食事と寝床と引き換えに、研究施設へ売られた。
そこに秩序はなかった。
肉と機械が無作為に結合され、悲鳴は数値へ変換された。
だが、
目の前の“死神”は違う。
彼女は、無差別に壊さない。
壊すべきものだけを、完璧に終わらせている。
(……終わらせてくれるなら)
それでよかった。
セレナは彼の前に立ち、血に濡れたナイフを下ろす。
そして、かつて修道女だった頃の面影を残す、澄んだ声で囁く。
「祈れ」
青年は、驚いたように目を見開く。
「それぐらいは……できるだろう?」
青年は、震える手で祈りの形を作り、頭を垂れた。
次の瞬間、
痛みも恐怖もなく、意識は闇へと沈んでいく。
全てが終わった。
倉庫の外、雨の闇の中で、リー・シャオロンはその光景を見ていた。
理性が焼き切れそうになるほどの“機能美”。
――あれは、人ではない。
だが、最高の“完成品”だ。
リーは笑い、
そして夜の街へと車を走らせた。
黒き魔女は、英雄にはならない。
名も残らない。
だが確かに今夜、
“不要と判断された世界の歪み”は排除された。
それだけで、十分だった。




