第11話
自由都市イーディスの中央広場から伸びる石畳の坂道を登りきると、そこには下界の喧騒を見下ろすようにして、重厚な鉄柵に囲まれた一画がある。
ガス灯が整然と並び、警備兵が巡回する高級居住区。
その中心に鎮座するのが、この街の行政と権威の頂点――町長の私邸。
通された応接室は、セレナが想像していた以上に「隔絶」された空間だった。
分厚いオーク材の二重扉が閉ざされた瞬間、外から聞こえていた街の騒音、商売人たちの怒号が、完全に遮断された。
磨き上げられたマホガニーの家具。
床を覆う、足首まで埋まるほど分厚い深紅の絨毯。
壁には、この街の繁栄を描いた絢爛な油絵が飾られ、金縁の額縁の中で、着飾った人々が永遠の笑顔を浮かべている。
しかし、その贅沢な部屋の主は、その装飾とはあまりにも対照的な姿で、痩せこけた顔で執務机に突っ伏していた。
「……おお、ウィッチワークスの方か……!」
顔を上げた町長は、まるで幽霊でも見たかのように目を剥いた。
ふくよかな体型をしているが、その肉は重力に負けて垂れ下がり、顔色は蝋人形のように悪い。
目の下には墨を塗ったような濃いクマができ、高価なスーツの襟元は脂汗で汚れ、髪は手入れをする暇もなくボサボサに乱れている。
全身から滲み出ているのは、富者の余裕ではない。焦燥と疲労、そして逃げ場のない恐怖だ。
セレナが無言のまま、革張りのソファに音もなく腰を下ろすと、町長は椅子から転げ落ちるようにして立ち上がり、両手をすり合わせながら近づいてきた。
「よくぞ来てくださった……! ウィッチワークスが来てくださるなら、頼もしい限りです。まさか『黒血の魔女』様自らとは……。いや、これこそが、神の救済か!」
彼はセレナの漆黒のシスター服を見て、溺れる者が藁に縋るような視線を向けた。
神への祈りも、金による解決も、全てを試し尽くして絶望した者が、最後に悪魔に魂を売る時の目だ。
セレナは無感情に、ただ目の前の男を見つめている。
彼女にとって、依頼主の怯えなどどうでもいい。
重要なのは、この男が持っている情報と、任務の遂行だけだ。
「……座れ。依頼を受けに来た」
セレナの冷たい声に促され、町長はドアに鍵をかけ、対面のソファに崩れ落ちた。
「事態は深刻なのです。……人食い人狼の事件が起こってから、この街はもう、疑心暗鬼になっています」
町長はテーブルに額を近づけ、腹の底から重い息を吐き出した。
「わが町の自警団は、主に人族だけで構成されています。
元々、亜人種との間には商習慣の違いや文化的な小さな摩擦はありましたが……今回の人狼事件を境に、彼らは完全に疑心暗鬼になってしまった」
町長の声が震える。
「『夜になれば隣人が獣に変わるかもしれない』。その恐怖が、理性を上回ったのです。彼らは無実の獣人族を次々と捕らえ、尋問という名の私刑を行っている。……それがまた、獣人族側の反発と結束を招き、新たな火種となり……今や街全体が、誰かがマッチを一本擦れば大爆発を起こす火薬庫のような状態なのです」
セレナは静かに腕を組み、町長の言葉を咀嚼する。
街で感じたあの突き刺さるような視線の正体はこれだ。相互監視と相互不信。
「ここは、亜人種が多いと聞いたが」
「ええ、その通りです。ここは国境都市ですから。特に南方には、獣人の国家アルセミニオがあります。そこへ向かう獣人族が、危険な国境越えの前にここで一息つく。しかし、自由都市の空気に触れ、そのまま居付いてしまう者も多いのです」
町長は顔を上げ、この街の看板である「自由」の定義を、まるで自分自身に言い聞かせるように説明し始めた。
「自由都市なので、誰でも受け入れます。過去も、種族も問いません。……税さえ納めて頂ければ、ここの市民になれます。差別はありません。だから、獣人族の国家に行かなくても、ここで商売をし、家族を養い、暮らしていく者は多いのです」
セレナの虚ろな赤い瞳が、わずかに揺れた。
自由。
その高尚で美しい響きの裏には、冷徹な「経済的選別」という刃が隠されている。
カルロス神父が言っていた言葉が脳裏をよぎる。『支配の構造は変わらない』。
かつて吸血鬼が血で人間を管理したように、ここでは金が命を選別しているのだ。
「しかし、自身で稼げる者のみ、という絶対的な前提があります。この街は独立都市ゆえに、後ろ盾がない。孤児や難民、病人を無償で受け入れるほどの予算は、ゼロに等しいのです」
町長は、言い訳をするように早口になった。
「ですから、経済的に自立できない者たちは……ここにも留まれず、かといってアルセミニオまでの国境越えは、野盗や山賊、さらには奴隷商人までいる危険な道です。死を覚悟して国境を越えていく者も少なくありません」
セレナの脳裏に、先ほど街中の広場でぶつかった、水色の髪の少女の姿が鮮烈に蘇った。
痩せこけた頬。ボロボロの衣服。
そして、あの極度の怯え。
あれは、単に「人狼だから」怯えていたのではなかったのかもしれない。
「金を持たざる者」として、この街のシステムから弾き出され、ゴミのように排除されることへの、根源的な恐怖。
自由という名の光が強ければ強いほど、その影に落ちた弱者は、誰にも顧みられずに闇に溶けていく。
(……くだらない)
セレナは心の中で吐き捨てた。
だが、その不快感は、彼女自身の過去――実験体として消費されかけた記憶――と共鳴し、静かな怒りの種火となっていた。
セレナは冷徹に、本題へと切り込んだ。
「分かった。それは街の事情だ。オレが関知することじゃない」
その声には、一切の感情が含まれていないように装った。
「依頼を遂行する上で、必要な情報を出せ。人狼事件の最初の被害者は? 逃走した人狼の数は? そして、その中で……十数年以上前からこの街に潜伏している人狼の噂について、何か具体的な手掛かりはあるか?」
セレナの言葉は、町長の混乱した嘆きとは違い、彼女の合理的な的確に事件の核心を衝いていた。
町長は、その冷徹なプロフェッショナルな視線に気圧され、額の汗をハンカチで乱暴に拭った。
「そ、そこまでご存知で……」
彼は震える手で、自身の背後にある頑丈なキャビネットの鍵を開けた。
そこから取り出されたのは、革表紙の分厚いファイルだった。
真実と虚偽、隠蔽工作と悲鳴、そして街の秘密が詰まった、物理的な重量以上の「重み」を持つファイルだった。
町長がテーブルに置いたファイルは、ドン、と重い音を立てた。
セレナは受け取るなり、無言で中身を捲っていく。
プロの目は、感情を排して事実だけを吸い上げていく。
被害者一覧。
発生日時。
現場の写真。
血痕量、遺体の損壊部位、咬傷の特徴。
「……これほど調べているとは、もう犯人の目星は済んでいるんだな」
ぽつりと漏れた一言に、町長がびくりと肩を震わせた。
彼の顔から血の気が引いていく。
「……やはり……黒血の魔女様の目は誤魔化せませんか」
町長は、観念したように椅子に深く身を沈めた。もう、隠し立てはできないと悟ったのだ。
セレナは人狼の正体を暴いていく。
「長く潜伏している。
人間社会に完全に順応し、戸籍も税記録も揃えている。
市民の信頼を得て、人狼狩りが始まれば、真っ先に誰かに罪を擦り付けて、自分は安全圏から笑っている奴だ」
町長は、何も言い返せなかった。図星だったからだ。
「……名前は?」
沈黙が落ちる。
時計の秒針の音だけが響く。
「名前を出すと、街が壊れます。彼は……自警団の英雄ですから」
「既に壊れてる」
セレナは吐き捨てるように言った。
「アンタは“秩序”を守ってるつもりなんだろうが、それは静かな処刑台だ。毒が回って死ぬのを待っているだけの延命治療に過ぎない」
彼女は立ち上がった。
黒いシスター服が衣擦れの音を立てる。その威圧感は、この豪華な部屋の空気を一変させた。
「最後に確認する」
視線が、町長を貫く。
これが、彼女にとっての「狩るべき対象」を
定めるための最後の問いだ。
「逃走者の中に――子供はいるか」
町長の唇が、紫色に変わるほど震えた。
「……一名。
年齢は十歳前後。
リディアという名をつけているそうです。
こちらの個体は非常に稀で、人間に変身できず、見た目は狼の獣人と間違うほどです。街での目撃情報も上がっているそうで」
セレナの思考が、一瞬だけ止まる。
水色の髪。
虚ろな瞳。
触れられることすら恐れていた、あの広場の少女。
彼女は、ただの難民ではなかった。牧場から逃げ出し、この街の「自由」に拒絶され、さらに同族の「裏切り者」に利用されようとしている、最も弱い存在。
(……チッ)
胸の奥で、黒い炎が爆ぜた。
「そいつは?」
「現在は行方不明です。
税も払えず、市民登録もできない。身元引受人もいない。
つまり……この街の法律上、“街の住民ではない”。……保護の対象外です」
セレナは、静かに笑った。
それは、町長が背筋を凍らせるほどの、氷のように冷たい、美しい嘲笑だった。
「なるほどな。
自由は売り物で、命はオマケ扱いか。
金のないガキは、野垂れ死ぬか、怪物の餌になるのがお似合いだと?」
町長の態度に苛つきを感じた。
分かりきっている。
弱いから、力がないから、カネがないから
この世の理不尽さに苛つき、確認するように訪ねた。
「その、子どもの人狼はどうする?」
セレナが指しているのは、写真に写っていた水色の髪の少女、リディアのことだ。
彼女はまだ人食いになってないかもしれない。
しかし、逃走者であり、人狼としての特徴を隠しきれていない。
町長は、その問いに沈黙した。
豪華な応接室の重い空気が、さらに沈み込む。
やがて、彼は深い溜息と共に、暗く、諦めに満ちた表情を浮かべた。
「残念ながら……この町において、人狼の存在は、もはや不信感でしかありません」
町長は、自身も人間でありながら、その言葉に深い疲弊を滲ませていた。
「自由都市の体面を保つために、私たちは事件を収束させなければならない。リディアが『第三牧場』から逃げてきた哀れな犠牲者であることは理解しています。しかし……」
彼は言葉を詰まらせた。
「しかし、彼女は人間として隠れて生きていけるほど、この街は優しくありません。耳と尻尾はフードで必死に隠していますが、いつ誰かにバレてもおかしくない。一度、疑念を持たれれば、自警団の餌食になるか、市民による私刑に遭うか、どちらかです」
町長は、テーブルに置かれたファイルを震える指先でトントンと叩いた。
「彼女を捕らえ、尋問すれば、自警団の悪行の証拠になるかもしれません。しかし、そうなれば、彼女は『人狼』として裁かれる。……私にできることは、もはやないのです」
そして、絞り出すように呟いた。
「せめて……天の国へと、安らかに行けるように願うばかりです」
それは、セレナに「ついでに始末しろ」と依頼しているのと同じことだった。
町長は、権力や法律では救えない、この街の「闇」の犠牲を、セレナに押し付けているのだ。
セレナは黙って立ち上がった。
言葉はなかった。この男の無力さに、憤りをぶつけるのは筋違いだと本能的に理解していた。町長は、この街の構造的な悪意の最前線で、ただ押し潰されそうになっている一人の人間でしかない。
セレナは、応接室の重い扉へと向かって歩き出した。
(どこにでもある話だ)
頭の中は冷静だった。
弱肉強食。力の無い者は、支配構造の底辺で、餌になるか、切り捨てられるか。
それは、彼女自身の吸血鬼としての本能が理解している、世界の摂理だ。
(弱いやつから死んでいく。……弱さは罪だ)
幼い頃から刻み込まれた、血の掟のような認識。
自らの存在を「最強の武器」たらしめることでしか、生き残れなかったセレナの、冷たい哲学だ。
なのに。
彼女の胸の内には、抑圧された炎が渦巻いていた。
それは、あの水色の髪の少女の、虚ろな瞳を見た時の不快感。
自分と酷似した、感情を凍らせて生きる哀れな姿。
あの少女は、自分自身の「弱かった頃の姿」
ではないか。
ただ与えられた役割だけを全うさせられようとした、過去の自分ではないか。
理性は「無関心でいろ」と命じる。
感情は「なぜだ」と叫びたがっている。
セレナは、その憤りを、喉の奥に押し殺したまま、応接室の扉を力強く押し開けた。
町長は、安堵と恐怖の入り混じった顔で、背後から声をかけてきた。
「セレナ殿、どうか……どうか、ご武運を」
セレナは振り返らない。
「オレは、依頼された仕事だけをする。余計な感情は、持ち込まない」
そう、自分自身に言い聞かせるように、彼女は冷たく言い放った。
そして、闇のシスターは、自由都市イーディスの夜の帳の中へと姿を消した。
彼女の狩りの対象は、人狼マルタと裏切り者の自警団の団長。
しかし、その心は、救済を待つ哀れな少女の運命と、彼女自身の過去との葛藤によって、静かに引き裂かれ始めていた。
◇
一方その頃。
街外れ、倒壊寸前の元・染色工場の地下。
湿ったカビの臭いと、古い染料の異臭が漂う暗闇の中。
リディアは、冷たいコンクリートの壁に背を預け、膝を抱えていた。
ボロボロのフードを目深に被り、自分の鼓動の音を聞いている。
外で、野良猫がゴミ箱をあさる音がした。
ビクリ、と身体が強張る。
耳が痛いほどに周囲の音を拾ってしまう。
(怖い……怖い……)
マルタは帰ってこない。
昨日、血の匂いをさせて帰ってきた彼女は、唸り声を上げてまた出て行ってしまった。
グレンは、ときどき様子を見に来るが、その目はいつも冷たく、値踏みするようだった。
「……助けて……」
声にならなかった。
誰に助けを求めればいい?
人間は敵だ。街の人は敵だ。同族さえも、信じられない。
その瞬間。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
ゴーン、ゴーン、と重く、低く。
それは、夜の始まりを告げる合図であり、
彼女の知らない吸血鬼が、狩りの始まりを告げる、断罪の音であった。




