第10話
荒野の道路を濡らしていた冷たい雨が上がり、分厚い雲の切れ間から、弱々しい夕陽が差し込んでいた。
湿った風が運び去った雨雲の向こうに、赤茶色のレンガで組み上げられた巨大な人工物が姿を現してきた。
自由都市イーディス。
国家間の緩衝地帯に位置し、どの王権にも属さず、金と契約のみが支配する独立都市。
その外壁は、数多の戦火と歴史を吸い込んで黒ずんでいるが、内部からは蒸気の白煙と、生命の熱気が立ち上っている。
セレナ・ヴァンテールは、街を見下ろす丘の陰にバイクを隠すと、身支度を整えた。
レインコートを脱ぎ捨て、漆黒の修道服に身を包み、頭にはベールを被る。
一見すれば、敬虔な神の使徒だ。
だが、その裾から覗く足元は、祈りの場には似つかわしくない、泥と油に汚れた軍用の編み上げコンバットブーツ。
腰の修道帯の内側には、大型ハンドガン『ブラットペイン』のホルスターが隠され、背中に背負った巨大な荷物は、楽器ケースに偽装された組み立て式の大型の狙撃銃だ。
「……行くか」
祈りの言葉ではなく、狩りの開始を告げる呟き。
セレナはブーツの紐をきつく締め直し、その一歩を踏み出した。
◇
街の入り口である巨大なアーチ門をくぐると、そこは喧騒の坩堝だった。
「さあさあ! 南方の香辛料はいかがかね! ひと振りでスープが黄金に変わるよ!」
「修理屋だ! 蒸気パイプの詰まりから、義手の調整まで何でもやるぞ!」
耳の長いエルフ族の商人が声を張り上げ、毛むくじゃらのドワーフ族の職人がハンマーを振るう音が響く。
トカゲの肌を持つ亜人が屋台を引き、人間の親子がそれを笑顔で買っている。
蒸気自動車がプップーと警笛を鳴らして通り過ぎ、ガス灯には明かりが灯り始める。
多様な種族が混ざり合い、商売という共通言語で結ばれた光景。
それは、カルロス神父が皮肉交じりに語った「支配と被支配の構造」からは解放された、理想郷のように見えた。
ここでは種族ではなく、財布の中身だけがその価値を決める。
ある意味で、それは残酷なほどに平等で、自由だ。
しかし。
セレナの吸血鬼としての鋭敏な感覚は、その華やかな表層の裏側にへばりつく、冷たく粘着質な緊張を捉えていた。
(……匂うな)
それは、腐った生ゴミの匂いでも、排気ガスの匂いでもない。
**「恐怖」**の匂いだ。
行き交う人々の視線は、決して定まらない。
隣を歩く者が、ふとした瞬間に牙を剥くのではないかという警戒。
笑い声は大きいが、どこか空虚で、沈黙を恐れるように喋り続けている。
特に、セレナの姿に向けられる視線は顕著だった。
黒衣のシスター服。
それは「聖輝教会」(せいこうきょうかい)の威光を示していた。
彼女が歩くと、物珍しげに街の人達は見る。
その目には、自由都市に場違いな装いであり、彼女がハンターであることはだれもわからなかった。
セレナは、突き刺さる視線を受け流し、無駄のない動きで人混みを縫うように進んだ。
目指すは街の中心部。情報の集まる場所だ。
その時だった。
賑やかな中央広場の一角。
大道芸人の周りにできた人だかりを避けようと、路地裏へ足を向けた瞬間。
曲がり角から飛び出してきた小さな影と、正面から衝突した。
「……ッ!」
ドサッ、という鈍い音。
相手は衝撃でよろめき、持っていた粗末な麻袋を取り落とした。
中から、拾い集めたような形の悪い野菜くずや、硬くなったパンの耳が散らばる。
「……おい、大丈夫か?」
セレナは反射的に手を差し伸べた。
だが相手は、表情を能面のように硬直させたまま、ぶつかった相手を見上げていた。
その人影は、深くボロボロのフードを目深に被っていた。
サイズが合っていない薄汚れた服から伸びる手足は、枯れ木のように細く、極度の栄養失調であることが見て取れる。
まだ、年端も行かない少女のようだ。
フードの隙間から、ちらりと髪が零れ落ちた。
この煤煙にまみれた街には似つかわしくない、透き通るような水色の髪。
少女は、震える手で散らばったパンを拾おうとしたが、ふと顔を上げ、セレナと目が合った。
その瞬間、セレナの思考が一瞬停止した。
頬はげっそりとくぼみ、肌は病的なほど蒼白だ。
だが、何よりもセレナを射抜いたのは、その瞳だった。
灰色に濁り、光を失った瞳。
恐怖も、悲しみも、怒りさえもない。
そこにあるのは、底のない絶望。
心を殺し、感情を捨て去ることでしか、この過酷な世界から自分を守れなかった者の目。
それは、かつて火刑台に立つ前の、絶望の淵にいたセレナ自身の瞳と、あまりにも似すぎていた。
それが、今回のターゲットである「逃亡した人狼」の片割れであることに、セレナはまだ気づいていない。
ただ、目の前の存在が発する「助けて」という声なき悲鳴が、セレナの凍てついた心臓を、鋭い針で突いたような気がした。
セレナは、反射的に手を差し伸べた。
それは、吸血鬼としての狩りの本能でも、魔女としての計算でもない。
彼女の記憶の深層、泥の中に埋もれていた人間性の残滓が、無意識に体に命じた行動だった。
「……立て。怪我はないか」
ぶっきらぼうで、温度のない低い声。
だが、そこには確かに、転んだ子供を気遣う微かな意志が含まれていた。
黒い革手袋に包まれた手が、少女の目の前に差し出される。
しかし。
その手を見た瞬間、少女は弾かれたように全身を激しく震わせた。
「……ッ、ヒッ……!」
少女の虚ろな瞳に、一瞬だけ、恐怖の色が閃く。
彼女が見たのは、救いの手ではない。
黒衣のシスター服。
その背後に揺らめく、圧倒的な「死」と「暴力」の気配。
そして何より、自分たちを狩りに来た捕食者の匂いを、本能的に察知したのだろう。
少女は何も言わなかった。
「ごめんなさい」とも、「助けて」とも言わず、差し伸べられた手を払いのけることさえしなかった。
ただ、地面を這うようにして素早く立ち上がると、散らばった食料もそのままに、脱兎のごとく駆け出した。
その動きは、飢えた子供のものではない。
しなやかで、バネのように鋭く、そして音がない。
まるで、太陽の光を浴びて消滅する吸血鬼のように、恐るべき速さで人混みの中へと消えていった。
セレナの手は、空を掴んだまま、宙に浮いていた。
「……」
セレナはゆっくりと手を下ろし、しばらくその場に立ち尽くした。
掌に残る、一瞬だけ触れた少女の気配。
それは、雨と泥、そして古い血の匂いがした。
(今の動き……ただの人間じゃないな)
単なる貧しい浮浪児ではない。
あの異常なまでの怯え方。
そして、獣じみた身体能力。
何より、あの虚無を宿した瞳が、セレナの胸の奥に不快なざわめきを残していた。
過去の孤独な時期。
誰にも助けを求められず、ただ世界の理不尽さに打ちのめされていた、あの日々の記憶。
「……気にすることじゃない」
セレナは小さく頭を振り、無理やり思考を断ち切った。
どこにでも孤児はいる。
同情は不要だ。
感情は判断を鈍らせるノイズでしかない。
彼女は再び冷徹な仮面を貼り直し、ブーツの踵を鳴らして歩き出した。
◇
その後、セレナは街の酒場や市場を回り、情報収集を続けた。
薄暗い酒場『錆びた歯車亭』。
紫煙が充満する店内では、労働者たちが安いエールをあおりながら、声を潜めて話していた。
「昨日の夜も出たらしいぞ。今度は南区画の羊飼いがやられた」
「やっぱり、あの獣人どもだ。昼間はへらへら笑ってやがるが、夜になれば俺たちを餌としか見てねぇんだ」
カウンターの隅で聞き耳を立てていたセレナは、グラスの中の液体を見つめながら分析する。
街の雰囲気は、外見の自由とは裏腹に、内部から腐り落ちようとしていた。
人狼事件という「見えない恐怖」のせいで、亜人種と人間族の間には、かつてないほどの深い溝が生まれている。
酒場で亜人が少し大きな声を出すだけで、人間の客がビクリと肩を震わせ、警戒して席を立つ。
街角では、人間の若者たちが自警団の腕章を巻き、棍棒を持って亜人の居住区を睨みつけている。
噂は飛び交っていた。
だが、そのすべてが憶測と恐怖に歪められた断片的なものばかりだ。
「人食いの人狼は、夜だけ獣に変わる人間のフリをした亜人だ」
「奴らは何十年も前から街に潜んでいて、夜な夜な襲って来るんだ。噛まれた奴も人狼になるらしい」
「自警団長のグレン様がいなけりゃ、この街はとっくに全滅だ」
これらの噂の中に、真実の欠片が混じっていることを、セレナのプロとしての勘が告げていた。
特に「長年潜んでいる」という話。
そして、英雄視される自警団長。
(出来すぎだな)
恐怖を煽る者と、それを鎮める英雄。
あまりにも完璧なマッチポンプの構図。
だが、誰が「人食い」で、誰が「裏切り者」なのか、酒場の噂話レベルでは確証が得られない。
市民たちは誰も「見た」わけではないのだ。
ただ、恐怖に踊らされているだけ。
結局、酒場での聞き込みでは核心に迫れないと判断したセレナは、グラスを置いて立ち上がった。
もっと確実で、もっと深い情報を握っている人間に会う必要がある。
「……元締めを叩くか」
セレナは、最も目立たないルートを選び、街の上層地区――町長の屋敷へと向かった。
スラムのような下層地区とは打って変わり、そこはガス灯が明るく輝き、警備兵が巡回する高級住宅街だった。
その中心にそびえる町長の屋敷は、この自由都市の権威と富の象徴だ。
だが、セレナの目には、その豪奢な屋敷さえも、砂上の楼閣のように脆く見えた。
重厚な鉄の門の前で、警備兵が槍を交差させて立ちはだかる。
「止まれ! 何の用だ、シスター。ここは祈りの場ではないぞ」
セレナは、フードを少しだけ持ち上げ、その紅い瞳を警備兵に向けた。
そして、懐からウィッチワークスの紋章が入った黒い銀貨を取り出し、指で弾いた。
キンッ、という澄んだ音が夜気に響く。
「ウィッチワークスの者だ。……依頼を聞きに来た」
その言葉を聞いた瞬間、警備兵の顔から血の気が引いた。
彼らは慌てて門を開け、道を開ける。
恐怖と、それ以上の「すがるような安堵」の表情。
それは、この街の権力者たちでさえ、もはや事態を制御できていないことの証明だった。
セレナは、無感情な表情のまま、石畳の通路を歩き出した。
コンバットブーツの音が、静寂な庭園に不気味に響く。
彼女の狩りは、ここから本格的に始まる。




