第1話
セレナ・ヴァンテールは、かつては戦災孤児であった。
内戦が起こったとき、街は数日のうちに瓦礫へと変わった。
砲声と怒号が空を裂き、火と血が日常の風景となり、弱き者から順に地に伏した。
生き延びた者たちは国境を越え、難民となり、名も持たぬ数のひとつとして数えられる存在に成り果てた。
セレナもその一人だった。
ぼろ切れをまとい、怯えながら歩き続け、やがて神聖国家の救済に拾われた。
施しとして与えられたのは、パンと水、そして「信仰」だった。
神に祈れば救われる。
奉仕すれば報われる。
疑わなければ、赦される。
少女だったセレナは、それを疑わなかった。
疑う術を、奪われていたからだ。
やがて彼女は修道女となった。
傷ついた人々を看取り、祈り、手当てをし、罪を告白する者の声を聞いた。
信仰と奉仕の日々。
それは確かに、彼女にとっての救いだった。
――あの日までは。
無実の罪を着せられ、告発され、裁かれた。
理由は些細で、証拠は曖昧だった。
しかし、標的は最初から決まっていた。
異端。
穢れ。
不吉。
黒い噂は真実よりも速く広がり、彼女は否定する機会さえ与えられぬまま、火刑台へと縛り付けられた。
祈りは、届かなかった。
火が灯される、その瞬間――
世界は、唐突に塗り替えられた。
灼熱の痛みの代わりに訪れたのは、静寂と夜。
その後、彼女の記憶は途切れている。
いつ、どのようにして旅が終わったのか、自身が何を失ったのかも分からない。
共に旅をしたはずだ。
救われたはずだ。
それなのに、終わりだけが、どこにもない。
次にセレナが目覚めたとき、彼女はもう人間ではなかった。
血を渇望し、心音の位置が分かり、夜の闇が優しく感じられる身体。
鏡に映らぬ顔。
祈りを拒絶する肉体。
吸血鬼。
自身の変貌について魔女カレン・ファースに問うたとき、返ってきた答えはひとつだけだった。
自身の変貌のした理由を魔女カレン・ファースに問い詰めた時、
「それは代償だ」とだけ告げた。
セレナはカレンと共に魔女会「ウィッチワークス」で働き、細々とした任務をこなしていた。
ウィッチワークスは迫害された異能者や亜人のための組織であった。
主に魔女、人間の諜報員、亜人などで構成されている。
かつての清らかな修道女の姿からは想像もつかない日常を送りながらも、彼女の心の中には信仰と正義の火が残っていた。
そして、自分の失った記憶や、再び救世主と出会うことを密かに願いながら、吸血鬼としての新たな運命を受け入れて生き続けていた。
雨が続き、廃墟の家で彼女は住んでいた。
セレナ・ヴァンテールは、栗色の長い髪を淑やかに肩へ垂らし、褐色の肌というよりも薄暗い黒に近い肌色であった。
彼女の姿は、まるで幽かな月光が照らす妖艶な幻影のようで、漂う冷気すらその美しさを際立たせいた。
服を脱ぎ手渡して浴場へと、向かう。
この家はアルドゼファー大陸の南東、とある街の最果てに位置する古びた家であった。
廃墟と化した家は、今やセレナの住居となっていた。
彼女は浴場で、温かい湯に身を沈め、無為な時を過ごしていた。
湯気が立ち込める中、彼女は指先を撫でるように滑らせながら、自らの肌を見つめていた。
滑らかなだったその肌は、以前の彼女が持っていたものとは違う。
吸血鬼として新たな生命を与えられたその身体は、死と美しさが奇妙に同居していた。
セレナは、ふと曇ったガラスに目をやった。
そこには、ぼんやりとした輪郭が映っていたが、顔は映らない。
まるで、この世の存在でなくなったかのように――自分がもはや人間ではないことを痛感させられる瞬間だった。
「オレは……いったい何者だったのか?」
その問いは、彼女自身への問いでもあり、神への問いでもあった。彼女の記憶は、火刑台に上がる前の記憶で止まっている。
それ以降、どれだけの時が流れたのかも分からない。
ただ、かつて修道女であり、神に仕え、清らかな生活を送っていたという断片だけが、頭の片隅に残っている。
だが、今やその神に背を向け、忌まわしき存在として生き続けている。
セレナは、皮肉な笑みを浮かべた。
かつて神の使いだった自分が、今では吸血鬼――血を糧に生きる化け物としてこの世界に存在している。
その事実は、彼女にとって滑稽でさえあった。
黒血の魔女――そう呼ばれることにはどこか虚しさがあったが、それ以上に自らを定義する言葉を持ち合わせていなかった。
もはや神への祈りも、救いも必要としない身となった今、彼女にとっての唯一の必要なものは、生き延びるための血だけだった。
「修道女だった時の私は、どこへ行ったのだろう……」
セレナは浴槽の縁に乗っかり、虚ろな目でガラスを見つめながらそう呟いた。
神への信仰に全てを捧げていた過去の自分と、今の自分との間には深い溝があった。
その溝は、何もかもを奪い去り、彼女の心を虚無へと追いやっていた。
ふと、浴場の外からカレン・ファースの声が響いた。
「お前が何者であったか、それを知ることに何の意味がある?」
セレナは声の方へ目を向けるが、答えは出さない。
ただ、再び静寂が浴場を包み、沈黙だけが残った。
セレナは、自らの運命を静かに受け入れながらも、その虚しさをぬぐい去ることができないまま、今日もまた血に飢えた夜を迎えようとしていた。
セレナは浴場から上がり、湯気がまだ体から立ち昇っている。
栗色の長い髪がしっとりと濡れ、肩にしなやかにかかる。
「で、何の用だ?」
セレナは、妖艶な微笑を浮かべながら、浴場の扉の前に立つカレンに問いかけた。
カレン・ファース、魔眼の魔女として知られる彼女は、両目を封じる布を常に巻いていた。
その魔眼は人の理性を狂わせる力を持ち、彼女自身でさえもその視力を完全に制御できなかったため、常に布で封じている。
しかし、セレナは時折ぼんやりと思う。
カレンは本当にその布越しに何かを見ているのだろうかと。
彼女は盲目であるはずなのに、周囲の動きや感情を正確に把握しているかのような振る舞いを見せる。
それが魔眼の力なのか、それとも別の何かに由来するのか――セレナは答えを求めることもなく、ただ疑問を抱いたままでいる。
カレンは短く答えた。
「仕事の依頼よ」
その言葉に、セレナはため息をつきながら、濡れた髪を指で払う。
もう少し湯に浸かっていたかったが、どうやらその余裕はないらしい。
セレナは濡れた体を無造作に拭き、黒の修道服を着る。
その姿は、誰もが振り返るような妖艶さと威厳に満ちていた。
かつて修道女だった自分がこんな姿になるとは、彼女自身でも信じられない変わりようだ。
場所を変え、応接室に入ると、カレンはすでにその場でセレナを待っていた。
魔眼を封じたまま、背筋をピンと伸ばし、何も見えないはずの目でセレナをじっと「見つめて」いるような気配を感じる。
セレナはカレンのそばに座り、机の上に置かれた依頼書に目を通した。
「また、獣人族と人族の諍いの仲裁か……」
セレナは微かに苦笑した。
この種の依頼はいつも彼女に回されてくる。
それは、彼女がその役に「向いている」と周囲から見なされているからだった。
吸血鬼としての暴力的解決、対立する者たちに恐怖と戦慄を与えるのだ。
「面倒なことばかりが回ってくるだな」
と呟きながらも、セレナは依頼書を閉じた。
もう長いこと、こんな仕事が日常となっていた。
血に飢えた夜を送りながらも、どこかで失った自分を探し続ける彼女にとって、こうした仕事はその虚無を埋める一つの手段に過ぎなかった。
カレンは口元に微笑を浮かべた。
「向いているのだから、仕方ないわね。今のあなたに断れる理由もないわ。もうすぐ薬の効果が切れるのでしょ?
依頼主は獣人を速やかに排除して欲しいそうよ」
その言葉に、セレナは深くため息をついた。
吸血鬼となった自分は、血液を凝縮し特殊に固めた錠剤を定期的摂取しなければ、狂ってしまう。
そのため、定期的に仕事の依頼を受け、
日々なんとか生きていたのだ。
自分が何者であるのかを問い続ける日々の中で、唯一確かなことは、この闇の中での組織の役割だけだった。
秘密結社ウィッチワークスーーそれは非合法な力を操る組織であり、金や権力では解決できない問題に対処するために設立された闇の組織だった。
忌み嫌われる魔女達や異能の力を持つ者を有効活用するための組織、世の中に蔓延る不条理を片付けていく。
それが、彼女たちの役割だった。
カレン・ファースはいつもどおり前払いで、
薬の入った袋を置いていき
「期待しているわ。あなたがどんなふうに活躍するかを楽しみにしているわ」
と無表情で言った。
二人の関係は特殊で古くからの付き合いがあった。
しかしセレナが目覚めた時、記憶の大半をなくしており、カレンがもつ契約の指輪の影響で、命令に対して絶対服従する契約であった。
セレナは特に気にすることなく、ウィッチワークスとして依頼の仕事を淡々とこなすだけだった。
数日後、仕事の場所へと移動して、
セレナ・ヴァンテールは静かに依頼先の現地へと足を踏み入れた。
そして依頼内容は、この国から獣人族を排除してほしいというもの。
技術革新が進んだ大災害以降の世界では、人間族は銃や大砲の力を駆使し、数の上でもカの上でも獣人族を圧倒していた。
この国は建前上、平等主義を掲げてはいるが、その政策の中では獣人族たちは含まれることはなかった。
人間族との共存は難しく、相容れない存在として常に圧迫され続けている。
セレナは歩みを進めながら、何度も繰り返されてきたこの種の依頼に心の中でため息をする。
人間族は常に獣人族の排除を望むが、それは単に自らの恐れと偏見に基づくものだ。
そして、セレナの役目はその命令を遂行することに過ぎない。
断ったところで、依頼者たちは別の手段で獣人族を追いやるだろう。
誰かが手を下すのであれば、自分がその役を引き受けることに特段の感情は湧かなかった。
隔離された地域に到着すると、獣人族たちがわずかな土地に押し込められ、 監視する人間族の目が厳しく光っていた。
彼らの存在が、まるで罪であるかのように扱われている。
その光景を目にしても、セレナの心には何の感慨も浮かばない。
すでに何度も見た光景だ。
どこにでもある悲しい日常の一つであった。
黒の修道服をまとい、足元をロングブーツで固めたセレナは、静かに手袋をはめ直す。
そして、視線を人間族へ向け、冷ややかに呟いた。
「さぁ、救済のときだ」
彼女はナイフを手に取り、冷淡に自身の手を切り裂いた。
深紅の血がゆっくりと流れ出し、その血が地面に落ちる前に、体をひねり血を固め、槍のように投げて空に舞い上がった。
その血の槍は監視をしている人間族の頭に刺さった。
そこから血の槍はまるで鮮やかな花弁が開いたかのように、咲き誇って血を吸い取り新たな血の槍が生まれた。
それは一瞬の出来事だった。
男は突然、目を見開き、何が起きたのか理解する間もなく、静かにその場に崩れ落ちた。
彼の頭からは血が流れ、まるでその場で花が咲いたかのように地面に広がった。
しかし、それはただの始まりに過ぎなかった。
血の花は次々と連鎖していった。
一つの花が咲き、その血の槍が飛んで行き、人間族の頭を貫くと、次の花がまた現れ、再
び同じ光景を繰り返した。
見る間に、その場にいたすべての人間族の頭上
に、血の花が咲き乱れていった。
まるでどこまでも広がる赤い花畑のように、無数の花が夜空に広がり、そこから飛んでくる血の槍が次々と命を奪っていく。
それは圧倒的な光景だった。
恐怖に怯えることすら許されないほどに速やか
に、そして無慈悲に摘み取られていった。
人々の花は次々と連鎖し、見る間に一面を血のような花畑に変えていく。
恐怖に怯えることすら許されないほどに速やか
に、そして無情に命が摘み取られていった。人々の叫びは、血の花が咲き始めると同時に消え失せ、静寂が場を支配した。
セレナはその光景をただ冷静に見つめていた。
彼女にとって、これ以上の感慨は必要なかった。
長い年月の間、彼女は数多くの命を手にかけ、その全てが「救済」という名の下に行われてきた。
彼女は信じていた。
この行為が、この世を浄化するための不可欠な一歩であり、自らが背負うべき運命であること
を。
だが、その運命には、常に孤独があった。
「これで全て終わった・・・」
セレナが低い声でつぶやく。
その異様な光景に、監視をしている人間たちは恐怖で動けなくなり、獣人族たちは一瞬の自由を得た。
獣人族の代表がセレナに駆け寄り、 深々と礼を言う。
事前にウィッチワークスから東に逃げ延びた獣人達いることを知っていたので、彼らに教えると東の国へ亡命することを望んだ。
生き残るための、唯一の道を選んだのだ。
セレナはその場をじっと見つめながら、無表情で息をつく。
いつもと変わらぬ結末だ。
何も変わらない。
何度も 繰り返される、どちらかが排除されるまで続くこの闘争。
それが平和のための唯一の解決策だというなら、セレナはそれに従うまでだ。
「オレはこうして..誰かに殺されるその日まで、赤い花を咲かせ続けるのだろう」
セレナは虚無の中でささやき、ただその言葉だけが虚空に響いた。




