十六段の男
挨拶が済むと、和真は独り署長室へ呼ばれた。中には多胡課長も立っている。多胡課長が口を開いた。
「佐水、中条警部は現場に関しては全くの素人だ。が、お前より階級は上。失礼な言動は許されないぞ」
「承知してます」
直立不動でそう答えた和真に、古戸署長が微笑みながら言った。
「それから、中条今日子警部は、中条官房長の御令嬢だ」
(マジかよ)
官房長、というのは警察庁の筆頭局である長官官房の頭、長官官房長を差している。長官官房は総務や人事、会計を担う部局で、警察内部の金・人・情報の全てを網羅している警察の核といってもいい部署である。生活安全局や刑事局、警備局といった五局の上に位置し、筆頭局とされる長官官房は、キャリアを含めた地方の警察の人事全てを掌握する警察の中枢といえる。その長である長官官房長は、警察庁長官、警視総監に次ぐ警察組織のナンバー3なのである。
「――将来は女性にも開かれた警察組織として、警察組織を改革する立場の人だ。丁重に対応するようにな」
「…判りました」
直立不動で答える和真に、多胡課長が軽く扉を指さした。和真は一礼して退室しようとする。しかし、そのドアの直前で古戸署長が口を開いた。
「言っておくが――」
和真は足を止めて振り返る。
「万が一、御令嬢に手を出したりしようものなら……将来はないと思った方がいい。日本中の何処に行ってもな」
和真は目を丸くして口をへの字に結ぶと、黙って背を向けてドアを開けた。
「――いや、あいつは達人というか武道バカでな。最近ちょっと有名なんだ、十六段の男って」
「十六段って?」
「剣道・柔道・合気道・空手道、それぞれ四段ずつとってるんで、全部で十六段。警察には剣道か柔道、片方極めてるのは珍しくないが、両方やってるのは珍しい」
「へぇ~、それであんなに強かったんですねえ」
仁の話に今日子が感心したように頷いている。今日子は芝浦の隣、和真の真向かいに座っていた。和真が戻ってくるのを見て、芝浦が声をあげる。
「あ、噂の主が戻ってきた」
「人の話で勝手に盛り上がるなよ」
和真が憮然とした顔で言うと、今日子は席を立ち、ペコリと一礼した。
「それでは佐水先輩、よろしくお願いします」
「いや……」
和真は渋い顔をした。
「警察ではあんまり先輩とかつけないし、そもそも中条警部の方が階級上ですから」
「そうなんですか? けど、警察の経験では佐水巡査部長の方が先輩ですから」
そう言って悪びれる様子もなく、今日子はにっこりと笑った。と、すぐに一人で考えを進めるように話し出す。
「そうそう、なんか『部長』ってつけると、凄い偉い人みたいですよね? わたし、最初の頃、『この人若いのに部長さんなんだあ、凄い』とか勘違いしちゃったんです。これって外の社会にあまり通じない呼称ですよね。そういうところから警察を改革した方がいいのかもしれない」
「それはおいおいやって下さい」
「敬語なんかやめて下さい、新人なんですからあ。それでわたしの事は、今日子ちゃんって呼んでください」
「……いや、俺、そういうキャラじゃないから」
「そういうキャラって?」
「彼女でもない女の子『ちゃん』づけで呼んだりしない」
「じゃあ、彼女はちゃんづけ?」
「……いや、そうじゃないけど」
と、既に敬語を忘れてる自分に気づき、和真は我に返った。
「ともかく、中条警部は中条警部で」
「え~、佐水先輩、妙に真面目な人ですねえ」
今日子の言葉に、仁が面白そうに口を挟んだ。
「そう、和真は堅い奴なんだよ。今日子ちゃんがいいって言ってるんだから、それでいいじゃねえか」
「そうそう」
(もう適応してんのかよ)
すっかり今日子のペースに馴染んでる仁と芝浦に、和真は無言で呆れた。
「あ、じゃあわたしは和真先輩って呼ぶんで、せめて中条って呼んでください。敬語は抜きで」
「今日子ちゃんに従った方がいいですよ、和真先輩」
調子に乗った芝浦を、和真は一睨みした。
「お前、もう一回そう呼んだら殺す」
芝浦が首をすくめて後ろを向く。
「……それじゃ中条、出るぞ」
「はい!」
嬉しそうに返事をする今日子を見て、和真は苦笑いした。
「何処へ行くんだ?」
「ちょっと交番周りに」
仁にそう答えると、和真は今日子を連れて王日署を出た。
「――王日署管轄の交番は十二か所ある。それを挨拶回りしてるうちに、多分、何か連絡が入るだろう」
和真は車を運転しながら、助手席の今日子に話をしていた。
「あ、一つは行きました。今朝、ひったくり犯を捕まえてどうしようか迷った挙句、交番に行ったんです。そうしたら婦警さんが、パトカーで署まで送ってくれたんです」
「駅から最寄りの中央交番ね」
和真は車を向ける。中央交番に着くと、二人は車を降りた。
「あ、今朝はどうも、ありがとうございましたあ」
今日子は出てきた婦警に向かってペコリと頭を下げる。まだ若く化粧っけはないが整った顔立ちの婦警は、にっこりと今日子に笑ってみせた。
「いえいえ、お力になれて光栄です」
「…やっぱり、お前が連れてきたのかよ」
うんざりしたような和真の声に、婦警は途端に笑顔を崩して睨みつけた。
「佐水、やっぱり、あんただったのね、謎のライダーは」
「うるせえんだよ。――っていうか、犯人はともかく、キャリアまで一緒に乗せてくるか?」
途中から身体を近づけて囁いた和真に、婦警も囁き返した。
「しょうがないでしょ、自分も一緒に行くって言ってきかなかったんだから。それより、なんで自分で逮捕しなかったのよ」
「いや、新しく赴任した婦警かと思って。まあ任せるかと」
「おおかた、報告書書くのが面倒だと思ったんでしょ」
覗き込むような婦警の眼に、和真は視線を逸らして今日子に向き直った。
「あ、こいつは同期の泉雪乃巡査部長」
「雪乃先輩ですね、よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げた今日子を見ると、雪乃は目を丸くして和真に囁いた。
「……どうしたの?」
「いや、こういう人なんだ」
「あの~…もしかして、お二人は親しい間柄で?」
囁き合う二人に、今日子が不意の問いを投げかける。二人は驚いたように目を合わした後、今日子に力説し始めた。
「いやいやいや、そんなんじゃないから」
「そうそう、こいつはただの同期。そんな少女マンガみたいな奴じゃないし」
「そんな少女マンガ知らないけど。…っていうか、実態を知ったら少女マンガにならないわ」
「お前、もうちょっと自分の職場に誇りをもてよ」
「毎日のように変態の事件を直視してる立場に、どう幻想をもてと? 大体が、あんたみたいな、『手柄より犯罪撲滅』的な武道バカじゃないし」
腕を組んで睨みつける雪乃に、和真は肩をすくめて応えた。
と、その時、車の無線発信が聞こえた。
「本部より連絡、王日川河川傍のマンション敷地内で遺体発見。一号車はただちに急行せよ」
「一号車了解――中条、行くぞ」
和真が無線を受信して答える。促された今日子は、雪乃に一礼した。
「それじゃ、雪乃先輩、また」
「あ、はい。…それじゃあ頑張って…」
なんとなく呆然とする雪乃に見送られて、二人は交番を後にした。