柔術道場
佑一は矢崎に連れられ、王日市内にあるビルの一角に来ていた。そのビルの二階、『M‘s Factory』と看板のある部屋へ入っていく。
事前に矢崎は、「僕は『矢嶋とおる』で通してるから、呼び間違えないようにね」と佑一に言っていた。まだそれほど面識が深くないので、その意識を修正するのはそれほど問題はないだろうと佑一は思った。
着いた先はビニール製のような青いシートが床一面に張られ、柔道着っぽいものを着た男が何人か座っている場所だった。既に床で、組み合っている者たちもいる。柔道着っぽい、というのは、普通の柔道着と違い、その道着には色んな模様が入ってるものが多かったためである。
「ここは……」
「柔術の道場だよ。――あ、誠さん、こんちわっす」
矢崎は壁際で数人に技の指導をしていた男のもとへ近づいた。技の指導と言っても、皆、床に座っている。教えているのは、寝技であった。
「あ、矢嶋さん、お疲れ。そちらは?」
「ちょっと知り合いで見学したいっていうんで、連れてきました。隅の方借りていいっすか?」
「どうぞ、どうぞ、ご自由に」
誠さん、と呼ばれた男は、屈託のない笑みを浮かべた。その耳がギョウザのように膨らんでいる。優し気な顔立ちだが、首は太く、道着を通してもその体格が屈強なのは見てとれた。
「じゃあ、こっち来て」
矢崎は佑一を連れて、裏の更衣室で道着に着替えさせた。
「寝技やったことある?」
「いや、あまり――」
佑一は戦闘訓練のインストラクターの指導は受けたが、立っている者を倒して征圧するところまでが主で、倒れた者をさらに攻めるような段階の事はそれほど習っていなかった。
柔術、というと現在では二種類に使われることが多い。一つは柔道の元にもなった、日本に室町末期以降くらいから存在した柔術の流派である。明治に入り嘉納治五郎が各柔術流派を研究したが、このうちの起倒流と天神真楊流の技を元に柔道を創り出したと言われている。その新しい『柔道』に比して、以前のものが『柔術』であった。
この嘉納治五郎が作った講道館の弟子たちは、世界中に散らばって柔道を広める活動を始めた。その中の一人、前田光世はブラジルに渡り、その弟子となったエリオ・グレーシーがグレーシー柔術という流派を創り出す。寝技が主体で、このグレーシー柔術を含めた寝技中心の技術体系を『ブラジリアン柔術』と呼ぶが、海外でも『jiu_jitsu』として広く競技者がいる。『柔術』と言った時にはこちらを指し、それに対して柔道以前の流派を『古流柔術』と呼ぶことが現在では多い。
「矢嶋さん、こんちわ――って、あ…」
不意に矢崎に声をかけてきた若者が、傍にいる佑一の顔を見て目を丸くした。佑一は察した。
(自衛隊の訓練所で、オレを見たんだな)
「ああ、土本くん。紹介するよ、こちらは知人の国枝くん。見学したいって言うから連れてきたんだ」
「どうも、国枝です」
「あ、土本です。よろしく」
髪が短く、身体ががっちりとしていかにも鍛え上げてる体格をしている青年は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「土本くん、ちょっと、相手になってもらっていいかな」
「ああ、いいですよ」
土本はそう言うと、床に寝そべった。その腹の上に、矢崎が乗り上がる。
「これがマウントポジション。まあ、馬乗りだね。上からは攻撃のし放題なんで、これが一番なっちゃいけないポジションだね。土本くん、ちょっと暴れてみて」
「ほい」
土本は返事をすると、身体を急に跳ね上げて暴れ出した。どころか、手も使い、矢崎の身体を上から降ろそうとしている。しかし矢崎は、中々それをさせなかった。
「OK。こういう感じで、上はポジションキープするのが大事。自分の優位を崩さない。じゃあ、今度はサイドポジション」
今度は仰向けになった土本に、90度の角度で胸と胸を合わせるように上に乗る。
「この時、胸の中心を胸の中心で抑える。柔道でいう横四方だね。ここからは関節技を極めやすい。まずはストレート・アーム・バー」
そう言うと、矢崎は土本の腕を伸ばし、下側の一方の手で手首を掴むと、上側の手は肘の下をくぐらせ、自分の前腕を握った。
「手首を支点にして、肘関節を極める。相手が腕を曲げて逃れようとしたら――」
下向きに曲げた土本の腕を、そのまま背中側に押し込むように肩関節を極めた。
「チキンウィング・アームロック。もし上に曲げたら――」
再びストレートに戻したところで、今度は土本が上に肘を曲げる。と、手首を持つ手を上側の手に替え、下からもう一方の手をくぐらせて、自分の手首を掴む。そのまま跳ね上げ式に、相手の肘を極めるように身体ごと傾けて相手の腕を持ち上げた。
「Vワンアームロック。Vに棒が入ってるみたいだよね」
「そうですね」
「じゃあ、ちょっとやってみて」
促されて、佑一は腕関節の極め技を土本にやってみた。関節を極める要点は判っているので、すぐに順応できた。
「上手いじゃない。ちなみに柔道では全部『腕がらみ』っていう技になる。大雑把だね。細かく分類する辺りが西洋風か」
そういって矢崎は、微かに笑った。
それからひとしきり、佑一は寝技の練習をした。ある程度、ポジション取りや技を覚えたら、土本や矢崎とスパーリングをする。寝技のスパーでは、上と下のポジションを選んで、ガードポジションから始めた。ガードポジションとは、寝てる側が足の間に相手をキープした状態であり、寝てる側の方が下、である。
寝てる側が不利な条件の筈だが、佑一が上から始めると、あっという間に矢崎に捕まって関節を極められたり、バックを取られて首を絞められたりした。土本とのスパーでも同様であり、佑一はあっという間に極められる。
寝技というのは、立って行う技より、はるかに消耗が激しい。動きが制限される上、全身の筋肉をくまなく使うためである。佑一はくたくたになって、矢崎と土本のスパーを見ていた。二人はかなりの使い手だったが、僅かに矢崎の方が上らしかった。
練習が終わる頃には、佑一は歩くのも嫌になるほど疲労していた。しかし二人はなんでもないように、着替えて表へ出る。外はすっかり夜の街であった。
(体力の化け物か)
佑一の内心の想いに頓着する様子もなく、矢崎が口を開いた。
「それじゃあ、行こうか」
「え、何処へですか?」
矢崎に訊ねた佑一に、土本が代わりに答える。
「飲みにですよ、国枝さん。この練習の後のビールが美味いんすよね!」
嬉しそうに微笑む土本に、矢崎も笑いを浮かべた。
*
雨の中を、傘もささず走り抜ける青葉を見たのは、秋になろうとする寒い日の事だった。
「おい、青葉!」
傘をさして歩いていた和真は、驚いて声をかけた。
青葉が一瞬、立ち止まり和真を見る。その眼が赤くなっていた。と、思った瞬間、青葉はまた逃げるようにまた走り出した。
「お――おい、待てよ!」
和真は追いかけた。青葉はまだ走る。
「おい……待てってば!」
和真は青葉の手首を掴むと、その足を引き留めた。傘をさしかける。
「どうしたんだ? 濡れるだろ」
和真がさしかけた傘の中で、青葉が振り返る。濡れた前髪から、水が滴り落ちていく。その中で青葉の瞳は、赤く泣きはらしていた。
「……どうしたんだよ」
ふっ、と緊張の糸が切れたように、青葉の顔が崩れた。声を殺して泣き出した青葉は、和真の胸に顔を埋めた。
和真は驚いたが、空いている手で青葉の肩に触れた。
しばらく泣いた後、和真は青葉を自分の家へ連れてきた。
タオルを渡して、部屋の暖房を入れる。
「風邪ひくぞ、よく拭いとけよ」
「……うん」
青葉は言われたように髪を拭き始めた。
「なんか、あったかいもの持ってくるよ」
和真はそう言うと、ココアを二人分つくって部屋に戻った。
「ほら」
ココアを乗せた盆をテーブルの上に置くと、自分の分を手にして和真は口をつけた。青葉もそれを手に取り、口にする。
「…美味しいね」
「ココアは結構、腹のタシになるからさ、勉強してる時の夜中に飲んだりするんだ」
「和真も勉強するんだ?」
湯気の向うで、青葉が驚いたように目を丸くする。
「俺だって、ちょっとくらい勉強するよ。お前、俺を何だと思ってるんだ?」
「剣道バカ」
上目使いに、青葉が言う。和真は苦笑した。
「おい、って。…まあ、間違っちゃいないがな」
その言葉を聞いて、青葉が少し微笑んだ。
二人はしばらく、湯気をくゆらせるココアを飲んでいた。何も言わずココアを飲む青葉を前に、和真も黙ってココアを飲む。その、まどろんだような時の流れのなかで不意に、青葉の唇から言葉が洩れる。
「……和真は優しいね」
和真はただ黙って、青葉を見た。
「佑一と、さよならしたんだ」
青葉はうつむいて、そう言った。
「そうか」
和真は、それだけ返した。二人があまり上手くいってない様子は、薄々察していた。
吹っ切るように、青葉が笑いを浮かべる。
「あ~あ、馬鹿だな、あたし。…和真のこと、好きになればよかった」
「バカ。そう――思い通りにいくもんじゃないだろ」
少し感じた胸の痛みを隠しながら、和真はそう返した。青葉が我に返ったように、寂しい表情になる。
「そっか……そうだよね」
寂しげな顔のまま、青葉は微笑んだ。