安積の死
佑一は安積の遺体の搬送先である、都内の病院へと駆けつけた。霊安室には、ものを言わなくなった安積の身体が横たわっていた。
「そんな……」
堅くなった安積の顔を前に、佑一は拳を握りしめた。そこの所轄の刑事である峰岸という老刑事が、立ち合いに来ていた。
「なんでも、公安なんですて? 大変でしたな」
峰岸のねぎらいの言葉も、佑一の耳にはほとんど届いてなかった。
「心臓を一突きですわ」
それを聞いた佑一は、白いシーツをめくってみた。上半身裸の安積の胸に、大きな傷がある。
「相当、大きな刃物だろうと思いますわ。しかも防御創もない。不意打ちでないなら、よほどの手練れですな」
その言葉を聞いた佑一の脳裏に、よぎるものがあった。
(奴か)
さっきまで交戦していた男の、大きなナイフが脳裏にあった。
「死体が発見されたのは?」
「昼頃ですな。午前中には殺されてたっちゅう事になりますかな」
佑一は歯ぎしりをした。
(奴は一仕事終えた後だったんだ。連続でオレたちを片づけに来た。オレがさっき、奴を捕らえる事ができてれば…)
「こんな事になるとはお気の毒やが、どんな任務でしたんか?」
「……言えません」
佑一は、それだけを言った。峰岸は、ふぅと鼻息をついた。
「まあ、公安ちゅうのは、そういうとこですわな。せめて警察手帳くらい持っとれば、もっと早く身元が判ったんですがな」
峰岸が多少非難するように言う。佑一はじろりと睨んだ。
「あ、いや、すんませんな。悪気はないですわ。じゃあ、後の事は頼みます」
峰岸はそれだけ言うと、そそくさと出ていった。
一人になると、佑一の眼から涙が零れた。
病院を出ると、佑一は賀川に連絡をとった。
「国枝さん、どうかしましたか?」
「…知らないのか。安積さんが殺された」
「なんですって!」
賀川の驚愕した声が、電話から響いた。佑一は怒りを押し殺しながら、賀川に訊いた。
「安積さんは、お前に会った後に何かの捜査をしたはずだ。安積さんに、何か訊かれたんじゃないのか?」
「安積さんは、保守系議員の動向をおれに訊いてきたんですよ」
「それで、どんな話をしたんだ?」
「元警察官僚だった宮下西邦が、今は防衛大臣をやってるみたいな話しですよ」
「宮下西邦?」
「ええ。今や江波首相の右腕と言われてますがね」
佑一は目を細めた。
「なあ、国枝さん。安積さんが殺されたなんて、本当なんですか?」
「賀川さん、あんたは、しばらく身を隠した方がいい」
「そんな! ここまで来てそんな事……」
そう言いかけて、賀川は少し黙った。
「…判りましたよ。けど、国枝さん、あんたの方がはるかに危険な立場だ。あんたも身を引いた方がいい」
「判ったよ」
佑一はそれだけ言うと、電話を切った。
佑一は桜木課長に呼ばれ、本庁へと戻ってきていた。
「――西村孝義の事件から、手を引けと?」
佑一は眉根を寄せながら、桜木課長を凝視した。桜木課長は顔色を変えることもなく、口を開いた。
「そうだ」
「どうしてですか? 安積さんまで殺されたというのに、ここで手を引ける訳がない!」
佑一は感情を露わにして怒鳴った。
「安積の事件は、西村殺害とは関係ない。これは上からの決定だ」
黙る桜木の代わりに、高坂が叱責するように佑一に言った。
「関係がない? そんな訳がない! どうしてですか? まだ、何一つ判っていない! 西村殺しの犯人も、安積さん殺しの犯人も放置したままですか!」
「殺人事件の捜査は所轄がやる。事件の捜査は本来、公安の仕事じゃない。それに西村殺しは中国マフィアのプロの犯行だ。痕跡も残さない連中の犯行では、立証のしようもないだろう」
高坂班長はそう声を上げた。
「まだ、その連中が犯人と決まったわけではありません」
「西村孝義はマフィアに機密を小出しにして売っていたが、いよいよ売る情報がなくなり、逆に相手から脅しをかけられていた。それでお前に接触し保護を求めたが、それが露見して始末された。上では、そう判断している。それで十分だ」
高坂班長の言葉に続いて、桜木が口を開いた。
「国枝、お前はしばらく、命があるまで待機しろ。くれぐれも――勝手な行動をとるなよ」
佑一は歯噛みした。それをなだめるように、高坂が柔らかい声音を出す。
「そうだ、国枝。しばらく休暇をとってなかったろう。いい機会だから、少し有給をとるといい。最近はコンプライアンスも、うるさいんでな」
「……判りました」
佑一はそれだけ言うと、感情を押し殺したまま公安課長の部屋を後にした。歩きながら、佑一は目まぐるしく思考を働かせていた。
(陸自と接触した途端、上から圧がかかる――明らかにこの事件はおかしい。何か重大な秘密が隠されている)
佑一が考えごとをしていると、不意にスマホがバイブした。見ると『父』とある。
(父さん?)
佑一は訝しみながらも電話に出た。
「はい、佑一です」
「佑一か。少し、私のところに来れないか」
「…判りました」
佑一の父、国枝光祐は警察庁長官官房の首席監察官である。監察官、というのは『警察の警察』という呼び名もあるように、警察の不祥事や横領を調査管理する機関である。佑一は官房に出向いた。
「入れ」
部屋の中から父の声がして、佑一は光祐と対面した。
「少し、痩せたようだな。公安の仕事はどうだ?」
「行き詰っています」
佑一は父を睨みながら言った。椅子に腰かけたままの光祐は、じろりと佑一を見ると、口を開いた。
「まあ、現場では色々ある。そして上に立たなければ判らない事がある。それはお前も判っただろう。――佑一、今からでもI種をとれ。そうすれば、お前の人生の軌道を上向きにできる」
「僕にキャリアになれと?」
「そうだ」
佑一は、父を睨んだ。
「まさか…それを判らせるために、僕を公安に入れたんですか?」
光祐は答えない。代わりに光祐は、別の話を始めた。
「この国で生きる人々――皆、それぞれに暮らしがある。その暮らしの中には事故があり、小さな犯罪があり、大きな事件がある。それら全てを視野に入れるのが警察という組織だ。言わば我々は国民の生活を預かっている。我々の預かる小さな幸せは、無数に集まった脆い容器でできている、巨大な舟のようなものだ。行く先を間違えたり、外から衝撃があったりすれば、それは簡単に壊れてしまう。しかしその船全体を観たり、行く先を間違えずに舵を切るためには、大きな視野を持つ者がその運転、管理をしなければならないのだ。小さなヒビを修理する者、これも必要だ。だが、一方で大きな行き先を見つめる事ができる者は、そう多くはない。佑一、より大きな視野に立とうとは思わないか?」
佑一は黙って話しを聞いていたが、不意に鼻で笑った。
「なんだ?」
「一体、どれだけの人間が、その思い上がったエリート意識で、国を悪い方向に歪めてきたのかと思いましてね」
「なんだと!」
「しかもそのエリート意識は、結局のところ、何処かで自分の利権・利益と結びついている。おためごかしはやめて下さいよ。自分の息子をエリート二世にしたい、親の独善を通したいだけだ。利権の世襲みたいなもんですよ。そういう階層社会化が日本をより希望の無い、閉鎖型の社会にしている。けど、貴方がたは自分たちの保守勢力に対抗的な言説を、全て悪だと決めつけるわけでしょう? けどね、悪ってのは、権力をかさに着て圧力をかける側なんですよ」
「貴様、せっかく私が目をかけてやったのに――」
憤る光祐に、却って佑一は激怒して怒鳴りつけた。
「何が目をかけて『やった』だ! その恩着せがましい支配欲それ自体が、悪そのものだ! 『国のため』だとか倫理の皮を被って、エゴを押し付けるのはやめて下さい。――話はそれだけですか? なければ失礼します」
「待て、佑一!」
立ち去ろうとする佑一を、光佑が呼び止める。佑一はドアの前で、振り返った。
「僕に人の道を教えたのは貴方じゃない。択真先生です」
佑一はそれだけ言うと、ドアを閉めて退室した。
外へ出てタクシーに乗り込むと、佑一は深い息をついた。
(やってしまったな……)
だが言ったことにも、自分の行動にも後悔はなかった。ただ、深い失望にも似た気持ちが佑一の胸の底にあった。
(あの人は何も変わらない――変わるわけがないんだ)
佑一はタクシーの運転手に、行く先を告げた