千輪菊が散る、その時まで
縁側には誰も泳いでいない金魚鉢と墨色の猫と灰色の蔦を生やした先生が座っている。
私はそこから三歩下がったところから、彼らの後ろ姿と瓦屋根で半分埋まった空を寝そべって見つめていた。
「アカネさん、こちらに座ってみたらいかがです。そこでは全体が見えないでしょうに」
「結構です。私は毎年こうやって寝そべりながら中継を見ていましたから」
「今年は私が誘いましたから、寝そべって鑑賞する理由はないでしょう。ほらこちらへおいでなさい」
先生のナナフシの指先が私を手招きする。鷲鼻の乗った二つの満月レンズが反射して、彼の綺麗な翡翠の瞳を隠した。
「だから結構です。それにここからでもよく見えます」
「そこから見るのと、私の隣で見るのでは見え方も記憶の残り方も違うでしょう」
ねぇごまぞう。
猫の顎下を撫でながら、先生は責任の持てない言葉を私に与えた。
遠くの空で花が散っていく音が響き渡る。私は綺麗に咲いて儚く消えていく、鮮やかな火のようにはならないと決めていた。
「なかなか懐いてくれないですね、アカネさんは」
「女性に“懐く”とかいう男性はモテませんよ、先生」
「これは失敬。恋愛からは随分と遠のいていましたから」
つい最近まで痕のついていた薬指の存在を、私はよく知っている。
私が寝そべる畳の足先にある、埃が微かに乗った仏壇。
そこには綺麗な女性の写真が立てかけられていた。
空へ花が咲く度、点滅するように先生の奥さんと私の罪悪感が交互に顔を出し合っていく。
「貴方は死んだ妻に似ています」
初恋の人は今何を。
思い立って訪れた古い民家。
学生だった頃、仲睦まじい夫婦の姿を見た同じ夏の日に、私は届きそうで届かない人の傍にいる。
誰にも許してもらえなくてもいい。罰当たりだと指差されてもいい。
ただ最後の花が夜空を彩るまでは、この人と同じ美しい世界を見ていたい。
「あぁ……これは素晴らしい千輪菊だ」
先生の隣に座れる女はたった一人だけだと知っているから。