第68話 失恋
温暖な空気が流れる歩道の上で、獣人の少年、ムーン・ディライトは目を大きく見開いた。突然、右隣にいたハーデス族の少女がうつ伏せに倒れたのだ。
「おっ、おい、アストラル!」
慌てた様子で仲間の体を揺さぶっても、アストラルは目を覚まさない。
「クソ。何がどうなってんだ? おい、お前、アストラルの母ちゃんだろ? 娘が倒れてるのに、どうしてこんなことができるんだよ!」
顔を上げ、まだ近くにいるはずの女性に声をかける。だが、そこにはアストラルがお母さんと呼んだ女性の姿はなかった。人混みに隠れ、完全に姿を見失ったムーンは、涙で顔を濡らした少女を抱き抱えた。
(私はバカですね。ここでは、あの人のことをお母さんと呼べないのに……)
ムーン・ディライトの胸の中で、アストラル・ガスティールは昔のことを思い出した。
今から八年ほど前のことだ。鉱山の谷間にある町、ハーデスパーク。黒霧が漂う石畳の上を、ふたりが横並びで歩いていた。側頭部に半円を描くよう折れ曲がったツノを持つ茶髪の彼は、同じ特徴を持つ少女の隣で両手を合わせた。
「アストラル、お願いだ。今度の週末、早く走れる方法を教えてくれ!」
少年の頼みを耳にしたアストラルは、頬を赤らめながら静かに瞳を閉じる。
「週明けの実技試験の練習ですか? そういうことなら、断われませんね」
「アストラル、ありがとう」
瞳を開けると、彼のとびっきりの笑顔が飛び込んでくる。それを見る度に、アストラル・ガスティールの心臓はドクンと大きく脈打つのだ。頬も熱くなる不思議な感覚。
それは恋というモノなのだろう。まだ十歳のアストラル・ガスティールは理解しようとしていた。
その日の夜、アストラル・ガスティールは複雑な感情を抱えたまま、自宅のリビングで大柄な体型の父親と向き合っていた。アストラルと同じく側頭部に半円を描くよう折れ曲がったツノを持つ父親は、娘の前で首を傾げる。
「アストラル、どうしたんだ? 持久走の大会で優勝したのに、嬉しくないのか?」
「私の頑張ってる姿、お母さんに見せたかったんですよ。確かに自己ベスト更新で優勝できたのは嬉しいけれど、この喜びをお母さんと分かち合いたかったんです。はぁ、せめてお手紙でこの気持ちを伝えたいです」
素直に本音を漏らす娘に対し、父親は静かに首を横に振った。
「そうだな。でも、お母さんは仕事なんだ。仕事の邪魔をしたら悪いだろう。だから、我慢しなさい。あと一ヶ月もしたら、休暇で帰ってくるんだから」
優しい父親の言葉を耳にしたアストラルは落ち着きを取り戻す。
「はい。そうですね。お母さんが帰ってきたら、会えなかった時のこと、いっぱい話します!」
元気よく首を縦に動かしたアストラルが力強く語る。そんな娘の頭を父親は優しく撫でた。
「それでいい。アストラル。それでいいんだよ」
その日からアストラル・ガスティールは指折り数えて母親が帰ってくるのを待ち焦がれた。そして、ついにその時が訪れる。
巨大な満月が夜空に浮かぶ頃、父親が女性を連れて、自宅へと帰ってきたのだ。玄関の前で到着を待っていたアストラルは笑みをこぼした。父親の隣にいるのは、自分たちとは違いツノを持たない人間の女性。アズレイン・ガスティール。アストラルの母親、アズレイン•ガスティールだった。
「お母さん。お帰りなさい。お仕事お疲れ様」
無邪気に笑うアストラルが母親の体を優しく抱きしめた。
「あら、もう十歳になったのに、そんなに甘えるんですね」
顔を上げると優しく微笑む母親の顔が飛び込んでくる。それだけでアストラルは嬉しくなった。
「だって、今まで会えなかったんですよ。話したいことがいっぱいあるんです」
「そう。その話、あとでゆっくり聞くからね」とアズレインは娘の頭を優しく撫でた。
「はい。いつもと同じ四ヶ月間の長期休暇ですよね?」と尋ねるとアズレインは小さく頷いた。
「良かった。この八ヶ月の間に起きたこと、いつものように教えます」
アストラルはアズレインへ笑顔を向けた。その後、彼女は母親の前で笑えなくなった。
夜が更けようとした頃、なかなか寝付くことができなかったアストラルは、気分を紛らわせようとリビングへと足を運んだ。あの場所にある飲み物を飲めば、眠たくなると信じて。
そうして、扉を開けようとすると、中から母親の悲痛な叫びが聞こえてきて、思わず手を止めた。
「もう耐えられないんです。私を解放してください!」
「アズレイン、落ち着いてくれ。もう後戻りできないんだ。私と離婚したところで、何も変わらない。キミは元の人間へは戻れないんだ。これはキミのためでもあるんだ。分かってくれ」
諭すような夫の言葉は、妻には届かなかったようで、すぐに怒りが爆発する。
「それでも私は自由になりたいんです。お願いします。罪悪感で心が壊れそうなんです」と妻は頭を下げるが、夫は聞く耳を持たない。
「ふっ、罪悪感か。そんなもの感じる必要はないさ。この四ヶ月間は私と娘の愛情を受け入れていればいい。そんなものより、孤独感の方が重要だ。私たちの家族から離れようとすれば、キミは強い孤独感に襲われる。誰もキミのような不倫女を愛してくれないんだ」
「そんなことありません。主人はこんな私のことを……」
妻の反論を遮るように、扉が勢いよく開く。そこから、顔色を変えた娘が姿を現した。
「お母さん、不倫ってどういうこと?」
乱入してきた娘に対し、「違う……」と否定しようとするが、上手く言葉が見つからない。そんな妻の姿をジッと見つめていた夫は、深く息を吐き出すと、静かに口を開いた。
「そうだな。そろそろ話すべきか。アストラル。座りなさい」
「ちょっと、やめて。アストラルは、まだ十歳よ」とアストラルの母、アズレインは訴える。だが、聞く耳を持たないアストラルの父は、真剣な表情で、母親の隣の席に座った娘に語り掛けた。
「今から十年ほど前のことだ。私はある街で暮らしていた女性を誘拐した。その女性は……」
父親が指で示したのは、アストラルの隣に座る女性、アズレインだ。衝撃的な告白を聞いたアストラルは、表情を強張らせた。
「ウソ……お父さんが誘拐犯だったなんて……」
「落ち着いて聞いてほしい。これは我々ハーデス族にとっては、ありふれた話なんだ。ハーデス族は、街の外で暮らしている異性を誘拐し、婚約者にするんだ。この町でしか採れない果実を使った料理を食べさせた後、神殿の魔王様の元へ連れて行くだけでいい。既婚者だろうが未婚者だろうが関係ない。そこで儀式を行えば、結婚できるんだ!」
「そんな……ことが許されるわけ……」
絶望したアストラルの言葉を父親が遮る。
「この世界の神は、ハーデス族の略奪婚を許可している。だから罪に問われることはない」
「どういうこと?」
「我々、神創種ハーデス族は厄災が起き世界が滅んだとしても生き残ることができる。だが、人間たちはそうはいかない。慈悲深き神は、下等な人間を守るため、十四番目の種族、プリセポネ族を守るべき種族に加えた。ハーデス族の婚約者になれた人間は、プリセポネ族になれる」
「意味がわからないです。わざわざそんなことをしなくても、神様は人間を守るべき種族に加えれば良いのでは?」疑問を口にしたアストラルの前で、父親は首を横に振る。
「それをすれば、人間を特別扱いしていることになる。だから、できない。アストラルだって大人になれば、人間と結婚するんだ。それ以外の種族との結婚は認められない。もしも掟を破るようなことが起きれば、神殿の魔人に魂を喰われてしまう。そうなれば、永遠の闇の中をひとりで彷徨う羽目になるんだ」
「そんな……」と体を小刻みに震わせ、恐怖を顔に刻み込んだアストラルに、父親は追い打ちをかけた。
「アストラル。風の噂で聞いたが、同じ種族の少年と仲がいいらしいな。別に今すぐ別れろとは言わないが、今の内に恋愛ごっこを楽しんでおけ。その経験が将来の役に立つはずだ!」
「うっ、うん」
必死な父親の声を娘のアストラルは受け入れてしまった。それと同時に、彼女が抱えていた恋心が音を立てながら崩れてしまった。頭に浮かんだ彼の笑顔も暗い闇に塗りつぶされてしまう。
(彼のことを好きになったらいけなかったんだ)
あっさりと真実を受け入れた少女の心は闇に囚われた。
母親は、四ヶ月の長期休暇で自分の元へ戻ってきていると信じていた。
このまま同じ種族の彼の恋人になれると信じていた。
今まで信じていたことは、全て幻想だったのだ。




