第66話 変化
翌朝の朝食の席で、ムーン・ディライトは目を輝かせた。
「マジかよ。ホントに今日は瞬間移動で俺を職場まで送ってくれるのかよ!」
興奮して席から立ち上がった獣人の少年の姿を正面から見ていたフブキは、コーヒーカップに注がれた甘苦い液体を飲み込んだ。
「はい。今日だけ特別です」
「フブキ、お前、優しいんだな。すごく嬉しいぞ!」
クマの耳を頭頂部に生やした獣人の少年の笑顔からヘルメス族の少女が目を反らす。
「……全く、この程度のことで喜ぶなんて、その頭には何が詰まっているんですか?」
「フブキ、ありがとな。じゃあ、着替えてくる!」
元気よく食堂から出て行くギルドマスターの少年に後ろ姿を見送ったフブキの隣に、洗い物を済ませたホレイシアが並ぶ。
「これで通勤中の襲撃を防ぐんだね」
「はい。マスターを安全な職場へ送り込んでから、作戦開始です」とフブキは自信に満ちた表情で顔を前に向けた。
「うん。その間に準備するよ」
頷いたホレイシアは、黄緑色のローブのフードを目深に被りなおし、台所の奥へ向かった。
その日、シュラム・スクリュートンはサンヒートジェルマンにいた。白いローブのフードを目深に被り、周囲を警戒しながら、温暖な気候の街を歩く。この街のどこかに、フブキ・リベアートを弱くした人物、ムーン・ディライトがいる。その男は、クマのような見た目の獣人らしい。
ユーノが教えた刀鍛冶工房まであと少し。人混みに紛れながら、一歩ずつ着実に進んでいく。
「ムーン・ディライト!」
恨みを込めその名を呼ぶシュラムの目は怒りに満ちていた。ユーノ・フレドールの渡したメモを握りしめ、速足で先を急ぐと、白煙昇る建物に辿り着く。ここで待ち構えていれば、いつか標的が現れる。周囲を警戒しながら、右手の薬指を立てた次の瞬間、シュラムの視界の端にひとりの少女の影が浮かび上がった。
「……フブキ」
気配を感じさせることなく姿を現した最愛の少女の登場に、シュラムは息を呑む。
「ヘルメス村へ帰りなさい」
「イヤだ。フブキが弱くなったのは、ムーン・ディライトの所為なんだ。アイツに洗脳されるなんて、フブキらしくない!」
「洗脳……ですか? 残念ながら、それは見当違いです。私は私の意思でここにいます」
「そんなわけないだろ。あんなヤツを守ろうとするなんて、絶対おかしい!」
同じヘルメス族の少年がフブキに怒りをぶつける。その直後、フブキは両腕を広げた状態で一歩を踏み出した。
「何のマネだ?」
予想外な行動に困惑を浮かべるシュラムの元へフブキが歩み寄る。
「この通り、私には戦う意思がありません。しかし……」
そう告げた瞬間、シュラムの視界からフブキが姿を消した。冷たい空気が流れると同時に、少年の右肩に少女の右手が触れる。
「私はマスターを守らなければなりません」とヘルメス族の少女が耳元で囁く。そして、ふたりは刀鍛冶工房の前から姿を消した。
「はっ」とシュラム・スクリュートンは息を呑む。気が付くと、そこはどこかの応接室のような空間。木製の机を挟み、座椅子が並ぶ。
「ようこそ。セレーネ・ステップへ」
ヘルメス族の少年が視線を前に向けると、そこにはフブキ・リベアートの姿があった。白いローブで身を包む彼女は、シュラムの目の前の席に腰を落とす。
「ちゃんと説明しろ。俺をどこに飛ばした?」
シュラムがイラつきながら、頭を掻く。そんな元同居人の前で、フブキは溜息を吐き出す。
「ここは私が所属するギルド、セレーネ・ステップのギルドハウス。その応接室です。先ほども言いましたが、私には戦う意思がありません。ここであなたの話を伺います」
フブキが趣旨を明かすと、唯一の扉が叩かれ、黄緑色のローブのフードを目深に被った少女が顔を出す。
「初めまして。あなたがフブキの元同居人のシュラムだよね? 私はホレイシア・ダイソン。フブキのギルド仲間だよ」
応接室へ入ったホレイシアはお盆を両手で抱えており、その上にはキレイなティーカップやティーポットが置かれていた。
「シュラム。美味しいお茶でも飲みながら、フブキと話をしよう」とホレイシアはお盆を机の上に置き、ティーカップをソーサーに乗せ、シュラムに差し出した。続けて、フブキにも同じモノを渡す。そのカップの中にある薄緑色の液体を見て、シュラムは怪訝そうな顔を浮かべた。
「あれ? もしかして、苦手だった? グリーンティー。薬草から成分を抽出させて、作ってみたんだけど」
ホレイシアが申し訳なさそうな表情になる。その隣にいるフブキは元同居人の顔をジッと見つめてから、目を伏せた。
「はぁ。毒は入っていませんよ。簡易的な成分分析のやり方、お忘れですか?」
「いや、これはあの女が淹れたお茶だ。何が入ってるか分からん」警戒心を強めるシュラムが、素顔を明かさない少女を睨みつけるが、ホレイシアは一切怯まなかった。
「お茶を飲みながら、落ち着いて話したかったんだけど、まあいいや。早速だけど、話を聞かせて。シュラム。どうして、ムーンを殺そうと思ったの?」
純粋で優しい少女の声に耳を貸したシュラムが右の拳を握りしめ、席から立ち上がった。
「正確に言えば、標的はムーン・ディライトだけじゃねぇ。お前もだ!」とシュラムは黄緑色のローブを着た少女を指さす。それでもホレイシアは恐れることなく語りかけた。
「そうなんだ。改めて聞くけど、どうして、私たちを殺そうって思ったの?」
「冥途の土産に教えてやるよ。お前らの所為でフブキは弱くなったんだ。この前、配信系冒険者の生配信を観たら、フブキが配信系冒険者に情けをかけやがった。俺が知ってるフブキは冷酷で、相手が誰であろうと命を奪ってきたんだ。あんなに弱いフブキ・リベアートを俺は認めない! そして、お前らからフブキを解放したら、もう一度、フブキと一緒に暮らすんだ」
そんなシュラムの怒りに満ちた主張に対し、フブキは静かに立ち上がった。
「その程度のことで私が弱くなったという結論に至るなんて、あなたには失望しました。確かに、私はマスターたちと出会って変わりました。ギルド活動中に、強欲な人間と相対した時も私はトドメを刺しませんでした。どうしてそうしたのか、私自身も理解できません。しかし、私はこの変化を受け入れることにしました。これからは、無暗に相手を殺さない平和主義者を目指します」
「なるほどな。いつものフブキなら、チカラでねじ伏せていたはずだ。話し合いなんて柄じゃない。こいつらはフブキに悪い影響を与えたんだ。そうに違いない」
「全てあなたの憶測です」
シュラムの推測を切り捨てたフブキが冷たい視線を元同居人に向ける。その隣の席に座っていたホレイシアは慌てた様子で両手を振った。
「フブキ、落ち着いて。ケンカじゃなくで、話し合いで解決しようって決めたよね?」
「……そうでしたね。シュラム。あなたのイメージを裏切ってしまったことに関しては謝罪します。しかし、これがホントに私です。同僚が私のことを優しすぎると評していましたが、今ならその意味が理解できます」と淡々とした口調で語ったフブキ・リベアートの隣で、ホレイシア・ダイソンはフードの下で優しく微笑んだ。
「分かった。シュラムはフブキの変化を認めたくないだけじゃなくて、もう一度フブキと一緒に暮らしたいんだよね?」
「そっ、そんなことは……」
ホレイシアの追及にシュラムは口ごもった。同時に彼の頬は赤く染まる。その反応を見たホレイシアは確信した。
「そうだって顔に書いてある。ねぇ、フブキ。なんとかならない?」とホレイシアは隣のヘルメス族の少女に視線を向ける。
「そうですね。ヘルメス村とサンヒートジェルマンの二拠点生活ができないか、神主様と相談してみます。それができたら、今後、マスターたちの命を狙わないと約束できますか? シュラム・スクリュートン」
フブキがジッとシュラムの顔を見つめる。そんな彼女からシュラムは視線を反らした。
「……あっ、ああ。約束する」
その彼の言葉を耳にしたホレイシアがホっと胸を撫で下ろす。
「良かった。これで解決だね」
「はい。ホレイシア、ありがとうございました」
頭を下げ感謝の意を唱えるフブキを見たホレイシアがクスっと笑う。
「別にいいよ。ところで、アストラル、遅いね。何かあったのかな?」
「はい。アストラルにはシュラムの襲撃が陽動だった可能性も考慮して、警戒に当たらせています。相手は私の弟子のような存在です。陽動作戦を企んでいる可能性もありましたので」
「そうだったんだ」とホレイシアは目を点にした。
「陽動作戦か。ステラに頼んでみようと思ったが、やめた」
「どうして、ステラに……」
思いがけない名前が飛び出し、フブキは首を捻った。
「ああ、あの刀鍛冶工房に行く道中、ステラとすれ違ったんだ。ここで出会ったのは運命だと思ったが、巻き込むのをやめたよ。家族旅行中みたいだったからな」
「……あの子もサンヒートジェルマンに?」
「ちょっと、フブキ、教えてよ。ステラって誰?」
聞き慣れない名前を耳にしたホレイシアの問いかけに対して、フブキは優しく彼女の右肩を叩く。
「安心してください。ステラ・ミカエルは私の同僚ですが、敵ではありません」
フブキ・リベアートは神妙な面持ちで、ティーカップを持ち上げた。




