呪詛みたいなメロディー
今日、皮膚科へ行ってきた。昔からアトピーだったが、ここ最近、肌荒れが酷くて、みかねた母が「病院に行ってきなさい。」と、お金と保険証、診察券を持たせてくれた。患部は、主に手の甲。今はザラザラしていて、小さいかさぶたがたくさんある。だから、剥がさないでそのままにしておかないと、手が血まみれになってしまう。家に帰ったら、皮膚科でもらってきた薬を塗らなければ。
今は冬。乾燥している季節だから、肌も乾燥して、とてもかゆい。自転車をこぎながら、片手でハンドルを握っている方の手をさする。そのまま掻きむしってしまいたかったが、それではまた血が出て、やがてかさぶたになってしまう。そんなことを繰り返していたら、いつまで経っても傷は治らないだろうと、ここは我慢する。
家に着いたあとは、そのまま母と少し話して、風呂に向かった。寒い季節だが、今日は湯船に浸かる気分ではない。さっさと頭と体を洗うと、シャワーで流して、出てきてしまった。明日も学校だし、早く起きなければ。「朝礼の十五分前」には学校についていなくては。そう思うと、体にまとわりついた水分を、バスタオルで拭き取る。
パジャマになって風呂を出ると、すぐに処方された塗り薬の蓋を開けて、少しだけ指ですくう。そのあとちょんちょんと患部である手の甲に薬をつけると、手のひらで伸ばす。
だけど、量が足りないせいか、しっとりとはせずに、まだザラザラとした感触が残る。
薬を塗る時も、僕は臆病なのか。それが悔しくて、今度はたくさんつけようと、多くすくおうとするのだが、なぜか少ししか取ることができない。やはり、僕は臆病者なのだ。自分を無責任に責めることしかできなくて、僕のかさぶたから血が滲む。滲んだ赤紫の液体は、どろどろとして、押さえると皮膚の溝に入り込んで、独特の模様を作る。
薬を塗る作業を何回か繰り返すと、歯磨きをして、早い時間に寝てしまった。
朝八時十五分、僕の中学校の三年一組では、毎日の恒例となった「儀式」を行う。儀式は先生がやってくる五分前には終了する。クラスの学級委員である佐々木君が中心となってやる、レクリエーションみたいなものだ。
三年一組二十番である相田君を「おもちゃ」にして、みんなで楽しく遊ぶのだ。中学生だけかは僕にはわからないが「いじめ」は、本当に手軽に行われる。昨日は、トイレに顔を突っ込ませて反応を見た。一昨日は、相田君の通学カバンを奪って、校庭の真ん中に放った。やっていることも、僕が今これらの行為を「レクリエーション」だと思っているのも、みんなわかっているだろう。それでもクラスのほぼ全員が「これを止めたら次の標的は自分かもしれない。」と感じていた。だから、誰も「止めよう。」と言い出せはしなかった。
「おい相田、お前キモすぎ。早く死ねよ。」いつものように、佐々木君が相田君に暴言を吐くと、みんなによる「死ね」コールが始まる。それを満足げに聞いた佐々木君は「死ね」コールを、まるで自分の応援歌だ。とでも言いたげな顔になって、相田君の腹を思い切り蹴った。相田君が標的にされてから、もう一ヶ月が経つ。抵抗する気力もないのか、ぐふう。とだけ声を漏らして、彼は壁にもたれかかった。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!
「死ね」コールは、ゲームのBGMの様に教室内に響き続ける。相田君は、先生がやってくるであろう五分前まで、佐々木君のサンドバッグになった。みんなは、佐々木君がうまい蹴りを放ったら、おおお、とどよめき、相田君が倒れた時には「床が汚れるだろ!」と野次を飛ばした。
相田君の顔は、涙、鼻水、そして血でぐちゃぐちゃになっていた。
キーンコーンカーンコーン
朝のチャイムが鳴ると、みんなは席について、先生を待つ。相田君も自分の席に座ると、机に突っ伏して動かなくなってしまった。そして先生が教室に入ってくると、佐々木君が「起立、気をつけ、礼。」と、いかにも優等生のような大きな声で言って、みんなもそれに従った。
僕は臆病者だ。相田君を庇って、代わりに自分が傷つくなんて、とてもできない。僕は、薬であるハンドクリームも思い切り塗ることができない。僕には、人として必要な勇気がないのだ。
今日は火曜日、時間割通りに授業は進んでいく。この時間は、ぼうっとしていると、すぐに過ぎ去ってしまう。早いことで、もう今日は6時間目だ。今日最後の授業は、、美術。鉛筆で下書きをして、絵の具で絵を描く時間だった。相田君は、やっぱり一人で座っている。何か赤の絵の具を多く使って描いているようだった。
やがて授業が終わったが、作品が完成していない僕は、引き続き居残りで絵を描き続けることになった。教室には僕一人と思って見回すと、なんと、相田君も居残りで絵を描いていた。だけど、今彼と親しくしようものなら、いじめの矛先は、僕に向かってくるだろう。やはり僕には、度胸というものが圧倒的に足りていないと思った。すると、ある歌が耳を揺さぶった。なんだろう。心地良いような、眠たくなるような歌だった。
歌は、相田君のところから聞こえてくる。気になったが、僕は何も言わずに絵を描き終え、美術室から出ていった。
翌日、朝起きると、遅刻ギリギリの時間になっていた。僕は急いで準備をして、家を飛び出そうとした直前、手の甲がかゆいのを思い出して、ハンドクリームを手に持った。塗りながらいこうとおもったのだ。
乾燥してかさぶただらけの手に、ハンドクリームを塗りながら、学校へ向かった。教室に着くと、僕が最後に来た生徒のようだった。なぜかとても深刻な顔をした校長先生が教壇に立っている。その瞬間、僕は反射的に相田君の席を見た。いつも机に突っ伏している相田君が、今日はいない。
「今日は悲しいお知らせがあります。」校長先生は、僕が席につくのを確認してから、そう切り出した。
「3年1組の相田タカユキ君が、亡くなりました。」
命の大切さについて反省文を何枚かけ。とか、我が校にこんないじめがあるとは思わなかった。というような言葉たちが、耳から入って、耳から出ていった。僕は、なんということをしてしまったのだ。しかし、女子生徒が重苦しい空気の中、あっけらかんとした口調で
「私たちは関係ありません。いじめたのは、佐々木君です。」と口にした。僕は耳を疑った。しかし、女の子たちを始め、僕以外の全員の生徒達は、うんうん。と頷きはじめた。やがて否定する佐々木君を無視して、先生達が彼を何処かに連れて行く。
昨日の「死ね死ねコール」をはじめ、僕たちクラスの全員が、いじめに関わったはずだった。なのに、ここにいる全員は、今佐々木君がしてきたことについてベラベラと話し始めた。まるで、自分たちがしたことを忘れてしまっているように見えた。見ないようにしているだけなのかもしれない。僕は、手の甲のかさぶたを、ぼりぼりと剥がし始めた。
校長先生も、担任の先生も、クラスの人たちも、相田君が受けたいじめにばかり気を取られ、相田君自体を見ていない。僕は、今すぐこの場から離れてしまいたかったが、そのような勇気は、僕にはない。僕は、かさぶたを剥がし続ける。手の甲は、血まみれになっていた。耳には、相田君が美術室で歌っていた歌が流れる。頭を振っても、こびりついたように、流れ続ける。許されないことをした僕には、一生忘れられないものだった。
あの時相田君は、何を考えていたのだろうか。毎朝いじめてくるみんなを恨んでいたんだろうか。それとも、今日死ぬための予定を立てていたのだろうか。どちらにせよ。僕らは、彼を背負ってこれからの人生を過ごしていかなければならない。みんなに自覚はなくても、どこかにいる相田君を、忘れることはできない。僕はそう思うと、最後の大きいかさぶたを、、思い切り剥がした。
その頃、美術室では、相田タカユキが描いた絵が、教卓の机に置かれていた。
その絵には、血の海になっている教室が描いてあった。下に書いてある日付は、相田タカユキの遺体が発見された翌日。つまり今日のものだった。
校庭を校舎に向かって歩く人間が一人、日光でキラリと光るものを持って、口から呪詛のように歌を漏らしていた。
それは、やけに聞き覚えがあるメロディーだった。