イマ放浪編・その1
はい、こちらは、当初別編にするつもりの無かった、イマちゃんの高校生の頃を中心としたお話です。時期としては、研究編中期にあたります。BLOGの文字数制限の関係で、分けることにしました。タカとイマ、心が離れる時期。どうなりますことやら。それでは、始まり始まりぃ~。
<イマ放浪編その1>
イマの母親の旧姓は、松平。通常、徳川家の血をひく姓である。
松平 真理子。それがイマの母親の名前であった。
東京郊外、広くて古ぼけた屋敷で生まれ、育った。
イマが生まれた時、父親は「いまぁ~」と叫んでいたが、母親は激しい痛みの中でも、意識はしっかりしていた。男の子かしら、女の子かしら。間もなく、看護師が生まれたばかりの赤ん坊を母親に見せるために抱えてきた。「かわいい女の子ですよ~」 思っていたより小さい。泣いていた。それでも、目を開ける事があった。その目は、キラキラと輝いていた。母親・真理子は思った。お祖父様と同じ目をしているわ。色がくるくると変わる。赤ん坊は一通り泣き終え、落ち着くと目のキラキラは無くなっていた。やはり、お祖父様と同じ。お父様がおっしゃっていた、「血の呪縛」を、この子に与えてしまった。母・真理子は、痛恨の思いで泣いた。周囲は、後産の苦しみと受け取っていたようだった。
産後の安静の中で、真理子は夢うつつのうちに昔をぽつぽつと断片的に思い出していた。お祖父様。興味をひくことがあると、目がキラキラと色々な色になった。普段は普通の目に見えたが。お祖父様は、ある土地にこだわっていた。旧水戸徳川家別邸跡。既に明治時代に国に接収されているが、そこを開発することだけは、お祖父様が何とか食い止めていた。
何でも、お祖父様のお祖父様が松平姓になったときに、その土地を守護するように言いつかったのだそうだ。
あるとき、お祖父様と、聡明そうな初老の人が家でお話になった。その後、あれだけお祖父様がこだわっていたあの土地は開発され、何かの研究所になったと聞いた。広大な土地には、地下に色々と仕掛けがあるようであった。
実は、以前、真理子はカナブン(タカ)と会ったことがある。思い出していたのは、カナブンとして意識してではなかったが。
真理子の通っている女子校では、大学の文化祭巡りをするのが毎年恒例となっていた。お嬢様学校であることが知れ渡っている高校であったし、外出時は休日でも制服と校則で決められているのを逆手にとって、周りから視線を浴びるのが面白いらしかった。普段から視線を浴びていた真理子は、そうでもなかったが、お付き合いでその文化祭巡りに参加していた。
その中のある大学で、渡り廊下を使って妙な事をしている男がいた。男の前には、「水中に漂う卵」とか、それほど面白くもないものが並んでいた。興味を引いたのは男の行動であった。ホワイトボードを端に置き、そこに夢中で何かを書いては消し、書いては消ししていた。奇妙な方程式みたいなもの、六角形の連なったもの(これは後で有機化学の分子構造図だと判った)、何か回路図のようなもの。男の行動自体が、一種のパフォーマンスになっていた。真理子は興味を持って暫く眺めていたが、他の友人から、「先行こう」と言われて、何か後ろ髪を引かれる思いで足し去ったことがあった。
その男が、タカであった。1年休学し、世界を放浪してから復学した、らしい。
これらは遙か後日、話しているうちに判ったことだった。
真理子が見合いで平凡な男を選んだとき、お祖父様とお父様は、揃って同じようなことをおっしゃっていたわね。
「平凡な男が一番いい。これで血の呪縛から離れる事が出来るだろう。なに、ちょっとした後押しはしてやろう」
そのときの真理子は、それは結婚の許可であると解釈した。
確かに結婚の許可ではあった。お祖父様とお父様は、その男には全く興味を示さなかった。
一回だけ、彼が挨拶に訪れた時には、愛想が良かった、表面上は。それ以降、屋敷を夫が訪ねることも、招かれることも無かった。
間もなく、結納金代わりに、家を贈る、とお祖父様から言われた。結婚したら、最初からそこに住みなさいと。
幾つか候補リストが既にあった。彼と、見て廻る事にした。1軒目、五反野の駅からほど近い、商店街から1本外れた通り沿いであった。割と大きめの、3LDK。手前には駐車スペースと、自転車等を置けるような窪みが切り込まれていた。中に入ると、外見から想像していたよりも広いリビング、その奥にこれもまた割と広いダイニングキッチン。キッチンからリビング、さらに玄関まで見通せる。真理子は確認した。他に1階には、トイレと広いお風呂と2間分の押し入れのある8畳の和室。風呂の手前にはやはり広い脱衣所があった。棚等もたっぷりあり、ランドリーには苦労しそうもない。玄関脇から上がる2階には、6畳のうち1間分ある押し入れと、4畳半の洋室。洋室にもちゃんと収納がある。まるでモデルルームみたいですわね、と真理子は思った。実はその想像はそれほど外れていなかった。此処は、元々はモデルルームの展示場だったのだ。それが閉鎖と供に売りに出されていた。
真理子は、この家が気に入った。子供が出来ても、大丈夫そうだし、交通も不便ではないし、商店街もあるわ。
ちょっと歩けば大きなショッピングモールもある。
婚約者の男も気に入ったようだった。「よし、他はいい。此処に決めよう。どうだ?」決めようといってからどうだ、とは随分と乱暴ね。真理子は思ったが、数回のデートで呼吸は飲み込めていた。この男は、こういう話し方なのだと。
真理子は、「はい、私も気に入りましたわ。此処がよろしいと思います」「よし決まりだ。君の家からの贈り物だからな、手続きが面倒そうだ。大抵のことは任せる。署名や捺印が必要な時は言ってくれ。それと、玄関の鍵だけ、もう1つ付けたい。これくらい何とかなるだろう。いいね?」これで決まった。この男は、決めるときには早い。だから、仕事も真面目で実直で良くできるという評価なのだろう。二人は途中の駅で別れ、真理子は父と祖父に報告した。そうか、決めるのは早かったか、それだけは認めてやろう。お祖父様は笑いながら、承諾してくれた。父は、早速何処かへ電話していた。ああいう物件は早い者勝ちだ。恐らく押さえにかかっているのだろう。それと珍しく彼から注文のついたカギについても。・・・・後日、このこだわりは、我が家には必要な処置だった、と真理子は思うことになる。
婚約者は、車を持っていた。フォルクスワーゲン・PORO。若い頃からずっと乗っているらしい。だが、走行距離は短かった。真理子も、お嬢様教育の一環として運転免許は所持していた。結婚してからは、主に真理子がPOROを運転することが多かった。
イマは、小さな頃から何回か、そう年に数回は真理子と一緒に屋敷を訪れていた。イマは、大きな屋敷中を駆け回ったり、絵画や美術品に興味を示すことがあった。そのとき、イマの目がキラキラしていることに、お祖父様は気づいていたが、何もおっしゃらなかった。次は、無いだろう。そう思ってでもいるようだった。とにかく、イマの事は、お祖父様もお父様も可愛がってくれた。
あの土地、あの研究所に、イマが通っていますのよ、お祖父様。
よっぽどご縁がありますのね。
真理子はあるときふと、そう思った。
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イマは、お祖父様のお屋敷が好きだった。小さな頃から、お母さんとたまに訪れていた。お父さんに言わせれば、「ほこり臭くてでかいだけの家だ。俺は好かん」ということだったが。色んな絵や花瓶やお皿があった。触るといけない、ということは、小さい頃曾お祖父様から「目」で教わった。曾お祖父様は、イマと同じ「目」をしていた。きっと、同じものが見えるのだろうと思ったが、聞けなかった。曾お祖父様からも聞かれなかった。でも、「目」同士で、判っていた。
イマが小学校に上がる前に、曾お祖父様は亡くなった。質素な式ではあったが、何か何処かで見たことがあるような名前と会社の名前がお花と一緒に並んでいたのを覚えている。お祖父様も、後を追うようにイマが小学2年の時に亡くなった。このときのことは、割とはっきり覚えている。名前を聞いたことのある会社やTVで見たことのあるような人が式に来ていた。雨で、寒かったので、しっかりとは見なかったが。
もし、そのときイマがしっかりと見て、相手もイマをしっかりと見ていたとしたら、その後の人生は大きく変わっていただろう。
お祖母様は、健在だった。ごくたまに、しっかりしたドレスを着なければならないときなど、お屋敷に行ってドレスを借りることがあった。それは、お祖母様のものもあったし、お母さんのものもあった。
お母さん、お父さんと生きることを選んだんだ。いつのときか、イマははっきりと思った。だから、あのお屋敷には、お祖母様には滅多な事では頼らない。それがお母さんのやり方だ。だから、パートもやっている。誕生日プレゼントは、きっといつもお母さんが買ってくれている。お父さんは、イマの事はお母さんに任せっきりだった。
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イマは、無事に近所の公立高校に進学した。小学5年の進路相談で宣言した通りだった。ここまでは。
イマは、高校生になると、タカの研究所でアルバイトを始めた。基本は事務棟勤務だが、タカの研究室に出入りすることは黙認されていた。此の時点で、イマはレベル3セキュリティの入館証を発行して貰っていた。事務棟はもちろん、研究棟の若い人達からも、イマは人気があった。かわいくて気が利く。まるで母の若い頃のように。
イマが16歳になる丁度1ヶ月前。イマは、母親に「宣言」した。
イマ「お母さん。私、自動二輪免許取るから。教習所代は、バイト代を貯めてあるからそこから出す。もし、お母さんが許してくれれば、いいえ、許してくれなくても、中古でもいいから大型スクーターを買って、研究所に通うようにするから」
教習所は、イマの家から割と近所の河川敷にあった。そこには自転車で通った。実技教習に必要なヘルメットは、近所の知人の兄から借りた。大きさが合わなかったが、教習中だけ使えればいい。運動能力と理解力には自信があったし、実際にどんどん進んだ。マニュアルギヤチェンジは、特に問題なかった。大きく首振りをして、左右確認をしていることをアピールするテクニックもすぐに学んだ。恒例の転倒バイク起こしでは、合気道が役に立った。力をかける場所と、重心と、起こす方向、それにタイミング。最初は手間取ったが、2回目からはスムーズに行えた。以外だったのは学科であった。知らないことが一杯あった。日本の交通って、こんなに面倒だったの?みんな、守ってないじゃん。試験は8割取れば合格であったから、学科免除で4月になる前に教習所を卒業してしまった。生年月日の1ヶ月前から通えますって、1ヶ月も要らなかったね。
運転試験場には、電車と徒歩で行った。誰かにクルマで送ってもらうと早いのだが、イマは誰の力も借りたくなかった。実技試験、一発合格。帰りには免許証を手にしていた。
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イマが大型スクーターを買うには、中古でも資金が足りなかった。ちなみに学校は、当然のようにバイク禁止であった。
イマは、安いスクーターを求めて、自転車であちこち廻った。噂で聞いた、上野のバイクストリートにも行った。
そのうち、自転車で走っていると、イマを前後するように、バイクやスクーターがまとわりついてくるようになった。
それは話題になるだろう。イマくらいの年で、美人というよりもかわいい系で、安いバイクを探しているというのだ。
イマは、嫌な予感がして、暫く探すのを止め、バイトに専念した。おかげで、バイク用のお金もだいぶ貯まった。
イマは、自分の軍資金から、大型スクーターは諦めることにした。それでも、気になるスクーターがあった。
YAMAHA・マジェスティ。これなら高速道路にも入れるし、台数も出ているから安いのもあるだろう。
イマは、Web検索とバイク雑誌の立ち読みで、何軒かあたりをつけていた。ある平日。実は1学期の期末試験の真っ最中であった。イマは勉強の方は余裕であった。荷物をくくりつけるためのゴム紐を鞄に入れて、折り畳み自転車で廻った。数軒目で、店頭に未だ新しいマジェスティを見つけた。色はシルバー。値段を見て驚いた。安い。これなら買える。イマは、辺りを憚らず下回りや駆動系もチェックした。程度もいい。決定。店員に話しかけた。
イマ「あの、このマジェスティ、何でこんなに安いんですか?事故車か何かですか?」
店員「いえ、ほんの数日前、転勤で引っ越しをなさる方が、持って行けないからと、あちらの言い値で引き取ったんですよ。それがもうほんとに安く・・・あいや、とにかくそういう理由で安いんです。新車からワンオーナー、車検も1年以上残ってます。未だナンバー付きですし、譲渡関係の書類も揃ってますから、すぐにお乗りになれますよ。お勧めです」
イマ「これ、以上は安くなりませんよね?安くなると良いんだけどなぁ」
店員「勘弁してくださいよ、人気のマジェスティですからねぇ。じゃ、おまけに何か付けるとか」
イマ「じゃ、ね。これに似合うヘルメットをおまけに付けてくれたら、現金で今買います。どうですか?」
店員「ヘルメットですか?・・・・少々お待ち下さい、店長と相談してきますから」
イマは、店員が引っ込んでいる間に、更にじっくりとそのマジェスティを観察した。特に目立った傷は、無い。メンテもしっかりしているみたい。ほんとに丁寧に乗られていたのね。間もなく、店長が出てきた。
店長「お客様、このマジェスティは特価品ですから、ヘルメットまでは勘弁して下さいよ」
イマ「じゃ、いい。他あたるから」
店長「ちょ、ちょっとお待ち下さい。現金というお話でしたよね?今お持ちで?そうですか。・・・・判りました。ヘルメット付きでお売りしましょう。頭のサイズは?・・・はい、色は車体に合わせてシルバーがよろしそうですね。形のお好みは?スクーターにフルフェイスはあまりお似合いになりませんよ。じゃ、フルフェイスなみにしっかりカバーしてくれるヘルメットを見繕ってまいりますので、少々お待ち下さい。」
イマは、店長と一緒に出てきた店員に、話しかけた。
イマ「ちょっとエンジンかけてみていい?」
店員「はい、それはもう」
キュルル、バゥン。いい音だった。エンジンも元気ね。タイヤもしっかり溝が残っているし、暫くはこのまま乗れそう。
エンジンを切って、にっこりとほほえみながら、イマは店員に話しかけた。
イマ「ねぇ、ガソリンってどれくらい入れてあるの?・・・そう、お願い、もうちょっと足して貰えない?」
店員「あ・・・えぇと、ちょっとだけですよ」
店員は、金属製の予備タンクのようなものから、2リットルほど給油してくれた。
店員がタンクを片付ける頃、店長が出てきた。両手に幾つかのヘルメットを抱えていた。
店長「お待たせしました。ご要望のヘルメットですと、この辺りになりますが」
イマは、1つ気になるヘルメットを見つけた。ジェットタイプではあるが、シールドで顔面をすっぽり覆うもの。あごの両端に当たる部分が、ちょっと突き出たようになっている。ブランドは、国内メーカーのものであった。SHOEI・J-FORCEⅢ。「被ってみてもいいかしら」「え、それをお選びで?・・・はい、どうぞ」店長はかなり渋い顔をした。それはそうだろう、試しに持ってきた中で一番高いヘルメットであったから。イマは、被ってみた。ホールド感は、いい。あごの両端に突き出たようなデザインで、顔面もかなり守ってくれそうだ。なによりデザインが気に入った。決定。
イマ「じゃ、これを付けていただけます?ご精算と書類は、さすがに中よね」
いうなり、イマはヘルメットをしっかり抱えたまま店内に入っていった。慌てて店長が追いかける。イマは、銀行からおろしたての新札を数えていった。「これで足りると思いますけど。確認して下さい」店長が確認する。その間、店員は書類を揃えていた。「印鑑はお持ちですか?まさか実印とか・・・お持ち?印鑑証明も?これは準備がよろしいことで。では、譲渡証明等揃えますので、もう少々お待ち下さい。」その間に、店長は現金を3回目の現金の数えを終わっていた。確かにあった。この時期、現金はありがたい。ふとイマの顔を見るうち、店長は嬉しくなってきた。
店長「お客様、これは、ヘルメットとは別に、当店からのお気持ちです。まぁ安物ですが、革製のグローブです。出来るだけ素肌は出さない・・・なんていうことは、お客様はもう充分ご存じですよね。お受け取り下さい」
イマ「あら、ありがとう。嬉しい。いいお店ね。後でちょっと宣伝しておくわ」
そのうちに、店員が書類を揃えてきた。「此の書類と、此の書類に、連絡先と署名を。それから、これには実印と、印鑑証明を付けていただけますか?はい、結構です。もう、すぐにお乗りいただけます。ナンバー付きですが、ナンバー申請は地元でお早めにお出し下さい。」
イマ「ありがとう、それじゃ、あのマジェスティは、今から私のものね。乗って帰るわ。ちょっと店の脇を貸していただけますか?」
店員は、そういえば来るときは自転車だったよなぁ、どうするんだろうと思っていた。イマは、自転車を手早く折り畳み、鞄から厚手のビニルシートを出して後部座席にかぶせ、その上に折り畳んだ自転車を載せた。さらに取り出したゴム紐で、入念にくくりつけた。店員と、途中から店長も、半ばあっけにとられながら見ていた。
イマは、鞄をはすに肩にかけ、ヘルメットを被り、手袋をはめた。ちょっとくぐもった声で、彼らに言った。
「どうもありあがとう。良い買い物が出来たわ。それじゃ」
言い残すと、エンジンをかけ、手際よく去っていった。
店長と店員は、何となく顔を見合わせた。「かわいかったなぁ。かっこよかったなぁ。良い子だなぁ」
二人の意見は一致していた。
イマは、走り出してから、何とも言えない快感に浸っていた。操作系は、予習してあったから、すぐに馴染んだ。いいバイクね。免許を取ってから、他の子のバイクを借りて乗ったこともあるけど、これはいいわ。楽しい。
間もなく、家についた。小学生の頃から大事に乗り続けた自転車をいったん表に出して、マジェスティをそこに納めた。ぎりぎりではあったが、何とか収まった。マジェスティから折り畳み自転車を下ろし、いつもの処に置いた。問題は、今までの自転車である。少し考えてから、学校の駐輪場許可証をはがし、玄関脇に無理矢理置いた。はがした許可証は、折り畳み自転車の方に貼り直した。
イマ「お母さん、ただいま。バイク、スクーターだけど、買ってきた。ヘルメットはおまけにもらっちゃった。この手袋も。格好いいでしょ。・・・・それで相談なんだけど、今まで乗っていた自転車、あれ、廃品回収に出していいかな?通学とか、自転車が必要な時は、折り畳みの方に乗るから」
母親「まぁ、ついに買ってしまいましたのね?借金は、してないわね?お母さんにも見せて下さる?」
イマ「いいよ、今までの自転車の処に止めてあるから」
イマと母親は、一緒に表に出た。母は、スクーターというものをまじまじと見るのは初めてであった。立派ね。思ったより大きいわね。でも、イマはこれより大きいものを最初欲しがっていたのよね?お父さんには、なんて言おうかしら。母は、言葉に出しては「イマさん、立派な買い物をしましたわね。大事にするんですのよ。自分の身体も、ですわ」「判ってるわよ、お母さん。気をつけて乗る。お父さんには、伝えておいてね。あ、実印は後で返す」言うなり、イマはとっとと先に家に入り、自分の部屋へ向かった。
母親は、イマが免許を取ったことは、例によってうまく伝えてあった。しかし、今回は大きな実物がある。どうやって伝えるか悩むうちに、晩ご飯の支度をする時間になった。
イマは、自分の部屋に入るなり、するっとノートPCを取り出した後鞄を放り出すようにして、ノートPCを立ち上げた。
スクーター購入のためにチェックしていたクチコミサイトや、価格情報サイトに、マジェスティの事と、おまけのこと、そしてお店の紹介を書き込んだ。約束した事は守る。これであのお店も繁盛するでしょ。おまけ付けてくれってみんないうかもしれないけれど。クスッと、イマは一人笑いを漏らした。
父は、割と遅めに帰ってきた。酔っている。それでも、スクーターと玄関脇の自転車にはさすがに気が付いていた。
父親「ただいまぁ~、帰ったぞぉ。おいお母さん、表のアレはなんだい?前にイマが免許とか言っていたが、まさかイマのバイクか?」
母親「お帰りなさいませ。はい、あれはイマのですわ。イマが、ご自分のアルバイト代で買いましたの。アルバイト先や、色んな処へ行きたいそうですわ。そのためにあの子、一所懸命お金を貯めてましたのよ。ご覧になったのならお判りでしょうけれど、普通のバイクではなくて、スクーターというものだそうですのよ。そんなにスピードも出ませんし、あの前の囲いやらで、万が一転んでも安全だそうですの」母は、見た印象だけで説明していた。実際には、マジェスティは結構「走る」。父は、靴を脱ぐ前にもう一度スクーターを見に行った。そうだな、これなら大丈夫かな。父なりに納得したようだった。「おい、それで玄関脇の自転車はどうするんだ?」
母親「イマが大事に乗ってきましたけれど、あれもそろそろだいぶ傷んでますの。ですから、今度の廃品回収に出すつもりですのよ。お父さん、ご飯は召し上がる?」
靴を脱いで、ネクタイを緩めながら父は応えた。「いや、風呂に入って寝る。明日朝から会議だ。イマには、良い買い物をしたなとでも言っておいてくれ」よろよろと、父は部屋に向かった。
母親は、父親の意外な言動に少々驚いていた。実は、父親の唯一と言っていい若い頃の趣味が、バイクであったことは、母親も知らなかった。もっとも乗る方ではなく、雑誌を読んだり、カタログを眺めたり走っているのを眺める方であったが。そういった会話は、考えてみれば今まで一切していなかった。
ともかく、父親が否定しなかったことに一安心した。
翌朝、出勤が早めの父親とすれ違いながら、イマは特に会話をしなかった。最近はいつもそうである。話は、全て母親を通じて行っていた。朝食の席に着いたイマに、母親は言った。
母親「イマさん、おはようございます。昨日、お父さんがあのスクーターをちゃんと見て、「良い買い物をしたな」とおっしゃってましたのよ。文句は一つも出ませんでしたわ。おめでとう」
イマ「おはよ。そう、お父さんはあっさり認めてくれたんだ。珍しぃ~。じゃ、ちゃんと乗るからね・・・じゃ、行ってきまぁ~す」
イマは、おっと今日からは折り畳み自転車の方だ、と頭を切り換えて、登校した。
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あるとき、タカは所長から呼び出された。
所長「タカ、いや今後は金澤君と呼ぶようにしなければならんな。金澤君。ついに呼び出しだ。本社のお偉いさん連中と、ついでに国のお偉いさん連中に「ソラ」を見せなければならない。今までの研究成果を、連中の目で判るように、支度してくれないか?期日は、今月末だ。来月頭のお偉いさんの会議で、限定公開する。よろしく頼むよ、金澤君」
タカ「判りました。では、一番判りやすい、「電源の要らないTV」の試作品でよろしいですか?但し、未だ完成型ではありませんから、披露するに当たって前提条件があることをお伝え下さい。後で内容はメールします。では、失礼します」
タカは所長室から退出したものの、どうしたものかと考え込みながら研究室に向かった。今、イマは使えませんね。あの試作品のままでは、ソラが敏感過ぎて、通常環境では画像になりません。取り急ぎ、ノイズリダクション(NR)回路を付加して、現場合わせってとこでしょうか。NRは、逆に本社経由で電機会社から取り寄せてみましょう。そうだ、お偉いさんが並ぶのなら、ついでにアレもお願いしてみましょうか。誰が来るか判らないけれども、何とかなるでしょう。・・・・最後は前向きに考えることにして、研究室に籠もった。
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間もなく、タカの研究室から、山のような注文書類が事務室に届いた。しかもどれも至急である。イマがアルバイトを休んでいて居ないので、事務室は大忙しである。
暫くして、タカ宛に山のような荷物が届いた。やはりイマが居ないため、事務員がタカの研究室まで届けた。
・・・・ドアロックを抜けた事務員はちょっと驚いた。ケモノ臭い。中では、タカがぶつぶつ言いながら歩き回ってた。
事務員「タカさん、ご注文の品物届きましたよ」 いうなり、タカはケモノが獲物にかぶりつくように荷物の山へ走って来た。途中、最近運動していないせいなのか、つまずきそうだった。
タカ「すみませんが、そこの中央のテーブル付近に置いて貰えますか」 タカの言葉に、事務員は異様な雰囲気を感じて、慌てて荷物を台車から降ろし、逃げるように帰っていった。
荷物の中には、20型液晶TVそのものやら、重たそうな強電系と思しきものやら、回路やら、様々なものがあった。
タカは、少しこけた頬に、微妙に笑いを浮かべた。
まず、行ったのが、液晶TVから液晶とバックライトを抜くことだった。その後は、まるでTVをスクラップにするような勢いで分解し、そして自作の回路や、注文が届くまでの間に用意していた「ソラ」のパネルを取り付けていった。
重たい部品は、電源安定器であった。さらに、NR関連の回路も組み込み、念のためフレームを鉛で覆った。
一通り作業を終えたタカは、例によって小型ビデオカメラと結線し、部屋の明かりだけで電源が繋がっていないTVの電源ボタンを入れた。瞬時とはいかないが、明らかにビデオカメラの映像が鮮やかに映し出された。よし。だが、タカが動いた瞬間に画像が乱れた。やはり「ソラ」が敏感過ぎるのだ。タカは悩んだ末、「ソラ」の感度を落とす方法を考え始めた。
やがて、約束の日が来た。タカは前日に久し振りに帰った借家で深い眠りにつき、朝は風呂に入ってスーツを着ていた。懐には、ある企みの書面が忍ばせてある。所長にも、「デリケートなので」という理由で見せていないソラで作ったTVを、慎重に梱包して自分の車で運んだ。当然のように、黒塗りの車に乗った所長と一緒だった。
都心のとある立派なビル。地下駐車場には、やはり立派な車が並んでいた。タカは、その場には不釣り合いなNOTEを駐車場のエレベータ口付近に一旦止め、慎重に梱包をおろした。そして、近くの空いている場所に構わずNOTEを止め、急いで梱包の処に戻った。
タカ「頼んでおいた、ゴム車輪の台車は何処ですか?」 タカは駐車場の守衛に訊いた。
守衛「その前に、身分証明をお願いします」と、慇懃無礼に守衛から言われ、タカは慌てて研究所の入館証(社員証も兼ねている)と、念のため運転免許証を差し出した。守衛は、一通り眺めて、「金澤様、ですね。台車はエレベータホールにあります。こちらまでお持ちしますが、その後はご自分でお願いします。私では責任を負いかねますので」と言った。タカは、要領と護身を考えている、いかにも役人的な守衛ですね、と思っているうちに、台車が目の前に置かれた。素直に自分で慎重に梱包を台車に載せた。エレベータまで、段差が無い事を確認しながら進んだ。エレベータでは、念のため用意していた鉄板をフロアとカゴの間に渡し、台車を載せた。まるでそこまで観ていたように、そのタイミングで、所長が合流した。これからが正念場だ。
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イマは、母親にタカから最初に言われた「約束」はほぼ完全に伝えてある。
では父親は何処まで知っているのか?
イマが17歳になる、少し前。未だ桜の時期には早い頃。
タカはある晩、イマの家を訪ねた。イマは、とある事情で家にいない。
タカはその事情を知っているが口にはしない。
タカは、珍しくスーツを着用していた。
タカ「今晩は。夜分お邪魔いたします。金澤と申します。」
母親「あら、金澤さん、お久しぶりね。いらっしゃい。イマは出かけているわよ。・・・なぁに、その格好。まぁ似合ってるけど」
タカ「はい、色々ありまして。お父様はご在宅ですか?」
在宅しているはずである。タカはそこまで手配した。
タカは焦っていた。今のタカには、イマが欠かせない。
タカは「嵐」の真っ直中に巻き込まれつつある。どうしても、自分の「錨」をおろせる場所が欲しかった。それがイマである。
母親「お父さん、金澤さんが見えましたよ。お父さんとお話したいみたいですよ。居間にお通ししておきますから」
相変わらず察しのいい母親であった。さすがにイマの母と言うべきか。
居間といっても二階建て建て売り住宅である。TVとテーブルがあり、隣はダイニングキッチンだ。来訪者もそれなりにいるのであろう、一通り片付いている。
タカは少し迷い、下座と思われる処に正座した。
暫くして、イマの父親が居間にやってきた。少しだけアルコールが入っているらしい。もしやタカが訪れてから慌てて飲んだのか?
父親「いやぁ、いらっしゃい。金澤君は、研究は相変わらずかね?」
タカ「はい、あ、いえ、今かなり山場を迎えようとしています。ここに来て、以前より予算が必要になって、研究所でやり繰りして貰ってます」
父親「ほー、忙しいのは結構ですね。モノになりそうなんですか?」
タカ「それの見極めで今山場なんです」
父親「その忙しい金澤君が、わざわざこんな時間に背広を着て我が家へ? さて、何の謎かけですかね。我が家はそんなにお金はありませんよ」
タカ「はい、あ、いえ、そういうことではなくて、ですね。大変差し出がましいとは思ったのですが、お父様にこれをお届けに参りました」
父親「何ですかこれは?推薦状?中を改めていいですか?」
タカ「今は、とりあえずそのままお納め下さい。内容は、後ほどご確認いただければと思います。これは、イマさんが、東京都内及び近郊の、どんな大学でも専門学校でも、文部科学省所管の学校であれば入学出来るようになっている書面です」
父親「はぁ?何か冗談でもおっしゃってるんですか?何でそんなものをうちのイマに?なんであなたがそんなものをご用意出来る? 第一何を企んでいるんですか??」
タカ「お父さんのお気持ちは、お察しします。確かに私はただの研究員です。しかし、後ほど中をご覧いただければ事情が判るかと」
父親「ちょっと待て、じゃあ今こいつを見てやる」
タカ「あ、お父さん、必ずお一人でお読み下さい。その後、お母様やイマさんに見せるかどうか、お話されるかどうかはお父様のお考えに一存しますから」
父親「じゃあ、ちょっと、ここで待っていなさい」
タカは、最初の作戦をちょっとしくじったようだ。
父親は、タカがイマを嫁にくれとでも言いに来たと勘違いしていたらしい。無理もない。イマは、もう親の許しがあれば結婚出来る年になっている。タカは、内心必死で挽回しようと考えていた。父親がアレを読んだとしたら、その後の反応はどうであるか?まずは真偽を問われるだろう。父親の役職なら、同期なりのつてで確認も出来るだろう。その書面が本物であることを。その内容が真実であることを。
暫くして、さらにアルコールを含んだような真っ赤な顔をした父親が居間に帰ってきた。煽らずにいられなかったのだろう。
父親「き、きみ、金澤君。これは本物かね?これを書いたのは本物かね? あ、いや花押があるから確認出来る。おい、母さん、ちょっと電話を取ってくれ、いや家のではなくて俺の携帯だ」
タカ「どうぞご確認下さい。本物です。」
父親「ちょっと待ってくれ。・・・あ~、もしもし、俺だ、吉井だ。久し振りだな。元気か?未だ役所に居るのか?そうか、大変だな。大変次いでにちょっと頼まれてくれないか?今からそっちの携帯に写メールを送るから、そちらさんのお偉いさんの本物かどうか確認して欲しいんだ。どこから手に入れたとかは、また今度な。じゃ、送るから一旦切るよ」
父親は、慎重に書面本文は見えないように、でも署名と花押はちゃんと写るように写メを撮った。それなりに慣れた手つきでメールしている。
・・・どうやら送り終わったようだ。父親は一呼吸入れて、また電話をした。
父親「お~、吉井だ。届いたか?見たか?どうだ?・・・・・実物を見たい? だからそれはまた今度な。で本物らしいか?・・・・そうか。そうか。 判った。遅い時間に済まんな。此の埋め合わせは今度するよ、 じゃ」
・・・・さすがに今時の親父殿だ、「今度」が何時か楽しみな会話だな。
タカはおかげで少し冷静になった。
父親「・・・・あまり認めたくはないが、本物らしい。ということは、内容も本当だな?だから何故君はそこまで出来るんだ?」
そろそろ酔っぱらいの絡みに近くなってきた。
察しのいい母親に目配せして、タカは言った。
タカ「お父様にただ一つだけお願いがあります。イマさんの将来を、選択を、全て認めて上げて下さい。何処の学校に行くとか、よしんば働くとか、本人が決めたことを否定しないで下さい。 私が今晩お邪魔した理由は、ただこのことをお願いしに来ました。」
父親「権力と繋がっているからってぇ、いい気になるなよぉ~、・・・・」
どうやら急激にアルコールを飲んだせいで、意識が遠のいたようであった。
タカは、母親にお詫びとお礼を言い、静かに退出した。
イマが家に帰ってきたのは、それから随分経って、終電近くであった。