たぶんオアシス
私にとって、図書室というのはオアシスと定義されていたわけで。
何度も言うけれど、私にとってここはオアシスなわけで、決して、決して。
「返事は?」
「……」
担任に迫られる場所ではないと思うのです。
担任だから何をどうしたって学校を休まない限りは会うことになるけども、今日一日は可能な限り彼のことを避けていた。当初の予定では、(非常に残念だけども)図書室には寄らず帰宅することにしていた。そうだったはずなのに、最悪なことに、急用ができた友達に今日が返却日の本の返却を頼まれ、私は図書室へ行かざるを得なくなった。そして私は本を返却した後、心地いい本の匂いに吸い込まれて、あれこれと忘れて、本の旅に出かけしまい……案の定、追いかけてきたのか何なのか、この人に捕まってしまった。
そして今に至るのである。
背中に本棚、目の前には笑顔の担任。しかし普通の笑顔ではない。明らかに脅しの笑顔。
――先週、この人に誕生日だからプレゼントが欲しい、と意味の分からない発言を受け、挙句の果てにあるものを奪われた。(大袈裟だと思われようが、私にとっては大事件なのです!たとえ頬だとしても!)
そして、今日は。
『返事は1週間後のお前の誕生日な?』
あっという間の私の誕生日。
目の前の笑顔をひきつりそうな顔で受け止めながら、何とか逃れようと生徒らしい話題を振ってみる。
「あー、えっと……、あ、三者面談のことですけど、母は来週の火曜が」
「それは今朝お前のお母さんから電話で聞いた。俺は一週間前のお前の返事が聞きたい」
「……あれれー、先週なにかあったかなー?あ、はは……」
閃いた逃げ道はあっさりと塞がれてしまった。返事、返事と言われても。どうしたらいいの。だって。
「生徒だからとか遠回りなこと考えるな」
「……っ」
私の思考を覗いたような言葉に心臓が跳ねる。笑顔を消して、真剣な目をした彼。こんな目、見たことない。
「卒業まで待つつもりだった、もちろん今でもきちんとした関係は待つつもりだ。悪いが俺はそこまで馬鹿じゃない。お前の親御さんにも申し訳ないし、いやこの時点で結構まずいのは分かってるけど。ただ、とりあえず予約だけさせてほしい。気持ちの確認だけさせてほしい」
――予約?気持ちの確認?何を、待つの?
「まあこの前のはちょっとしたフライングだとして、忘れろ」
「……」
うるさかった心臓が一気に静かになった。思考が覚めた。彼は今なんと言った?ちょっとしたフライング?……忘れろ?
ーーなんだそれは。
「…な……れ」
「ん?」
一度俯かせた顔をぐっと上げて、感情のまま睨み付けた。
「なんですかそれ」
口から出る言葉の温度は冷たい。だって、いまの私はすごく腹が立っている。
「雨宮?」
不思議そうな顔とそのぼけっとした声にますます腹が立ってくる。ここは図書室だから、図書室だからと自分に言い聞かせつつも、イラつきは治まらない。私を平然と見下ろす顔の位置すら腹立たしい対象になる。
――なにも、知らないくせに。
「忘れられるわけない」
「……」
「ちょっとしたフライング?忘れろ?……なに言ってるんですか、どれだけ私のこと馬鹿にすれば気が済むんですか!あんなことしといて忘れろなんて!たかが頬!されど頬ですよ!?」
ぎゅっと拳を握って睨む私をぽかんとした表情で見返す彼。私の感情は揺れて揺れて熱くなるばかりで。
――もう、いい。と心がそう言ったから。
大きく息を吸って、彼の腕を床に押し付けるように無理矢理ひく。同じようにしゃがむ私に向けられる、何だよ、という目は無視する。
全部全部ムカついて仕方ない。俺は年上だから、俺は教師だから、そんな雰囲気がどれだけ私に現実を見せたか。そのくせ、チビだチビだと馬鹿にして、たまに優しい目をして頭を撫でる。修学旅行で、人混みに埋もれた私を誰よりも早く見つけたのもこの人。
どれだけ私が背伸びをしてきたか知らないでしょう?何度だって届かない本に手を伸ばして、それでもギリギリまで踏み台を使わなかったのは、本当に届きたい人の代わりになにか自分の力で触れたかったから。
でも、今は背伸びしなくても近くにいる。触れられる距離にいる。どうして。私が頑張ってきた距離をどうしてそんな簡単に貴方はできるの?
もう、しらない。なるようになれ。こんな人どうとでもなってしまえ!
深く息を吸って、思いきり紺のネクタイを引っ張る。そして、ギリギリまで顔を引き寄せた。
「誕生日プレゼントありがとうございますっ」
早口で言った後に、触れたそれも一瞬。子供みたいな触れ合いだけど、いまの私にはこれが精一杯。
逸る心臓を押さえるように、ネクタイからぱっと手を離した手を胸にあてる。今更ながら自分が仕出かしたことに、後悔が襲ってきて、顔があげられない。いま、彼がどんな顔をしてるかなんて、見ることができない。
何も言うことなく、何もすることなく卒業するはずだったのに、なんでこうなった。なんで、なんで。
「……さすがにそれはダメだろう」
まっすぐに心臓に突き刺さるような言葉に泣きたくなる。返事しろっていったのそっちじゃない、なのに、なにそれ。何が正解なのか全然わからな……え?
「……っ」
溢れそうになる何かを唇を噛んでこらえていた私の肩はなぜか、力強いなにかにぐっと引き寄せられ、温もりに閉じ込められた。その温もりの、腕の中は心地よくて、あの匂いがする。追いかけていた、匂いがする。本の世界の中に彼の、界がある。
「俺が我慢してるのをなんでお前は……、はあ、おまけのプレゼントだ、ありがたくもらっとけ」
いつも通りの意地悪なその声。それなのに安心するのはなんでだろう。
「それで、返事は?」
それは、何に対してなのか、分からないけれど。でも。
「……好きです、先生」
――背伸びしてでも欲しかったのは先生なんです。
図書室は、やっぱり私のオアシスだと思いたい。
fin?
読んでいただきありがとうございます。
もしかしたら、続く、かも?