第九幕 「別れ」
終わった。
鬼神様の、鬼神信仰は終わった。
そして、彼女は失った。大事な、たった一人の家族を。
「水無月……大丈夫?」
呼びかけに反応しない。水無月の瞳からは若干、光……生気が失われていた。
鬼神退治が始まったのは正午。今は日が沈み始め、青々とした空が綺麗な橙色に染まっていく。その短い時間の間に、彼女の涙はもう枯れていた。
「……長老様、何故貴方が……死ななければならないのですか……?」
星神様はポンと優しく彼女の肩に手を置き、ふるふると体を震わす彼女を優しく抱きしめる。
「水無月、俺は彼のことを知らないけど……きっと彼は決められた道じゃなくて、自分の意思で選んだんだ。きっと、後悔はないはずだよ」
――っ!!
目頭がじぃんと熱くなる。だが真っ赤に腫れてしまった目からは涙は流れてこない。現実が受け入れられないという気持ちが体のどこかに、心のどこかにポッカリと穴を開けた。だがその穴も、すぐ悲しみと虚しさで埋まっていく。それも涙で流してしまいたいが、枯れてしまいそれが流れでない。なんて苦しいのだろうか。
「ぅ……そら、ひめ……?」
「「「!?」」」
「……兄さん?」
弟神様が目を覚ました。無理に立ち上がろうとする様子が、生まれたての小鹿の様だった。
「夕!!」
声をかけ、彼の下に向かう。倒れそうになった彼を、優しく支える。
「あれ? 兄さん、これ……どーなって……?」
少々今の状況に戸惑ってる彼に、星神様は一から説明を始めた。
「……あれから、五百年か……」
すべてを聞いた弟神様は、やはりショックを受けているようだった。それもそうだ、自分の記憶のない間に身体を好き勝手されたのだ。ショックを受けないわけがない。
「ああ……お前の顔は五百年前から変わらないな」
「そういう兄さんは変わったな……傷だらけじゃないか! あ……いや、俺がやったのか……。なぁ、聞いてくれないか? 乗っ取られた後、何があったか」
その場にいる全員が頷く。同意を確認すると、彼は空白の図鑑を語り始めた。
「あの時……俺は闇の中にいたんだ。そしてすぐに、声が聞こえた」
「声、ですか?」
すると弟神様はブルブルと震えだし、そのまま尻餅をついてしまった。
「ああ……空姫の、父君の声だよ! や、闇が急に紅く染まって、人の形をしていない亡霊にっ……首を絞められて呪いの声が響くんだ!! 『死ね、死ね。お前なんか消えろ! お前のせいで娘はおかしくなった!』って……」
全身からドッと汗が吹き出し、「フーッ、フーッ」と荒れた呼吸をしている。それほど彼には恐ろしい出来事だったのだろう。体の震えが止まらない。
「その後、急に静かになったと思ったら、今度は闇の中で水に飲み込まれて……また呪いの声が響くんだ! 『痛い、痛い』って! 亡霊のようなものがたくさんいて、そして――!!」
「夕」
震える彼の肩を掴み、宥めるように星神様は言った。
「無理するな」
「――っ!! ぁ……」
だんまりとその場は静まり返る。その沈黙は彼女によって破られた。
「あ、あの、星神様!」
「何?」
「その……夕って……?」
その疑問はずっと水無月と陽英の中で引っかかっていた。だが、言われなくても分かっていた。間違いなく――、
「弟の名前。夕宵命っていうんだ」
――弟神様の名前だ。
「じゃあ、貴方の名前も……?」
「ああ、あの時言っただろ? 思い出したって」
「兄さん……」
「俺の名前は『明朝命』。始まりの星の神様さ」
「始まりの星?」
水無月は首を傾げる。彼女は正直あまり勉強などしたことないので、難しい言葉はわからない。
「そう、明けの明星って知ってる? 日の出より早く出てくる星だ」
「あまり見たことないです」
「じゃあ『宵の明星』は? 人間がよく言う一番星なんだけど」
そこに弟神様、もとい夕宵命が割って入ってくる。だがこちらの方が分かりやすかったようで、水無月はすぐに理解した。
「ようするに俺達……明朝命は『明けの明星』、夕宵命は『宵の明星』を司る神様さ。朝の星と夜の星の方が分かりやすいかな」
ヒュォオオ、ヒュォオオ。
急に風が強くなり、雲行きが怪しくなってきた。夜が近づき、もうすぐ星神様、明朝命は祠に戻らねばならない。だが水無月はなんだか妙な胸騒ぎがしていた。
「兄さん……やっぱり来たよ」
「……ああ、わかってる」
二人は何か分かっているようで、夕宵命は申し訳なさそうに、明朝命は何やらとても悲しい顔をしていた。明朝命の目からは涙が溢れそうだ。
「星神様? どうされたんですか?」
水無月は二人の顔を見て何かを察し、妙な胸騒ぎはほぼ確信に変わりかけていた。
――まさか、そんな……。
「水無月……恐らく、君が予想している通りだよ」
「迎えが来たんだ」
「そんな! 星神様は名前を思い出したんですよ!? どうして……いなくならなきゃいけないんですか!!」
叫んだ。精一杯叫んだ。どうしても納得がいかない。
なぜ、いなくならなければいけないのか。
せめていなくならないでほしい気持ちで、思いっきり明朝命を抱きしめた。彼は自分の胸に飛び込んできた彼女を見ようとせず、涙を流さないように、ずっと上を見ていた。
「水無月、だったよね?」
夕宵命が話しかける。彼は明朝命が言えないことを代弁しようとしていた。明朝命は無言で『頼む』と彼に話を託した。
「俺達は名前を思い出したからって、ここに居られるわけじゃない。人間と共存できなくなったから、天へ帰らなければならいんだ」
「きょう、ぞん……?」
「そう。俺達のような土地神は、天照大御神から人間を助けるように遣わされた。だけど人間と共存できなくなった土地神は存在できなくなる、消えてしまうんだ」
共存できなくなったとは、名前を忘れられることと同じなのだろう。少なくとも水無月はそう理解した。
「……だけど名前を忘れた土地神には、ある猶予が与えられる
ずっと黙っていた明朝命が重い口を開いた。話すのを躊躇ったが――そのまま続けた。
「自分がこの世界で存在し続けた時間の間に、己の名前を思出せたら……天へ帰ることを赦す、と」
ポタ。
水無月は自分の顔に何か冷たいものを感じた。冷たいけどどこか暖かい……明朝命、彼の涙だった。
夕宵命が話を続ける。
「俺達は天に遣わされてから五百年、そして名を忘れてから今年で五百年目……君のおかげで名前を、自分を取り戻せた……本当にありがとう」
そういうと、彼はペコリとお辞儀した。そして二人の時間を邪魔しないように、その場を少し下がった。
曇った雲の隙間から、一筋の光が差し込んだ。その光は少しずつ大きくなり、人二人分ほどの大きさで止まった。その光は太陽のような温もりを感じる。これは恐らく天への梯子だろう。
「水無月……」
自分の抱きしめる力より、さらに強い力で抱きしめられた。体は小さくフルフルと震え、涙を流し続ける。
「嫌だ……行きたくないよ……! 大切な君と別れたくない! まだ君とやりたいことがたくさんあるのに……」
「……私も、貴方と別れたくないです……! 恋を貴方のおかげで知ることができました。これからももっと――」
「……こう」
「え?」
明朝命は何かを呟いたが、声が小さすぎてよく聞こえなかった。そして、衝撃の言葉を口にした。
「水無月も一緒に行こう!! 天へ!」
「「「えええ!?」」」
水無月だけでなく、その場にいた全員が驚いた。彼もかなりの無茶を言うものだ。
「いいんじゃ……ないか?」
次に陽英も驚きの言葉を口にした。
「今更私がお前を縛る理由なんてない。お前の自由に生きなさい、水無月」
「叔父さん……でも……」
水無月は迷いがあるようで、うまく言葉を口に出せない。
「……そう、だよな……『思い出の残ってる』ここに居たいって言ってたもんな」
「星神様……でも私は――!」
「言わなくても分かってる。残るか行くか、君の自由にすればいい」
決められない、決められるわけがない。水無月にとって究極の二択。一生懸命悩みに悩みぬいて決めた答えは、ここに居る全員が望み、納得する一択。
「私……天に行きます!」
そう言葉を紡ぐと、光の梯子がまた一回り大きくなった。彼女が天へ昇ることが許されたのだろう。
「……後悔、しない?」
「はい、あの時言った自分の言葉を裏切ってしまいますけど……きっと長老様も望んでいます。私の幸せを」
何の未練もない、とても清々しい笑顔だった。それと決断を聞いた陽英は、安堵の息を漏らした。
「頑張れよ……私は京へ帰るが、これからはこの村の者たちをできる限り、鬼神への依存から解き放てるように努める」
「はい! 叔父さんも頑張ってください!」
別れのあいさつをすませ、彼らと共に光の下へ向かう。
「俺は天に行ったら空姫に会いに行く」
「ああ、お前の恋路も応援してるよ」
光の中へ入ると、自然に体がふわりと上がり、足のついていた地面からどんどん離れていく。
「さようなら、人間の世界」
双子の神様と一人の少女は、天へと消えて行った。
えー、次で最終話になります。村のその後ですね。




