第四幕 船島試合
やがて夜が明け、空が薄ぼんやりと白み始めました。
私は布団に横たえられた先生の傍で、何とも空虚な心を抱きながら、ずっと先生のお顔を見つめておりました。
血を拭った先生のお顔は穏やかです。
先生。
先生。先生!
先ほどから、思いが巡るのは先生のことばかり。
先生を思えば、枯れたと思った涙が後から後からこぼれてくるのです。
師である富田勢源様の犠牲にされたはずの先生は、備前長船長光をけっして手放さず、自分自身であるとまでおっしゃいました。
そのせいで物干し侍と笑われ、嘲られても、先生は穏やかであられました。
すべてを受け入れて生きられた先生は、最後まで武芸者である事にこだわりました。
三尺三寸の長太刀も、兵法家としての命を捨てるほどの矜持も、先生と富田様を繋ぐ絆なのだと思います。
恐らく先生も、私ども佐々木門下が先生を想うように、富田様を想っておられたのでしょう。
私どもの先生。
先生は、佐々木小次郎は天下一の武芸者でございます。
先生が編み出した秘剣とも呼ばれる、つばめ返しはいかなるつわものも斬って捨てる太刀でございます。
これほどの武芸者である先生が、名も残せず消え去るのは何という不憫でありましょうか。
その時私は先生の最後の望みを叶える事を決意したのです。
先生のお世話をした半年余りの間に、私はどこに何が納めてあるかを全て知っておりました。
水垢離で身を清めた私は、先生が若い自分に着用したという猩々緋の袖無し羽織に染革の立附袴を着し、一礼をとった後に備前長船長光を肩に掛けました。
私は袖や裾を整えると、船島に向かいました。
巌流佐々木小次郎は病で死なず、船島において円明流宮本武蔵と試合い、武芸者として死ぬのです。
先生のために私が出来る事は、もはやそれしか残されておりませんでした。
舟を借りて船島に渡った時には、すでに時間は巳の刻にかかっておりました。
舟を降り、砂浜に立った私に、何人もの門弟を従えた若い男が身の竦むような大声で叫ばれました。
「俺は約束通りに来た。お手前が遅れたは臆したるか!」
恐らく、あの若い方が宮本武蔵様なのだと思います。
紺の袷に襷をかけ、股立ちを取った革袴姿の宮本様は、私の顔を見て怪訝に仰いました。
「主が佐々木殿か」
「いかにも」
そうかならば致し方なし、と宮本様は日焼けした面に白い歯を剥き出しに笑われると、門弟から大振りの木刀を受け取りました。
大層大きな木刀でした。刀身を模した部分が長船長光よりも長いのです。
大仰な木刀は決して軽くなどないでしょう。宮本様はそれを片手でいとも簡単に素振って見せました。
木刀の切っ先が私に付けられます。
それだけで、漲りに漲った宮本様の気迫が伝わってくるようでありました。
「……いざ勝負」
「参りましょう」
私は長船長光を肩から下ろすと、鞘から抜きました。
刀の重さに逆らわず、自然に切っ先を下げます。
腰に力を入れて腰溜めに刀を構え直すと、左足を前に。
全ては非力な私が重い刀を振れるように、先生に教わった事です。
一度で良い。一度で。それで全ての決着が着く。私はそう思いました。
宮本様はゆっくりと円を描くようにじりじりと距離を詰められます。
「ああああああああああああああっ!」
私と宮本様の間合いが狭まると、突如宮本様は獣のような雄叫びをあげ、木刀を掲げて走り込んできます。
「!」
私は咄嗟に、下段に構えた刀を刃を返して掬い上げました。
間合いに優る長太刀、長船長光ならばこの一刀で勝負が決まった筈です。
しかし、
「ふうはっ」
長船長光の切っ先は、宮本様の袴の膝の辺りを切ったのみで空を流れました。
軽俊無双の宮本様は、切先の届くか届かぬか僅かな間合いの一瞬を読み、急な制動をかけられたのです。
いけない、と思いました。
宮本様は万全の策を用意しておりました。
あの大きな木刀も、長船長光との間合いを制するためにわざわざ作ったものでしょう。
しかし私は――
宮本様が再び踏み込み、木刀が振り下ろされます。
私の脳天に衝撃が走りました。
膝から力が抜け、硬く握り締めたはずの両の手から、長船長光の柄が離れます。
宙に浮いた心地のまま、私は仰向けに浜に倒れこみました。
死に際した恐怖もなく、私は安堵しました。
ああ。これで。
佐々木小次郎は船島にて宮本武蔵に敗れ、後世にまで永くその名を伝える事ができるでしょう。
青い空が見えます。
空を横切っていくのは海鳥でしょうか。
ああ、
あれは燕です。何て自由に空を……
先生。先生……せんせ……い……




