第二幕 秘剣つばめ返し
先生が我ら門下生にご教授下さった剣は、二尺三寸ほどの通常の長さの剣でした。
朝稽古が終わった後、井戸口で汗を落としていると、口の悪い二人の兄弟子らが笑いあっているのが聞こえました。
「俺が入門した時は竿を振らされると思ったものだ」
「佐々木門下の者が免状を与えられた後に、皆あのように長い刀を持ってぞろぞろと歩いてみろ、我らはよい笑い者になる」
「いやはや。有り難い話である」
聞き耳を立てる行為が、行儀の悪い事であるとは思っておりました。
しかし、兄弟子らの言う事に、私が共感を覚えていたのは確かなのです。
私の力では三尺を越える刀は、担ぎ上げる事が出来ても腕と背筋を伸ばして振り上げる事などできそうもありません。よしんば振り下ろしたとしても、刀に振られてしまい、体がついてこなかったでしょう。
剣術指南を受ける前に、私もあのような刀を持たなければならないのか、と不安になったものでした。
「いやいや、長い刀もそう馬鹿にしたものではないぞ。なんでも佐々木先生は、あの刃の長さを利にする秘剣をお持ちらしい」
手ぬぐいと桶を手に、井戸口を立とうとした私は不意に足を止めました。
まさか今更話を聞いていたとも言えず、口を挟めぬ私の代わりに事を問うたのは、もう一人の兄弟子でした。
「秘剣?」
「左様。従兄殿から聞いたのだが、佐々木先生の秘剣は、虎切りともつばめ返しとも言うらしい。こう、長い刀をだな」
そう言って兄弟子は空手で刀を構えたように身構えると、右足を下げ高々と最上段の構えを取りました。
そして、
「一息に振り下ろし、切り上げるのだ」
「なんだ。秘剣と言うからにはもっと人間離れした技かと思ったが、それではただの二段切りではないか」
「確かに俺がやって見せたのはそう見えても仕方がない。だが、佐々木先生の長身に三尺三寸もの刀が加わるのだ。間合いは広く、懐は深い。普通の刀を持って立ち会えば、こちらの切先が届かぬ距離から、先生の刀は飛んでくる。その剣音は空を破り、その剣光、電光の如く閃いたかと思うと、すでに相手は倒れていると聞く」
「なるほど。それは確かに恐ろしい」
「だが、佐々木先生は巌流の奥義とも極意とも言える秘剣を我ら門下に伝える気はないようだ」
「なにゆえそう言い切れる」
「佐々木先生が我らに秘剣を伝える気が御ありなら、我らは今頃竿を振っているはずだからな」
「違いない」
兄弟子達は笑いながら井戸口を去って行かれました。
先生はご自分の事を多く語らず、先生について知っている者はおりませんでした。
父の話では、諸国を武者修行で巡っていた折、羽柴越中守様の御家老様の眼にとまり、師範役として迎えられたと聞いております。
どこで何某という武芸者と立会い勝利を収めたという武勇伝を、先生は決して話しませんでした。
故に、城内では先生の強さを疑う者までいた始末です。
何を言われようとも。
どれほど軽く見られようとも。
先生はあの性格ですから、決して腹を立てたり、己の力を示そうとしたりはしませんでしたが。
ですがもしも。
先生が兄弟子の言うとおりの秘剣をお持ちなのならば。
いかに上手な武芸者が現れても、先生が敗れることなど有り得ない事なのではないでしょうか。
翌、慶長十六年の冬に先生は病を患われました。
その場に居合わせた訳ではないのですが、夜半に血を吐いて倒れたとお聞きしております。お医者様がおっしゃるには、治る見込みの薄い、肺腑の病である、と。
遅めの初雪が降った早朝であったと記憶しております。
私は先生のお屋敷へと駆けました。
寝屋まで通された私は、布団から上体を起こした先生を見て、言葉を失ったのです。
「弱りました。体の方が先に音をあげてしまったようです」
先生は穏やかに仰いました。
先生は御歳七十七歳。
病のせいでしょうか。
初めてお会いした時よりも髪は白さを増し、お体は細くありました。
一瞬たりとも先生から目は離せぬ。
私はそう思いました。
もし目を離せば、今にもこの心優しい武芸者の先生は、霞の如く消えてしまうと思いました。
錯覚などではないと思います。
吐いた血が先生のお体からぬくもりや色を奪っていったのでしょうか。
それほどまでに先生は、幻の如く儚く霞んで見えたのです。
先生が御城へのご出仕も叶わぬほどに衰弱されたため、佐々木門下は皆別の道場へ出稽古に出る事に相成りました。
先生の代わりとなる師範役が見つかるまでの急慮の策と言えるでしょう。
私は父から、寡である先生のお世話をするよう仰せ仕りました。
年が明け慶長十七年の正月。
私はお医者様に教えられたとおり、薬湯を煎じて先生にお出ししようとしました。
もはや満足に食事も喉を通らぬ先生がお体に入れられるのは、薄く伸ばした粥か薬湯ぐらいしかなかったのです。
いつものとおり、先生の寝屋に行き、私は驚きました。
布団に先生はおられませんでした。
どこに行かれたのでしょうか。
この時私はひどく焦りました。
歩く事もままならないのです。
どこかに行ける筈もないのです。
その時、私は気付きました。
枕元に置かれていた備前長船長光が、同様に消えていたのです。
もしや、と思いました。
もしや先生は、畳の上で死ぬ事を良しとせず、御自刃なさるおつもりでは、と。
私は必死に先生を探しました。
「先生! 先生!」
と声を上げ、お屋敷をくまなく探しました。
それほど遠くは行かない筈です。
先生は、しんしんと雪の降る裏庭にいらっしゃいました。
ですが、とてもではありませんが、私は先生に声をかける事が出来ませんでした。
剣を学んだ者ならば。
いいえ。
剣を学んだ事が無い者でも。
獣や鳥花、生きとし生けるものすべからくが、神仏でさえもが先生に声をかける事をはばかったでしょう。
冷たい冬の空気は緊張でさらに冷たく張り詰めておりました。
膝まで濡らし、薄く氷のはった池の中央に立った先生は、無音で刀を抜きました。
ゆっくりと。
先生は、冬の湖面に立つ白鶴のように浮世離れして見えました。
美しくありました。
歩く事も、立つ事も、先生には苦しい筈なのです。
しかし、先生の動きからは、微塵の病も老いも感じませんでした。
一体、何が先生を支えているというのでしょう。
何か、人を超える神々しいものが先生の細いお体に宿ったとしか思えませんでした。
滑らかな動作が始まります。
先生は鞘を置くと、右手を柄に添えて左足を下げて体を開きます。
長船長光の長い刃が静かに、鍔鳴りも衣擦れもさせず、一切の音が無いままに構えが取られました。
切先を下に、池の薄氷を割るように、構えた先生の構えは見た事が無いものでした。
――秘剣つばめ返し。
私はその時、不意に兄弟子の言葉を思い出しました。
一体どれほど、そうしていたのでしょう。
半時だったか。一刻だったか。
音は無く。
ただ静寂に。
動きは無く。
ただ不動に。
時が流れてゆきます。
そして――
ついに先生が動きました。
備前長船長光。その長い刃先は水面を音も立てずに滑り、波紋も飛沫もなく空へと離れました。
振り上げ、伸ばされた先生の手足。
最上段で水が刃を離れ、中空で一抹の雫となります。
雫が池に戻る前に。
ヒュンという風を切る音も無く。
切り返された刃が、雫を二つに割りました。
これが。
これが先生の持つ秘剣。
秘剣つばめ返し。
兄弟子の言うような、空を破る剣音も、電光の如く閃く剣光も有りませんでした。
すべての挙動は、静寂の内に行われ、静寂の内に終結したのです。
一体どれほどの武芸者が、これほどの無音の領域に進めると言うのでしょうか。
一体この秘剣を習得するために、先生がどれほどの修行を重ねたのでしょうか。
いつか先生は私におっしゃいました。
『物干し竿』は自分自身である、と。
音も無く。
語らず。
何を言われても。
心は常に穏やかに。
決して奢らず。
どこか不器用で。
しかして純粋。
その姿はどこまでも美しく。
秘剣と長船長光は、先生の生き様を全て余す所無く映しているようでありました。
その日を境に、病は一層の苛烈さをもって先生の体を蝕みました。
恐らく先生は分かっていらっしゃったのだと思います。
剣を振るえる日が最早来ないであろう事を。