22時の片思い
年齢を重ねると、一年があっという間に過ぎる。母親の言葉を全く信じていなかった自分に教えてやりたい。まさにその通りだと。
ただ、この数週間は別だった。確かに仕事に忙殺されているのであっという間ではあっても、早くこの日を迎えたいという思いに駆られて居ても立っても居られない。
睡眠不足。
落ちそうな目に抗って、資料の細かい部分に修正を加える。前倒しの仕事に切り替えてから、上司へのチェックが早まったのが仕事の出来に影響を与えている。
あの人のデスクを見た。この時間にも、彼女だったらいたのかもしれない。
彼女の後任も綺麗にデスクを片付けているので、風景は変わらない。しかし、ここから視線を向けると映る彼女の姿はもうそこにはない。
後任の利根さんは、彼女とは真逆の大柄で快活な男性だ。最初は緊張したが、自分の気持ちを汲んでからは、親身に仕事の相談に乗ってくれる頼れる先輩だった。
自分は先輩に恵まれている。
彼女に作ってもらった仕事の型を、利根さんは全く否定しない。それどころか、彼女の仕事に感心してやり方を尊重してくれていた。
俺も働いてみたかったな。俺の仕事とは違うけど、このやり方は勉強になる。
先輩を褒められるのは気分がいい。利根さんとはこの一年半で何度も食事に誘って頂き、様々な話をしている。今の自分の目標も、実は利根さんだけが知っていた。
個人用のスマートフォンのアラームが鳴る。午後九時五十分。周りに人がいないので、ゆっくりと止めた。
そろそろ時間か。
いくつか仕事は残っているが、とりあえず十時で区切ることにした。これなら、明日の朝一に済ませれば、充分打ち合わせに間に合う。
明日に関しては、時間通りに終わらせなければならない。気難しい先方に合わせていつも準備は入念だが、今回は質問が多くなれば新幹線に間に合わない。
細かい入力を続けたが、もう集中が切れているので力が入らない。自分のそういう甘さが憎らしい。
これでは、利根さんにも田宮さんにも追いつけない。
スマートフォンが震えている。個人用は着信を鳴らさないように設定している。
今日は電話か。
チャットの通知よりも長いので、サイネージを見ないでもわかる。電話なら、家に帰っていたかったと今日の判断を後悔する。あくまでも、主導権は向こうでいいのだ。
「すみません」
「遅いよ」
少しむくれたように彼女は返した。ここにいた頃とは違う口調に、不思議な気持ちになった。
「まだ仕事をしていました」
「なーんだ、奇遇ね」
普段より高い声、崩れた口調。言葉からして、おそらく彼女もオフィスに一人なのだろう。
「相変わらずですね」
「明日は大事なプレゼンだから仕方ない」
新しい職場での評判は分からないが、話の限りでは以前と変わらないように思える。
「明日はちゃんと終わるのよね」
「準備は出来ています。新幹線とホテルの手配、ありがとうございます」
「いいえ。たくさん飲ませるから、覚悟して」
冗談めかしていうと、ケラケラと彼女の笑い声が受話器越しに聞こえる。
一年前の秋に、彼女は大阪支社に異動した。そこから会えずに過ごすことになったが、こうやって夜十時、つまり二十二時にチャットか電話が来るようになった。
最初は簡単な会話や部署のみんなの話をしていた。告白に近い話はできたものの、まだ自分は彼女に釣り合わない。そう思っていた分、踏み込んだ話はできなかった。
しかし、彼女は積極的に話をしてくれた。毎日会社で顔を合わせていた田宮主任ではなく、田宮香澄を沢山知ることになった。
距離を置けば置くほど、仕事の話は減っていく。同時に知らない田宮さんの表情が蓄積されて、それが会いたいという気持ちを徐々に膨らませていった。
次に会うのは、成長した時にしなければならない。
こんな自分であっても持っていた小さなプライド。しかし、我慢できずに本音を打ち明けてしまった。その答えが、明日の予定として実現したのだ。
「すみません。もっと成長してから会うと言ったのに」
「そうしたら、悠木とはいつになっても会えないでしょう」
からかうように言われて、恥ずかしくなる。部署を離れても関係は変わらない。
「すみません」
「また嫌な悠木が顔を出す。そんなことはないって言い返すくらいはしてよね」
呆れたように彼女は溜息を吐く。返すことなく、黙ってしまった。
「まあ、いいや。説教も何もかも、明日会ってから全部してあげる。私ももう帰ろうかな。この後はチャットするから」
「わかりました。自分も切り上げます」
「ふふっ、じゃあね」
こんなのでは、彼女は自分を好きになってくれるなんて考えられない。電話が切れて静寂が流れるオフィスでがっくりと肩を落とした。
自信もなく、能力も劣る。こんな自分には、彼女の存在は大きすぎる。
スマートフォンが震える。彼女からのコメントが入っていた。
もっと自信持てよ。明日会う時にはいい顔をしておくように。
怒った顔をした熊のスタンプが付いている。こうやって注意されるのは久しぶりだが、その通りだ。明日は待ちに待った日だけに、こんな気持ちで会うのだけはやめよう。
謝ったパンダのスタプで返した。すぐに怒った顔の熊がもう一体現れた。
あの言葉、覚えていますか。
短い文章が一緒に添えられる。この質問は何度目になるのか。直せない自分が嫌になる。ボタンを押し合始めると、既に予測変換に出てくるようになっているのが情けない。
後ろ向きになる時間を、いかに成功のイメージを考える時間に変えられるか。
正解と可愛いフォントのスタンプが来た。大体、この話題はこれで終わる。予想は当たっていたようで、ここからは他愛のない会話と明日の電車やおすすめの駅弁紹介などが続いた。
お互い移動しながらなので、途切れながらも続くチャット。仕事の時と違って、話題が行ったり来たりする。こうやって続いても、必ず十一時にはぱったりと収まる。これだけはルールのようで、緊急時以外にはこの時間以外には返信すらなくなる。
そんな彼女に合わせる時間が、自分にも一日で一番落ち着ける時間になっていた。先輩に本来感じなかった人間臭い部分が、更に彼女を好きにさせていく。
頼りない自分を心配して構ってくれている彼女をこのまま好きになっていいのか。
消しきれないネガティブな感情は捨てよう。見られないほどの駅弁とお菓子の写真を送ってくる彼女に返信をしながら、大きく息を吸った。
「この資料で問題ない。よく作ったな」
朝から利根さんの高いせい量が頭に響く。体格がよく、見た目からの体育会系。厳しさも持ち合わせているが、やる気のある人間にはとことん付き合ういい先輩だ。
「確認を頂き、ありがとうございます」
「悠木は話すときに自信を持つだけ。特に資料作りは俺も参考にしている」
前任の先輩のおかげです。言いかけて黙った。ここまでくれば、この力は自分のものだ。そう思わないと、また叱られる。
「そういえば、今日は直帰か」
「はい、この後予定がありまして」
咎められるかと思ったが、利根さんは明るく笑った。
「悠木は最近追い込み過ぎているから、少し安心した。仕事から離れる時間も大事にしろよ」
仕事人間と言われる利根さんから、そんな言葉が出るとは思わなかった。しかし、利根さんは既婚者で、奥さんと二人の娘を大切にしている話はよく聞いた。
「ありがとうございます」
時間が来たので立ち上がる。頼れる主任の言葉に力をもらえた。今日は必ずうまくいく。
「そういえば、田宮さんは元気か」
わざとらしいとぼけた表情で、利根さんが視線を向けた。
「あの・・どういう・・・」
「昨日同期と話していたら、名前が出たから」
話す機会はあるが、毎日チャットをしているとまでは報告していない。墓穴を掘りそうなので、変なことは言えない。
「ちょっと前に少しだけ」
「そうか。向こうでも有名らしい。仕事が出来る美人で、彼氏がいなければ狙っている社員は多いらしい。特にあの支社は、がっついている人間多いからな」
心に影が差す。彼氏持ちの嘘は続けているのは安心するが、向こうには仕事の出来る自分とはレベルの違う人間が沢山存在する。彼女の心がいつ変わってもおかしくないのだ。
「そうですか」
余計な気持ちが漏れないように素っ気なく返した。
「心配するな。彼女は全部断っているらしい。東京に大事な人を置いてきたと、仲のいい経理にだけ打ち明けたらしい」
東京に。まさか。
「悠木、人は仕事のできだけで人の価値を図るものじゃない。悠木の良さが彼女にとっていいものであれば、胸を張って一緒にいればいい」
「自分のいいものですか」
「それは自分で考えろ。余計な話まで悪かった。今日は楽しめよ」
わかっていたかのようにこちらの肩を叩くと、利根さんは先にデスクに戻った。否定するのを忘れたが、いまさらいったら更に怪しくなる。仕方なく、仕事に戻った。
その後の時間はあっという間だった。自分のスケジュール通りに進むタスクに目を回す。余裕を持たないスケジュールでいないと間に合わないように新幹線の予約をしたのが間違えだったようだ。しかし、そんなこと言っていられない。
先方にも彼女の話をせずに切り上げるのは大変だったが、何とか東京駅には時間通りに到着した。すべては見られなかったが、最初に送ってくれた洋菓子の専門店へ足を運び、改札付近で駅弁も購入できた。
あまり出張のない職場なので新幹線は緊張する。そもそも、関西だって経験がない。新幹線のホームに来ると、彼女への想いと未開の地への不安で心拍数が上がっている。
これから乗ります。
既読は付くものの、返信はやはりない。ここは徹底されている。
予約された席を見つけて、沈み込むように座った。やっと息をつく時間が出来たので、力が抜けてしまった。
ゆっくりと彼女とのチャットを見返した。物理的な距離と反比例して、見えなかった田宮香澄が見えてくる。
引継ぎの最終日に渡した絵画展は、親友と日程が合わなかったので二日間一人でいったこと。
サッカー好きと言われていたが、実は部内の空気に合わせていたこと。
意外に恋愛の映画やドラマが好きで、休日には映画館か家で気になった物語に浸って涙を流していること。
年の離れた経理と仲良くなり、昼や夜に美味しい店に行ってご飯を食べていること。
わずか一時間の会話に、様々な彼女が見え隠れする。その日に感じた彼女の気持ちを聞いては、その時の表情を想像していた。
どんなに言われても、彼女が好きなのは事実なのだ。
新幹線に揺られながら、自分の気持ちを再確認した。自分には勿体ない人間であっても、しっかりと気持ちだけは伝えたい。
長い道のりにしばらく目を閉じた。どんなに焦っても、新幹線の速さは変わらない。はやる気落ちを収めようと、仮眠をとった。
到着は二十一時五十分。既に時計は二十一時四十六分になっていた。
彼女のことばかりで食欲がわかなかったので、駅弁はそのままになっている。彼女へのお菓子と一緒に紙袋に収めた。
周りが席を立ち始めるのに合わせて、こちらも席を立った。遅い時間だが、同じようなサラリーマンや外国人など様々な格好の人と一緒に列を作る。
駅のホームに降り立つと、改札口へ向かう前に到着の連絡をした。やはり、既読のみで返信はない。ゆっくりと改札へ足を進めた。
階段を抜けて改札口が見えると、鼓動が一気に早くなった。改札を出たところに、彼女が立っていた。
「お久しぶりです」
何というべきか迷ったが、普通の言葉しかでなかった。彼女は大きなバッグを肩にかけて、紙袋を持っていた。腕にジャケットをかけていて、グレーのパンツスーツに水色のボタンレスのブラウスという姿なのに周りの目を引いているように見えた。
彼女は無言で腕時計に目をやった。午後十時。にこりと表情を崩した。
「やっと会えた」
「返信してください。心配しましたよ」
たぬき顔で穏やかな顔が、笑顔で目尻を落としたので更に穏やかに見えた。ほんのりと顔が赤いように見える。
「さっきまで部内の飲み会に誘われていてね、中々帰らせてくれなかったから焦ったよ」
質問に答えないで、彼女は歩き出した。
「大変でしたね」
「部内で女性は私だけだから、どうしても誘いたいらしい。可愛がってくれるから、悪い気はしないけどね」
そう言って、くるりとこちらを振り返った。
「そういえば、今日はここに来るって誰かに言った」
「会社の人間には言っていません」
「そう、よかった」
思い出したかのように、彼女は息を吐いた。
「何かありましたか」
「うーんとね、あまりに抜け出せなかったから、大事な人に会うって言っちゃったから」
そう言って、視線を前に戻した。伸ばした髪を縛っているので見えた首筋も、少し赤みを帯びている。
「大事な人・・・」
「そこは間違っていないけど、変な噂になるのは嫌だから」
顔も見えないので、言葉の意味が分からない。でも、ここに彼女が赴任したのは仕事で結果を出すため。恋愛などの噂は仕事の邪魔になってしまう。
「すみません」
「また謝る。悪い癖だね」
淡々とした口調で諭された。しかし、ここでも彼女はこちらを振り向かない。
在来線の乗り換え口に来たところで、彼女は止まって振り返った。
「悠木さん、ごめんなさい」
わざとらしく、手を合わせた。
「今日、ホテルの手配出来ていない」
焦ったように手を合わせるが、彼女は演技がうまくない。しかし、こういう場面でいい言葉が思いつかない。
「大丈夫ですよ。この辺りなら今からでも素泊まりならありそうですから」
「そうじゃない。いや、そうだけど・・・察してよ」
最後の言葉は小声で独り言のようにつぶやいた。何となくわかるが、双方口にできないまま混雑する構内で二人だけが静寂のような時間が訪れる。
「仕方ないね、私のミスだから責任取って部屋に連れて行ってあげる」
なんかいきなり偉そうに、彼女は腕を組んで見せた。
「悪気を感じさせませんね、その態度」
「嬉しくないの。まだ兄貴しか来たことないのよ」
先輩相手への言い方ではなかったが、彼女も気にせずに言葉を続けた。ここで言い合っても仕方ないので、一緒に向かうことにした。
「むしろ、いいのですか」
疲れと混雑のせいで意識が飛んでいたが、女性の部屋に誘われていたことに気付き、背中から汗が流れる。
「いいよ、結構話が長くなりそうだから、居酒屋だと閉店してしまうでしょう」
一体何時まで話す気なのだろう。この微妙にいつもとは違う彼女の言いなりになるまま、彼女の家まで三十分ほど電車に揺られた。
着いたのは閑静な住宅街。その中で比較的新しい見た目のアパートに彼女は入っていった。玄関のオートロックを開錠すると、二階の部屋まで階段を上った。
「散らかっているから、ごめんね」
口で言ったものの、部屋は綺麗に片付いている。強いて言えば、テーブルに飲みかけのコーヒーが置かれている程度で、ほとんど無駄なものが置かれていなかった。
「綺麗な部屋ですね」
「あまり見ないでよ。恥ずかしい」
さっきから表情が緩んだままなので、何を考えているのかわからない。彼女は持っていた紙袋から総菜を出すと、テーブルに並べた。
「ここの総菜、美味しいの。前に話した経理の前沢さんに紹介されてね。絶対食べてほしいと思って」
ジャケットをハンガーにかけると、こちらにも手を伸ばした。頷いて、ジャケットを渡す。先輩にやらせてはいけないと思いつつ、慣れた動きに何も言えなかった。
多分、こういう経験は沢山あるはず。
嫌な感情を隠すように首を振った。
「ありがとうございます」
「いきなり何よ。何に対してのお礼なの」
彼女は怪訝そうな表情を浮かべた。冷蔵庫から缶ビールを二本持ってくると、自分の前に一本を置いた。
「こうやってお時間を頂けて・・・」
「あげたつもりはないよ。だって、私も会いたかったから」
言いながらプルタブを空けて、強引にこちらの缶に当てた。合わせるように自分もプルタブを空けて、彼女の缶に当てて飲んだ。今日は一日動き回っていたので、全身にアルコールが流れて気持ちがよい。
「大阪はどうですか」
彼女の言葉に言い返しがないせいで、別の話題にしてしまう。先ほどから、会話になっていない。
今までなら、もっと自然だったはずだ。しかし、自然な話し方すら思い出せない。
「いいところだよ。営業はきついけど、日々勉強させてもらっている。東京にはいなかった熱血漢が多くて、みんな尊敬できる人ばかり」
彼女は髪をほどいた。東京の時よりも伸びた髪は明るめに染めていて、イヤリングが反射して光った。
「いいですね」
「なーに、嫉妬でもした」
からかうように笑った。こちらの気持ちもお見通しのようで、なぜか悔しさを覚える。
手を引っ張るなんて、出来るわけない。
「嫉妬なんて、出来る立場ではないので」
不貞腐れるように言ってしまったのを、彼女は睨んだ。
「嫉妬してほしいけど」
「えっ」
「なんで、そんなに弱気なのよ」
彼女は身を乗り出した。少しアルコールの香りがしたが、同時に何かの花のような香りがほのかにした。
「ねえ、答えて」
主任の時のような強い言い方でこちらをまっすぐに見た。もう、嫌われてもいい。本音を言うしかない。
「田宮さんはみんなの憧れです。今回だって、自分よりも仕事が出来る人たちからも言い寄られているって噂も聞きました。そんな人を振り向かせるなんて、今の自分にはできません」
すっと、心にあったものが外に出たので胸がすっとした。しかし、言ってはいけない話をしたようですぐに背中が冷たくなった。
「ばーか」
一気に残りのビールを飲み干すと、彼女は笑い出した。
「仕事の出来なんて、そんなの関係ないよ」
「だって、田宮さんの手を引いてほしいって・・・」
「手を引っぱりたいといったのはあなたでしょう。私は言われたから待っていただけ。別に、あなたにそれを求めていますなんて言いましたか」
目を大きく開いて質問をした。喧嘩しているまではいかないが、口調は強い。
「言っていないです」
どうだと言いたいような表情で、こちらを彼女は見ている。負けた気はするものの、何を言いたいのかは出てこない。
「つまり、そういうこと」
「どういうことですか」
「最低、鈍感、意気地なし・・・本当に最低」
彼女は目を細めて吐き出した。
「そこまで言いますか」
「言います。だって、女性に言わせる話ではないの。察してよ」
口の悪い彼女も初めてだった。顔を真っ赤にして強い口調の彼女にばかり目が行っているせいか、確かに判断が鈍くなっている自覚は充分にある。
「何も考えずに、私に対しての気持ちをぶつけてください。私はいつでも待っています」
そう言って椅子から立ち上がると、冷蔵庫からもう一本缶ビールを持って現れた。
「えっと、田宮さん・・・自分は・・・」
「はい、しっかーく」
目の前で手を交差させて、バツ印を作った。
「相変わらずだよね。この話だけはちゃんとしてほしい。だから、今日は受け付けません。またの挑戦をお待ちしていまーす」
酔っているが、本音であるのは変わりない。瞳はしっかりしており、意識が飛んでいることもなさそうだ。
「すみません」
「本当だよ。もう、すごく楽しみだったのに」
とてつもない幸せな時間のはずだが、想定外の出来事についていけていない。帰りの新幹線の中で思い返して頭を抱えることになったのは後の話である。
「あと、約束忘れない。ちゃんと話す際には、香澄と言ってね。わかりましたか、伊織さん」
「はい」
突然自分の名前を呼ばれて驚いたが、彼女はいたって普通にしている。
「そうだ、これ今のうちに渡します」
買ってきた洋菓子の紙袋を渡した。
「何、これ。ああ、食べたかったのよ」
彼女は紙袋に入ったビニール袋を取り出して、笑顔を見せた。
「この弁当のお肉が柔らかいの」
「違う、香澄さん。それ、自分が食べられなかった弁当です」
弁当を入れたままにしていたのを忘れていて、焦って彼女を名前で呼んでしまった。彼女は一瞬固まったが、視線を戻した。
危ない、調子に乗って名前を呼んだのは気が付いていないようだ。
「なんだ、弁当も私のかと思った。ごめんなさい」
嘘が付けない人。耳まで真っ赤になって、わざとらしく紙袋に顔を隠すようにしている。お茶目な間違いをするところも、彼女のいいところだ。
「弁当も一緒に食べましょうか」
「いいの、嬉しい」
彼女は立ち上がった。取り分け用のお皿でも持ってきてくれるのか。自分も手伝おうと立ち上がった。
その姿に気が付き、彼女がゆっくりと近付いた。
ヒールを履いていないと、彼女は少しだけ自分よりも低くなる。いつもは大きな彼女が、今日は小さく見えた。
「悠木、ありがとう」
「何のことですか」
先程とは逆の立場になったので、ゆっくりと質問をした。彼女は俯きながら体をこちらに近付ける。
「毎日二十二時からの一時間。本当にありがとう」
理由を言わずに、彼女は自分に腕を回した。今まで感じたことのない彼女の熱を感じる。先ほど嗅覚を刺激した花の香りがまた香ってくる。落ち着いた香りで、緊張が少し収まったような気がする。
「私、あの時間が大好き。何も隠す必要がないから」
「自分も、あの時間が大好きです。沢山の主任が見られて嬉しいです」
いいことを言えたと満足している自分に、彼女の視線が刺さった。
「主任・・・」
「いたた・・・」
彼女がぎゅっと腕に力を入れられたので、苦しくなった。
「本当に今日の悠木は失格です」
「すみません」
「悠木のいいところ、そして女心を理解して、自信を持って次に会うのを楽しみにしています」
「はい。約束します」
見上げて話す彼女を直視できず、まっすぐに前を見た。
自分のいいところか。
利根さんとの会話を思い出した。おそらく、彼女は自分の何かを気に入ってくれている。それが何かを気が付いていないのが自分の問題なのだ。
仕事は絶対に頑張るが、田宮さん、いや、香澄さんは自分を必要としてくれているのだ。
後ろ向きになる時間を、いかに成功のイメージを考える時間に変えられるか。
もう一度反芻した。彼女との関係を続けていくために、考えを変えていこう。また会ってくれると彼女は話してくれたのだ。チャンスはある。
既に抱き着かれているという奇跡的な状況が、酒のせいか全く入っていなかった。
「じゃあ、次こそは待っているからね。これ以上は待ちたくないよ」
「はい」
今度は強く返事をした。その瞬間、彼女は右腕でこちらの後頭部を強く掴んだ。
遠くから見ていた憧れの存在は、遠くでは大きく、近くではとても小さかった。柔らかい唇が重なり、閉じた目が視界に入ってくる。おそらく数秒だったが、その間頭は真っ白になっていた。
「今日はここまで。さて、沢山話をしましょう」
すっと、彼女は離れた。
「はい」
その後は一緒に話をして、気が付けばリビングで雑魚寝をしていた。
この日のことは一生忘れず、彼女と語れればいいな。
あの時は、そんな気持ちのまま東京へ帰った。




