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虫の知らせ

掲載日:2026/08/29

 動線を乱したくない。

 仕事を終えて駅まで歩き、電車の先頭車両に乗り込む。電子書籍で購入した小説を読みながら三十分ほど電車に揺られる。最寄り駅に着き自宅のマンションへと歩く。道中いつものコンビニに寄り、手頃なスイーツかスナックを買う。金曜ならこれが酒とつまみになる。

 

 マンションに着き、エレベーターで七階へ。部屋の鍵を開け靴を脱いでリビングへと向かう。電気を点け、テーブルの上に置いたリモコンを手に取りテレビに向ける。


 無音が苦手だった。外では基本的にイヤホンをつけ音楽かラジオを流す。とにかく何かしら音が鳴っていないと落ち着かない。我が家とはいえ、BGMがなければ快適な空間は完成しない。仕事で疲れた心身の為にも、手を洗うよりも前にテレビをつけるというところまでの動線は、出来る限り乱したくなかった。


 しかし、その日は違った。

 リモコンを手に取りテレビに向けたところで俺の動線は乱れた。


 ーー何だ?


 何も映っていない黒い画面に、薄っすら赤みを帯びた輪のようなものが見えた。数字の0の上と下の部分が見切れたような形で、赤みがかった線が消えたテレビの画面に浮かんでいた。

 汚れだろうか。昨夜にはこんなものなかったし、今日の朝も特に気付かなかった。仕事に行っている間に何かしらの要因でついてしまったのだろうか。にしても、こんなふうに汚れがつくだろうか。不審に思いながらリモコンを置き、一歩テレビの方へと近づいたその瞬間、


 わさささぁぁ。


 大量の小虫が散り散りに逃げるように、赤い点がテレビの四隅へと蠢きながら消えていった。画面には反射した部屋と呆然とその場に硬直する自分の姿だけが残った。


 今のは一体なんだ。

 怪奇現象か、はたまた幻覚か。

 

 恐る恐るテレビに近づく。そっと指先を伸ばし画面に触れる。赤い線が浮かび上がった部分から四隅まですぅっと指を這わせていく。

 何もない。間近で見て触れても、あの赤く蠢く何かの痕跡はまるで辿れなかった。あるわけないと思いながらテレビの裏側も覗いてみたが、当然のようにケーブルが繋がった背面がそこにあるだけだった。


 どん、と上階から物音がした。

 防音性はまずまずで隣の部屋の声や物音はまるで聞こえないものの、上階の床を鳴らす音はある程度響いた。ただ普段の生活に支障をきたすほど気になるものではないので、特に文句を伝えようと思ったこともない。しかし今、その音がやけに大きく感じた。先程までの理解不能な存在と現象のせいで感覚が過敏になっているのかもしれない。自然と脈拍も上がっている。


 落ち着こう。動線を取り戻さなければ。まだ寒気が背筋に残っているが、リモコンに手を伸ばしテレビの電源を入れた。

 バラエティ番組が映し出され、こっちの気も知らず手を叩きながら笑うタレントや芸人の笑い声が響いた。ただおかげさまで音が空間を満たす事で少し心が落ち着いた。そう思っていたところに、<ニュース速報>という文字とともに速報を知らせる音が鳴った。何があったのかと画面を注視した。


【東京都○○区の○○駅前で、男が刃物で通行人を襲う事件が発生。複数の死傷者が出ている状況】


 全身に怖気が走った。事件はつい先程まで働いていた自分の職場の近くだった。


 なんとなく、虫の知らせという言葉が浮かんだ。

 赤い小虫が現れた理由に何かがあるとすれば、今しがた報道されている事件が関係しているように思え、逃げ惑う民衆と流れる血を連想させた。

 ただそれ以上何を考えても分かるはずもなく、突如現れた怪異の恐怖を引きずりながら風呂と食事を済ませた。恐怖を紛らわせようと動画を見漁った結果、あまり苦労せず眠りにつくことができた。


 あれは一体何だったのか。もう引っ越したこともあって、結局答えは分からずじまいだ。今思い返しても奇妙な体験だった。あれから二か月程過ごしたが同じような現象は起きなかったし、それ以外に何か奇妙な現象に見舞われることもなかった。

 だがもうあの部屋にはいたくなかった。あの日からしばらくして、もう一つ奇妙なことを思い出してしまったからだ。


 赤い小虫を見た時、テレビには何も映っていなかった。

 そう、何もだ。本来反射した光景が映るはずの黒い画面には、部屋も自分も何一つ映っておらず、どす黒く塗りつぶした漆黒の上にあの赤い線だけが浮かび上がっていた。


 赤い輪が消えた後、画面には反射した部屋と自分がちゃんと映っていた。

 あの瞬間、画面には赤だけでなく黒い異常が存在していた。

 画面を覆い尽くす何かが、あの時そこにいたのではないか。そんなふうに思えてならなかった。

 考え過ぎ。気のせい。全てをそれで片付けたかったが、結局気持ちの整理がつかず部屋を出ることにした。


「なんでだろうね。別に何もないのにこの部屋長続きしないんだよね」


 退去の日、管理人から言われた言葉で自分の選択が間違っていなかったことだけは確信した。

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