災厄の魔法少女〜相棒を奪った侵略者達を私は許さない〜
夕暮れ。
崩壊した市街地。
赤い結晶でできた怪物達が暴れ回る。
ワニのような異形は車両を噛み砕き、サルのような異形は異様に長い腕で街路樹や信号を薙ぎ払う。
あちこちで爆発が上がり、黒煙が夕空を覆っていた。
「ハッハァァァ!!」
赤い影が空から落ちてきた。
「死に晒せぇぇぇッ!!」
炎の拳が炸裂する。
怪物の頭部が地面へめり込む。
さらに蹴り、肘、頭突き。
最後の一撃で巨体が吹き飛んだ。
後方。
白い魔法少女。
金色の魔法陣。
シャイン。
その正体は、ハル。
「ブレイズ!」
魔力収束。
光が集まる。
巨大な砲撃。
「右です!!」
光線が怪物を吹き飛ばす。
ブレイズの死角へ回り込もうとしていた一体も、光の槍が撃ち抜いた。
「ナイスだシャイン!」
爆風の中で笑う。
炎を纏った赤い魔法少女。
ブレイズ。
その正体は、アカリ。
「口が悪いですよ!」
「うるせぇ!!コイツらは皆殺しだァ!!」
「だから口が悪いです!!」
「悪党に敬語使う趣味ねぇんだよ!!」
「二人とも!戦闘中ポム!」
白い光球が二人の間を忙しなく飛び回る。
契約精霊ポメポメが、呆れたように叫ぶ。
「はいはい!」
ブレイズは笑いながら怪物へ駆ける。飛び掛かりざまに拳を叩き込み、顔面を陥没させた。
その背中を見て、シャインは思わず苦笑する。
いつもこうだ。
乱暴で、危なっかしくて。
でも、誰よりも前へ出る。
それがブレイズだった。
周囲には無数の結晶片。崩れた建物。倒れた敵。
残っているのは、最後の一体だけ。
幹部級。
傷だらけになった異形が膝をつく。
黒衣の人型。顔の左半分だけが人間の男を模していた。右半分は滑らかな赤い結晶に覆われている。その表面には、目の位置から顎まで縦一直線に大きな亀裂が刻まれていた。
勝負は決していた。あと一撃、それで終わる。
そう思った。
だが。
幹部の身体が、ぐにゃりと崩れる。
赤い結晶が波打つ。
か細い声が響く。
『たすけて』
揺らいでいた輪郭が、泣いている少女の姿へ変わる。
『お願い』
震える体に怯えた表情。
小さな手が、縋るように伸びる。
『死にたくない』
その姿はあまりにも人間だった。
シャインの動きが止まる。
胸の奥が揺れる。
違う、何かがおかしい。
頭では、分かっているのに。
ブレイズが叫んだ。
「騙されんな!!そいつは人間じゃねぇ!!」
シャインは息を呑む。
一瞬だけ、その涙を信じそうになった。
その刹那。
少女の口角が、ぐちゃりと裂ける。
ブレイズの顔色が変わった。
「ハル!!」
『愚かだな』
胸部が弾ける。巨大な結晶槍が放たれた。
一直線。
シャインへ。
あまりにも速い。
反応できない。
避けられない。
死ぬ。
ドンッ!!
身体が弾き飛ばされる。
視界が回転する。
アスファルトを何度も転がった。
何が起きた。
耳鳴り。
土埃。
ゆっくり顔を上げる。
そこで、世界が止まった。
自分がいたはずの場所に、アカリが立っていた。
その胸を貫く、赤い結晶槍。
「あ……」
アカリも驚いた顔をしていた。
助けるつもりだったのか。
考えるより先に動いたのか。
もう分からない。
結晶が広がり始める。
胸から、肩、腕、首へ。
赤い侵食が全身を覆っていく。
アカリは泣きそうな顔で笑った。
いつもの笑顔ではない。強がりでもない。
「ハル」
唇が震える。涙が頬を伝う。
「生きろ」
パキ。
結晶が頬を覆う。
ハルを見つめたまま、瞳が赤く閉ざされていく。
やがて、その姿は静かな彫像へと変わった。
幹部が近付く。
アカリの前で立ち止まる。
そして、指先で肩を小突いた。
パリン。
小さな音がした。
なのに、ハルにはそれが遅れて届いた。
音が遅い。
視界が遅い。
世界が遠い。
足が動かない。
呼吸だけがやけに大きい。
目の前で、亀裂が走る。
パキ。
次の瞬間には、もう広がっていた。
パキパキ。
パキパキパキ。
崩れる音だけが、妙に澄んでいた。
ガシャァァァァァン!!
アカリが砕けた。
粉々に。
赤い欠片が、空へほどけていく。
手を伸ばしても届かない。
どこか遠くで、白い光が騒いでいる気がした。
聞こえない。
幹部が何か言っている。
聞こえない。
風も。
爆発も。
何もかも遠い。
ただ。
空へ舞う赤い欠片だけが見えていた。
「あかり」
声が漏れる。
返事はない。
「あかり」
もう一度呼ぶ。
どこかにいる。
そう思いたかった。
「どこ」
掠れた声。
瓦礫の陰。
崩れた道路。
視線が彷徨う。
「出てきてよ」
ぽたりと涙が落ちる。
その時だった。
赤い欠片が渦を描く。
幹部の周囲へ、吸い寄せられるように。
「あ……」
一片。
また一片。
空を漂う赤が消えていく。
手を伸ばす。
届かない。
欠片は流れていく。
「やめて」
また一片、消える。
「……やめろ」
伸ばした指先の向こうへ、赤い光が吸い込まれていく。
何もできない。
止められない。
守れなかった。
助けられなかった。
そして、最後に残った欠片までもが幹部へ向かう。
「いや…」
小さな声。
欠片は止まらない。
「返して」
声が震える。
最後の欠片が吸い込まれていく。
「返せ」
瞳から涙が溢れる。
そして。
「返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
ハルの身体から赤黒い光が噴き上がった。
禍々しい光が爆発する。
大地が揺れる。
空が軋む。
渦を描いていた赤い欠片が嵐のように周囲へ散った。
ポメポメが息を呑む。
「災いの光ポメ……」
幹部が初めて後退した。
『何だ』
禍々しい奔流を見つめる。
『貴様は、何になった』
少女は答えない。
もう、そこにいたのはシャインではなかった。
幹部の姿など、もう見えていなかった。
街の瓦礫の中。
災厄の光を纏った獣だけが、失ったものを取り戻そうと慟哭していた。
……
…
■半年後:市街地
朝。
昇ったばかりの陽光が、高層ビルを照らす。
その光を切り裂くように、サイレンが街へ響き渡った。
黒煙。
避難誘導。
赤い結晶がビルを侵食し、異形の怪物が街を蹂躙していた。
「民間の侵食者を下げろ!」
「結界維持!」
管理局の隊員達が、必死に抵抗する。
その時だった。
空から黒衣の人型が降り立つ。
顔を走る縦傷だけは、半年前と同じだった。
侵略者である怪物達の幹部。
それがゆっくりと片腕を振るう。
ドォォォン!!
赤い衝撃波が街路を薙ぎ払った。
防御結界が砕ける。
隊員達が吹き飛ぶ。
アスファルトが抉れ、車両が宙を舞った。
「第一防衛線崩壊!」
「負傷者多数!」
避難区域では医療班が叫ぶ。
「侵食率上昇!」
「急げ!」
結晶に侵食された市民達。
このまま結晶化すれば、存在ごと消える。
記録も、記憶も、思い出も。
何も残らない。
黒衣の幹部が片手を掲げる。
街を蹂躙していた怪物達が姿を変え、次々に結晶槍へと置き換わる。
空が、赤く染まる。
隊員達が青ざめる。
「上空反応増大!」
「結界を張れ!!」
青白い防御結界が展開される。
『愚かな人類よ』
赤が脈動する。
『文明も、生命も、全て我々の資源となるのだ』
■ビル屋上
ハルは街を見下ろしていた。
爆発、悲鳴、赤い結晶。
全部見慣れた光景だった。
毎日、夢で魘される。
赤い髪、笑う顔、砕ける音。
――生きろ。
ポメポメが不安そうに揺れる。
「行くポム?」
視線の先。
黒衣の幹部、顔を走る縦傷。
忘れるはずがなかった。
夢の中で、頭を砕き、喉を潰し、心臓を抉った。
それでも足りなかった。
ハルの身体が怒りで震える。
「お願いします」
静かな声。
「今日こそ」
拳が握られる。
「殺させてください」
「……分かったポム」
白い光球が、小さく決意するように上下した。
「心装増幅!心を武器に変えるポム!」
赤黒い光が溢れ出す。
ハルは静かに告げた。
「チェンジ・オン」
光が空へ噴き上がる。
「カラミティ」
ドクン。
胸の奥から、災厄の鼓動が響く。
舞い上がった赤いリボンが胸元で大きく結ばれる。
そこから溢れた光が黒いドレスを形作っていく。
幾重にも重なるフリル。
夜を溶かしたような黒いスカート。
肘まで包む長手袋。
足元には赤いリボンを結んだ編み上げブーツ。
長い金髪。
赤金の瞳。
誰もが憧れる魔法少女。
そのはずだった。
けれど、胸元の真紅のリボン。
その中心で脈打つ災晶だけが、あの日から止まったままの心臓みたいだった。
静かに一歩踏み出す。
ビルの縁。
迷いはない。
カラミティは虚空へ身を躍らせた。
赤黒い軌跡が空を裂く。
大地が砕ける。
衝撃波が街路を駆け抜け、アスファルトが蜘蛛の巣状に陥没する。
土煙が高く舞い上がった。
ゆっくりと晴れていく砂煙の向こう。
赤金の瞳だけが、静かに幹部を見据えていた。
隊員達が息を呑む。
「カラミティ……」
希望の象徴。
そして災厄の象徴。
だが、その名を呼ぶ声も、恐れの視線も届かない。
彼女の世界には、黒衣の幹部しか存在していなかった。
そして、幹部もまた、その姿を見据えていた。
『……貴様か』
半年前には存在しなかった異常。
『あの時の片割れ』
僅かに首を傾げる。
『人には過ぎた出力だ。何故、貴様だけが壊れない』
ドクン。
胸元の災晶が脈打つと共に、空気が軋み、目に見えない衝撃が周囲へ走る。足元のアスファルトに亀裂。砕けた瓦礫が音を立てて跳ねた。
『理解できない。何が貴様を突き動かす』
カラミティは答えない。
俯いたまま、握り締めた拳から血だけが落ちる。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
空っぽな笑顔だった。
「何が私を突き動かすのか。……私も知りたいですよ」
自嘲するように笑う。その笑みとは裏腹に、目に見えない衝撃だけが周囲を破壊していく。
「憎いのか」
一歩。
「返してほしいのか」
また一歩。
「殺したいだけなのか」
止まる。
「全部です」
静かな声だった。
「あなたを殺したら、私はどうなるんでしょうね」
遠くで瓦礫が崩れる音だけが響く。
「一つだけ」
空っぽの瞳が幹部を見据える。
「どうして、まだ生きてるんですか」
次の瞬間。
大地が爆砕する。
幹部の視界から、カラミティが消えた。
『な――』
拳が顔面へ突き刺さる。
結晶が砕ける。
首があり得ない方向へ捻じ曲がる。
幹部の身体が弾丸のように吹き飛び、道路を削りながら転がった。
『ぐぁッ……』
だが、止まらない。
空中で体勢を立て直す。
無数の結晶刃を背後に展開する。
『貴様ァ!!』
豪雨のように降り注ぐ結晶刃。
カラミティは避けない。
腕を振るう。
砕く。
踏み抜く。
身体を裂かれ、血が舞う。
それでも止まらない。
「どうでもいいんです」
結晶刃を砕く。
踏み抜く。
「痛みも、恐怖も、命も」
幹部が一歩退く。
初めて、その瞳に恐怖が宿った。
『来るな――』
言い終わる前には、もう目の前にいた。
「全部」
拳が叩き込まれる。
吹き飛ぶ。
追い付く。
殴る。
吹き飛ぶ。
追い付く。
また殴る。
顔面が陥没する。
顎が砕ける。
右腕が千切れ飛ぶ。
再生する。
殴る。
また殴る。
再生が追い付かなくなる。
『が、ぁ……』
「あなたを殺した後で考えます」
首を掴み、そのまま地面へ叩き付けた。
ドゴォォォン!!
アスファルトが陥没する。
幹部の身体が跳ねる。
砕けた道路の上で、壊れた機械みたいに痙攣した。
『……ッ』
「動かないでください」
ドスッ。
鋭く尖ったコンクリート片が左手を貫く。
ドスッ。
右手も。
瓦礫はそのまま、アスファルトへ深々と突き刺さった。
『な――』
両腕を引く。肩が軋み、関節が捻じれるが、力任せに引き抜こうとする。
ふと。
視線を感じた。
幹部の動きが止まる。ゆっくりと顔を上げる。
カラミティは、瞬き一つせず見下ろしていた。
まるで、解剖台の上の標本を見るように。
「生物を模倣しないと侵略できないとは。不便ですね」
視線が胸元へ落ちる。
「人間なら、心臓がありますよね」
そっと胸に手を当てる。
『待て!!』
ズブリ。
そのまま腕を沈める。
『ぐっ……!』
指先が脈打つ核に触れた。
『やめろ!!』
指が、ゆっくりと閉じていく。
「アカリを返してください」
『無駄だ!!既に回収済みだ!復元は不可能――』
ブチィィィッ!!
核が引き抜かれた。
幹部が絶叫する。
掌で脈打つそれを見つめる。
小さく、口元だけが歪む。
「良かった」
『なに、を……』
「ちゃんと痛いんですね」
握り締める。
反対の拳を振り下ろす。
細い亀裂が走った。
『ぐぁぁぁッ!!』
「アカリは」
もう一度。
『あぁぁぁッ!!』
亀裂が広がる。
「泣いてた」
赤い欠片が飛び散る。
「死にたくなかった」
何度も。
何度も。
何度も。
『や、…め……』
聞いていない。
拳が落ちる。
欠片が飛び散る。
それでも止まらない。
そして。
ガシャァァァァァン!!
核は、完全に砕け散った。
幹部の瞳から光が消えた。身体が崩れ落ちる。
もう、再生することはなかった。
空を埋めていた無数の結晶槍が砕ける。
赤い雪が降る。
カラミティは見上げない。
勝利の余韻もない。
達成感もない。
ただ、砕けた残骸を見下ろしていた。
そこに、アカリはいなかった。
痛いほどの静寂。
隊員達が武器を下ろす。
結界班も安堵の息を吐く。
隊長が呟く。
「終わったか……」
だが。
カラミティが幹部の首を掴み、力任せに引き起こす。
隊長が目を見開く。
「おい!」
返事はない。
カラミティは幹部を見つめていた。
その目に映っているのは敵ではない。
砕けた結晶。
赤い髪。
笑顔。
最後の言葉。
全部。
全部。
全部。
こいつが奪った。
幹部を地面へ叩き付ける。
クレーターが広がる。
もう一度。
さらにもう一度。
隊長が叫んだ。
「やめろ!!もう死んでる!!」
カラミティは幹部の顔を踏みつけた。
結晶が軋む。
「死んでる?」
小さな声だった。
誰に向けた言葉でもない。
「それで終わりですか」
足に力が込められる。
顔面が陥没する。
「アカリは」
結晶片が跳ねる。
「死んだら終わりじゃなかった」
さらに踏み潰す。
「もう、いない」
身体が崩れていく。
「どこにも」
何度も。
何度も。
やがて、人の形は完全に失われた。
足元に残っていた結晶さえ、粉々になっていた。
何もない。
敵は消えた。
復讐は終わった。
そのはずだった。
けれど。
どれだけ壊しても。
どれだけ殺しても。
失ったものは、一つも戻らない。
カラミティの拳が震える。
ぽたりと血が落ちる。
そして、かすれた声が漏れた。
「……足りない」
誰にも聞こえないほど小さく。
「まだ、足りない」
静まり返った戦場で、その言葉だけが、隊員たちの耳に重く落ちた。
誰も動けない。
やがて。
「敵性反応消失!」
隊員の報告が響く。
それを合図に、止まっていた現場が一斉に動き始めた。
「医療班前進!」
「生存者を回収しろ!」
サイレンが鳴る。
怒号が飛ぶ。
崩壊した現場が再び動き始めた。
だが、カラミティだけは動かなかった。
砕けた幹部の残骸を見下ろしている。
胸の奥に空いた穴は、少しも埋まらない。
後方で、小さな呻き声がした。
「……」
視線が動く。
道路脇に、一人の男性が倒れていた。右腕は赤い結晶に覆われている。
侵食率は高い。放っておけば助からない。
カラミティはしばらく見ていた。
興味があるわけじゃない。
――あの日、助けられなかった。
その記憶だけが残っていた。
コツ。
足音が近付く。
男性が震える。
怪物を殺した少女が近付いてくる。
恐ろしくて当然だった。
カラミティは無言で膝をつく。右手を男性へ伸ばす。
赤黒い光が揺れる、その奥で。
ピシ。
金色の光が漏れた。
ポメポメが目を見開く。
「……シャイン」
指先から温かい光が流れ、侵食された腕へ染み込む。
パキ。
結晶が剥がれる。
パキパキ。
赤が消える。
失われていた血色が戻る。
男性が息を呑んだ。
「なんで……」
助けてくれるのか。
そう言いたかったのかもしれない。
カラミティは答えない。
治療を終えると立ち上がった。
男性が慌てて声を掛ける。
「あ、ありがとう」
沈黙。
風が吹く。
黒いスカートが揺れる。
しばらくして、小さく声が返ってきた。
「勘違いしないでください」
振り返らない。
「あなたを助けたかったわけじゃない」
カラミティは空を見上げる。
そこにはもう結晶はない。
ただ青空だけが広がっていた。
「助けられなかった後悔を、増やしたくなかっただけです」
ドンッ!!
カラミティは空へ跳んだ。
ポメポメも後を追う。
赤黒い残光。寄り添うように飛ぶ白色の光。
「嘘つきポム」
本当は、誰よりも助けたいくせに。
強く風が吹く。
白色の光は、何も言わず主人の隣へ並ぶ。
もう二度と、一人にはさせないように。
■高校・屋上
タンッ。
誰もいない屋上へ着地する。
フェンス。給水塔。朝の風。
静かだった。
「解除」
ドクン。
胸元の災晶が最後に一度だけ脈打つ。
黒いドレスが粒子になって消える。
胸の赤いリボンがほどける。
金色の髪が黒へ戻る。
数秒後。
そこにいたのは、ごく普通の女子高生だった。
ふらり。
ハルの身体が傾く。
「ハルちゃん!」
ポメポメが慌てて肩口まで飛んでくる。
ハルは手すりへ体重を預ける。
全身が痛い。
腹の奥、肺、心臓、全身。
内側から臓器を握り潰されるような激痛が走る。
「っ……!」
息が詰まる。
胃がひっくり返るような吐き気が込み上げ、視界がぐらりと揺れた。
額から脂汗が滲む。
膝から力が抜けた。
「また反動ポム……」
ポメポメが心配そうに浮かぶ。
返事をする余裕がない。
カラミティ。
本来なら存在しない魔法少女。
怒りと喪失で無理やり成立させた力。
その代償を、変身が解けた身体は容赦なく支払わされる。
「……最悪」
掠れた声。
ようやく呼吸を整えながら、ハルは空を見上げた。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。
学校のチャイムも聞こえた。
世界は続いている。何事もなかったみたいに。
ハルは震えの残る手でスマホを取り出した。
時刻を見る。
一時間目まで、あと八分。
「…間に合わせないと」
そう思うだけで、心は少しも動かなかった。
それでも、鞄を拾う。
制服の埃を払う。
深呼吸。一回、二回、三回。
そして、鏡代わりのスマホ画面へ向かって笑う。失敗。
もう一回。少しだけマシ。
「よし」
全然よくない。
でも十分だった。
教室では誰も知らない。
あの戦場に自分がいたこと。
自分が何をしたのか。
ハルは一歩踏み出す。
痺れた足がもつれる。
身体が傾く。
「……っ」
手すりへ手をつき、崩れ落ちるのだけは堪えた。
胸の奥はまだ焼けるように痛む。
ハルは階段へ向かう。一歩、また一歩と足を運ぶ。
チャイムが鳴る。
遅れたくないからじゃない。
今日も、生きるために。
胸の奥に、終わらない復讐だけを抱えたまま。
■二年B組
ハルは何事もなかったように教室へ入った。
六月二日。
黒板の日付を書き換える。
教室では結晶災害の話題で持ちきりだった。
「また結晶災害だって」
「黒い魔法少女も出たらしい」
「カラミティだろ?」
誰もが不安そうにモニターを見ている。
「味方なのか敵なのか分かんねぇよな」
「でも今回は幹部倒したらしいぞ」
ハルは出席簿へ視線を落とした。
その時。
ふと、空席が目に入る。
誰も座っていない席。
最初から、誰もいなかったはずの席。
――違う。
何かがおかしい。
そこに誰かがいた気がする。
豪快な笑い声。無茶ばかりする背中。
――古典?寝る時間だろ。
聞き慣れた声がした気がした。
ハルは目を閉じる。
声も、顔も、忘れていない。
でも、思い出そうとするたび、輪郭が滲んでいく。
世界中で、自分だけが覚えているはずなのに。
「ハル?」
クラスメイトの声で我に返る。
「大丈夫?」
「ええ」
反射的に笑う。
嘘だった。
大丈夫なはずがない。
授業が始まる。
教師の声が遠い。
黒板の文字も頭へ入らない。
ただ一つだけ、胸の奥で消えない感情があった。
机の下で拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
あの日奪われたものは、まだ何一つ返ってきていない。
だから、忘れるわけにはいかなかった。
■駅前・午後五時二十八分
大型モニター。
朝の戦闘映像が流れている。
崩壊した市街地。
管理局。
そして、災厄の魔法少女カラミティ。
通行人達が足を止める。
「また出たな」
「怖い……」
「味方なんだよな?」
苦笑。ざわめき。
ハルは黙って見上げた。
画面の中の少女は、自分なのに自分じゃないみたいだった。
「だいぶ暴れてるポム」
ポメポメが呟く。
ハルは何も答えない。
その時だった。
近くのベンチで、スーツ姿の男性がニュースを見上げている。右腕には包帯。
朝、助けた男だった。
男性は小さく笑う。
「助かったんだな……俺」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、確かめるみたいに呟く。
胸ポケットから写真を取り出す。
幼い女の子。
男性は目を細めた。
「娘に会える。よかった……」
ハルは視線を落とした。
助かった命。
守れた誰か。
それは確かにあった。
けれど、胸の奥は少しも軽くならない。
脳裏に浮かぶ、泣きそうなのに笑っていた顔。
もう二度と届かない声。
足が止まる。
振り返る。
夕焼けの人混み。
もちろん、どこにもいない。
最初から、誰もいなかったみたいに。
「……アカリ」
小さく呟く。
返事はない。
もう二度と返ってこない。
ハルは目を閉じた。
そして、ゆっくりと前を向く。
帰宅する人々。笑い声。日常。
守られた世界がそこにあった。
ポメポメが隣に浮かぶ。
「帰るポム?」
沈黙。
それから。
「ええ」
小さく頷く。
「明日もありますから」
夕陽が街を染める。
アカリは戻らない。
忘れられたまま。
それでも、奪った奴らはまだ生きている。
ハルは夕焼けの街を見上げた。
「もう、誰も奪わせません」
返事はない。それでも、あの日の言葉だけは、今も胸に残っている。
――生きろ。
ハルは歩き出した。
忘れられても。誰も覚えていなくても。
自分だけは忘れない。絶対に。




