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『白紙の道標(みちしるべ)を歩く君へ』  作者: 真白しろ


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8/12

千の石段と、空に近い街

色彩を失った国を後にしてから、季節が一つ巡ろうとしていた。

 木枯らしは冬の刺すような冷気へと変わり、街道を縁取る木々はすっかり葉を落としている。

 その枯れ野の真ん中を、ドスドスと力強い足音を立てて歩く影があった。

 女将から譲り受けた茶色いマントは、すっかり旅の埃を吸ってくすんだ色になっている。その下から覗くドレスの裾は、泥跳ねと擦り切れで元の「夜明けの空色」の面影を完全に失い、野戦病院の包帯のような有様だった。

 しかし、その足取りには迷いがない。

「……ふぅ。今日の風は、一段と無作法ですわね」

 イリスは冷たい風に目を細めながら、水筒の水を一口飲んだ。

 家出をした初日、数時間歩いただけで泣き言を漏らしていた温室育ちのお嬢様は、もうここにはいない。彼女の足元を包む不格好な豚革のブーツは、無数の石ころやぬかるみを踏み越え、表面に無数の傷を刻みながらも、主の足を完璧に守り抜いていた。

 ただ、一つだけ変化がある。あれほど分厚かった靴底の踵部分が、長旅の証として斜めにすり減り始めているのだ。

(……この靴が完全にすり減るまでに、私はあの方の足跡に追いつけるのかしら)

 イリスは歩きながら、油紙で包んだご先祖さまの『未完のスケッチブック』を開いた。

 色鮮やかな花畑のページはとうに過ぎた。今開いているページに描かれているのは、天を突くような巨大な『切り立った崖』と、その岩肌にへばりつくようにして建てられた、鳥の巣のような奇妙な街の風景だった。

 絵の下には、達筆な文字でこう記されている。

『絶壁の街、アイリエ。ここは空に最も近く、地を這う者には決して門を開かない場所』

「地を這う者には開かない、ね。……随分と高慢ちきな街じゃありませんの」

 イリスがパタンとスケッチブックを閉じて顔を上げた、その時だった。

 地平線の向こう、冬の薄雲を切り裂くようにして、一枚の巨大な「壁」がそびえ立っているのが見えた。近づくにつれ、それがただの壁ではなく、スケッチブックに描かれていた通りの『絶壁』であることが分かる。

 そして、その垂直に近い岩肌の中腹には、無数の石造りの家々が、まるで重力に逆らうように折り重なって建っていた。

 街へと至る道は、崖の下からジグザグに延々と続く、気の遠くなるような『千の石段』ただ一つ。

「……正気ですの?」

 イリスは立ち止まり、絶句した。

 馬車はおろか、荷車すら登れないほどの急勾配。あそこへ辿り着くには、己の二本の足で、一段一段這い上がるしか方法がないのだ。

「フンッ。……いいですわ。試そうというのなら、受けて立ちますわよ!」

 イリスはマントの紐をきつく結び直し、腕を組んでそっぽを向いた。そして、気合いを入れるように両手で自分の頬をパンッと叩くと、そびえ立つ千の石段の入り口へと歩みを進めた。

「はぁっ……! ふぅっ……! な、なんなんですの、この嫌がらせのような階段は……っ!」

 登り始めて一時間。イリスの息は完全に上がっていた。

 一段一段の段差が異常に高く、足を上げるたびに太ももの筋肉が悲鳴を上げる。冬の冷たい風が吹いているというのに、マントの下の背中は汗でぐっしょりと濡れ、縛った黄金色の髪が顔に張り付いた。

 下を見下ろせば、すでに目が眩むほどの高さだ。落ちれば命はない。

 手すりなどという親切なものはなく、イリスは荒い岩肌に泥だらけの手をつきながら、四つん這いに近い無様な姿勢で登り続けていた。

「もう……限界……。屋敷の階段なら、メイドに背負わせるところですわよ……っ」

 膝がガクガクと笑い、石段の上にへたり込みそうになる。

 その時、上の方から軽やかな足音が聞こえてきた。見上げると、巨大な籠を背負った地元の配達員らしき青年が、石段をウサギのようにポンポンと駆け下りてくるではないか。

「おう、旅人さん! 随分とバテてるじゃねえか。その重そうな鞄、銀貨三枚で上まで運んでやろうか?」

 青年がニヤニヤと笑いながら見下ろしてくる。

 疲労の極致にいたイリスにとって、それは悪魔の誘惑だった。あの重いスケッチブックの入った鞄を下ろすだけで、どれほど体が軽くなるだろう。

 しかし。

 イリスはギリッと奥歯を噛み締めると、震える足に力を込め、フラフラと立ち上がった。泥だらけの顔を上げ、青年を鋭く睨みつける。

「……お断りですわ!」

「はぁ? 強がんじゃねえよ。その細い足じゃ、あと半分も登る前にぶっ倒れるぜ?」

「誰が倒れると言いましたの! 私は……私は、自分の足でこの景色を見るために、家を飛び出してきたんですのよ。荷物一つ他人に預けるようなハンパな覚悟で、旅人など名乗りませんわ!」

 イリスは青年を突き飛ばす勢いで前に出ると、不格好なブーツでドンッと一段上の石段を踏み鳴らした。

「道を開けなさいな! 私が通りますわよ!」

 そのあまりの気迫に、青年は一瞬呆気に取られ、スッと道を譲った。

「……っへへ、こりゃすげえお嬢様だ。せいぜい滑り落ちないように気をつけな!」

 背後から飛んできた青年のからかい半分の声すら、今のイリスには届かない。

 筋肉の痛みも、汗の不快感も、すべてを強靭な「プライド」という燃料に変換し、彼女はひたすらに己の足を動かし続けた。

 定規で引いたような完璧な世界では決して味わえなかった、泥臭く、苦しく、生きていると実感できる『本物の疲労』がそこにあった。

 空が茜色に染まり始めた頃。

 ついにイリスのブーツが、最後の石段を踏み越えた。

「……着き、ましたわ……っ!」

 広大な石造りの展望広場に倒れ込むようにしてへたり込み、荒い息を吐く。

 足は棒のようになり、指一本動かす気力もない。しかし、冷たい石畳の感触すら、今の彼女には極上のベッドのように心地よかった。

 ゆっくりと顔を上げると、そこに息を呑むような絶景が広がっていた。

 崖の中腹に切り拓かれた街『アイリエ』。建物の屋根は夕日を受けて黄金色に輝き、はるか下界には、今まで自分が歩いてきた街道が一筋の糸のように伸びている。

 吹き抜ける風には、土埃ではなく、澄み切った雲の匂いが混じっていた。

「……っ」

 イリスは震える手で鞄を開け、ご先祖さまのスケッチブックを開いた。

 夕日に照らされたその絵は、今イリスが見ている景色と、寸分の狂いもなく一致していた。影の落ち方、風の吹き抜ける道の角度、すべてが完璧に同じだ。

(ご先祖さまも……。この狂ったような階段を登り切って、息を切らしながら、この景色を紙に写し取ったのですね)

 絵を通じて、時代を超えた先人の「息づかい」が伝わってくるようだった。

 イリスは自身のスケッチブックを取り出すと、魔法の銀のペンではなく、黒い鉛筆を握った。

 まだ手はガタガタと震えている。引く線は歪み、美しいデッサンにはならないだろう。それでも構わなかった。この圧倒的な疲労感と、それを乗り越えた達成感、そして吹き抜ける風の冷たさを、今すぐこの紙に叩きつけたかった。

 カリカリ、カリカリと、空に近い街の広場で、無骨なブーツを履いたお嬢様がひたすらに鉛筆を走らせる。

「……ふふっ。最高の気分ですわ」

 自分の足で歩き抜いた者だけが見ることを許される景色。

 イリスの旅は、いよいよ中盤の広大な世界へと足を踏み入れていく――。

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