真紅の薔薇と、枯れない記憶
灰色の壁に背を預け、冷たい石畳の上に座り込んだまま、イリスは荒くなった呼吸を整えていた。
心臓はまだ警鐘を鳴らしている。もしあのまま広場に留まっていたら、間違いなく群衆に押し潰され、身ぐるみ剥がされていただろう。
(……恐ろしい国ですわ。色が失われただけで、人はあんなにも浅ましく、狂気を孕んでしまうだなんて)
イリスは震える手で、女将から譲り受けた茶色いマントをきつく掻き合わせた。
この温かな茶色も、彼らにとっては喉から手が出るほど欲しい「ご馳走」なのだ。
逃げるのは簡単だ。このまま裏路地を伝って街の反対側の門へ向かえば、すぐにでもこの異常な国を抜け出すことができる。あの不格好で歩きやすい豚革のブーツなら、足音を殺して走ることなど造作もない。
しかし、イリスの脳裏には、先ほどの薄汚れた少女の灰色の瞳が焼き付いて離れなかった。
『おかあさんに、あかいお花を持っていきたいの』
その純粋な願いが、イリスの胸の奥底をチクリと刺す。
第一話の市場で、空腹の自分に温かいスープを分けてくれた老婆の姿が重なった。あの時、自分は下手くそな鉛筆の線で老婆の心を救い、対価を得た。
では、今はどうだ。魔法の銀のペンを持っていながら、群衆の狂気を恐れて、ひとりの少女の願いから逃げ出そうとしている。
「……フンッ。冗談ではありませんわ」
イリスは顔を上げ、暗い路地裏で独り言ちた。
「助けを求めた子供を置き去りにして逃げるなど、貴族の矜持が許しませんわよ。……それに、私はただのお嬢様ではなく、『旅の絵描き』になったのですから」
イリスは立ち上がると、マントの裾をナイフで少しだけ切り裂き、その布で黄金色の髪をきつく縛り上げた。さらに、道端の灰色の泥を手に取り、躊躇することなく自分の頬や手首、そして美しい青い瞳の周りに塗りたくった。
フードを深く被れば、薄汚れた灰色の布を纏った、この国の住人と大差ないシルエットが完成する。
(泥で顔を汚すなんて、お父様が見たら卒倒しますわね。でも、不思議と嫌な気分ではありませんわ)
覚悟を決めたイリスは、息を潜め、少女がいた広場の方へと足音を立てずに引き返していった。
### 第八章:真紅の薔薇と、枯れない記憶
幸いにも、群衆は「色を持つ異邦人」を見失って散り散りになっていた。
広場の隅の木箱の陰で、少女が膝を抱えてシクシクと泣いているのを見つけたイリスは、背後からそっと近づき、その細い肩を叩いた。
「ひっ……!」
「静かに。……私ですわ」
フードの奥で光る青い瞳を見て、少女がハッと息を呑む。イリスは人差し指を唇に当て、少女の手を引いて再び暗い路地へと滑り込んだ。
「おねえちゃん、逃げたんじゃ……」
「逃げてなんかいませんわよ。ただ、少しばかり『目立たない装い』に着替えていただけですわ。……お母様のところへ案内なさい。赤い花、私が見せてあげますわ」
少女の灰色の瞳に、ぱっと希望の光が灯る。
少女に手を引かれ、イリスは迷路のような灰色の街の奥深くへと進んでいった。
辿り着いたのは、傾きかけた粗末な石造りの長屋だった。
隙間風の吹き込む薄暗い部屋の奥、枯草を敷いただけの粗末なベッドに、母親らしき女性が横たわっていた。彼女の肌も髪も、そして荒い呼吸に合わせて上下する胸も、すべてが死を待つだけの灰に覆われている。
「おかあさん、連れてきたよ。色の魔法使いのおねえちゃん!」
「……魔法使い……? ゲホッ、何を言っているの……」
母親がうわ言のように呟きながら、虚空に手を伸ばす。その瞳は完全に白濁しており、すでに光すら感じ取れていないようだった。
「おねえちゃん、おねがい。あかいお花、だして」
少女がすがるようにイリスの鞄を見つめる。
イリスは静かに頷き、鞄の中から『銀のペンとスケッチブック』を取り出した。
(数分で消えてしまう幻を見せても、絶望させるだけ……先ほどまではそう思っていました。でも、違いますわ)
イリスは目を閉じた。
図書室の百科事典の図を思い出すのではない。実家の温室で、専属の庭師が丹精込めて育てていた、あの完璧な『真紅の薔薇』を思い出すのだ。
燃えるような赤。幾重にも重なるビロードのような花びらの滑らかさ。指に刺さった棘の痛み。そして、むせ返るほどに甘く、命の喜びに満ちたあの芳醇な香り。
視覚だけでなく、五感のすべてで観察した「本物」の記憶を、銀のペン先に集中させる。
(あの森の中で、寒さに震えて描いた『ゆるキャラの精霊』のようにはいきませんわよ。……私は、完璧な絵を描く女ですの!)
イリスは目を見開き、真っ白なページにペンを走らせた。
カリカリ、カリカリと、魔法のペンが紙を削る音が静かな部屋に響く。
迷いのない、完璧な線。温度と匂いを伴った、圧倒的な解像度。
描き終えた瞬間、イリスはページをビリッと破り捨てた。
眩い銀色の光が弾け、次の瞬間――灰色の部屋の中心に、狂おしいほどに鮮やかな『真紅の薔薇』が咲き誇った。
「あっ……!」
少女が悲鳴のような歓声を上げる。
色を失った世界に現れたその「赤」は、まるで静寂の中に突然シンフォニーが鳴り響いたかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
それだけではない。イリスの記憶から完璧に抽出された薔薇は、甘く芳醇な香りを部屋中に満たし始めた。
「ほら、お母様の手のひらに」
イリスが促すと、少女は震える手でその真紅の薔薇を受け取り、見えない母親の手の中へとそっと握らせた。
「おかあさん、あかいお花だよ。とっても、とってもあかいの……!」
「……ああ……ああ……」
目が見えないはずの母親の目から、ポロポロと灰色の涙が溢れ出した。
彼女は薔薇のビロードのような花びらをそっと指先で撫で、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「なんて……なんて温かい香り……。思い出したわ。太陽の光……沈む夕日の色……。赤は、こんなにも温かい色だったわね……」
「ええ。とても、温かい色ですわ」
イリスは泥だらけの頬を緩め、優しく微笑んだ。
視覚を持たない母親にとって、薔薇が目の前にあるかどうかは関係ない。完璧に再現された「感触」と「香り」が、彼女の脳内に眠っていた「赤」の記憶を鮮やかに蘇らせたのだ。
しかし、魔法の時間は永遠ではない。
数分後。真紅の薔薇は、花びらの端から少しずつ銀色の光の粒子となって解け始めた。
「あっ……お花が、消えちゃう……!」
パニックになりかける少女の肩を、母親が優しく抱き寄せた。
母親の手の中から薔薇は完全に消え去り、あとには元の灰色の虚無が残った。しかし、母親の顔には、先ほどまでの死に顔のような絶望はなく、深い安らぎに満ちた笑みが浮かんでいた。
「泣かないで。……お花は消えてしまったけれど、お母さんの胸の中に、ちゃんと咲いているわ。もう、灰色の世界でも寒くないわ」
「おかあさん……っ」
少女が母親の胸に飛び込んで泣きじゃくる。
その光景は、色こそ灰色だったが、イリスの目にはどんな極彩色の絵画よりも美しく、温かく見えた。
(……これで、良かったですのね)
イリスはそっとスケッチブックを閉じ、鞄にしまった。
消えてしまう幻であっても、誰かの心に「枯れない記憶」を刻みつけることができる。絵を描く魔法の本当の価値を、彼女はまた一つ知ることができた。
「……じゃあ、私はこれで失礼しますわ。いつかこの国に、本当の色が戻る日が来ることを祈っていますわよ」
イリスは二人の邪魔をしないよう、足音を殺してそっと部屋を後にした。
数時間後。
色彩を失った国の反対側の門を抜け、しばらく街道を歩いたところで、イリスは立ち止まった。
顔を上げると、視界に「緑」が飛び込んできた。
道端に生える雑草の緑、空の青さ、そして足元の土の茶色。
国の境界線を越えた瞬間、世界は再び当たり前のように「色」を取り戻していた。
「……はぁっ。やっぱり、泥で汚れるなら、灰色の泥より茶色い泥のほうがマシですわね」
イリスは近くの小川で顔と手の泥を洗い流し、縛っていた髪を解いた。
水面に映る自分の姿は、相変わらずボロボロのマントに不格好な豚革のブーツという出で立ちだ。しかし、彼女はその姿を見て、ふっと満足げに笑った。
鞄の重み。鉛筆の感触。
世界を知らない箱入りお嬢様は、灰色の国で一つだけ、世界を鮮やかにする魔法を学んだ。
「さあ、次はどんな理不尽が待ち受けていますのやら。……私のスケッチブックは、まだまだ余白だらけですわよ!」
イリスは気高く背筋を伸ばし、腕を組んで、誰もいない青空に向かってフンッとそっぽを向いた。
そして、豚革のブーツで力強く地面を蹴り、次の見知らぬ国へと続く果てしない道を、誇り高く歩き始めた。




