境界線と、灰色の瞳
北へ向かう街道は、イリスがこれまで歩んできたどの道よりも静かで、そして奇妙だった。
物々交換の街を出てから三日が過ぎていた。
女将から譲り受けた分厚い茶色のマントは、冷たい秋の木枯らしを完璧に遮ってくれている。足元を包む豚革のブーツは、見た目こそ豚の鼻のように不格好極まりないが、どれほど荒れた石ころだらけの道を歩いても、イリスの柔らかな足に傷一つ作らせなかった。
(……フンッ。見た目の優雅さなど、飾りにすぎませんわ。真の貴族たるもの、実用性の中にこそ美しさを見出すべきですのよ)
すっかり旅の装いに馴染んだ(妥協したとも言う)自分を心の中で正当化しながら、イリスは硬い干し肉を齧った。最初はその塩辛さとタイヤのような硬さに涙目になったが、今では「噛めば噛むほど味が出ますわね」と、ほんの少しだけ味わう余裕すら生まれている。
しかし、彼女の足取りは徐々に重くなっていた。
体力の限界ではない。周囲の景色が、一歩進むごとに「異常」になっていくからだ。
最初は、ただの曇り空のせいだと思っていた。
だが違う。街道を縁取る木々の葉から、鮮やかな緑色が抜け落ちているのだ。足元の土は生命力を失ったような白灰色に変わり、道端に咲く小さな野花さえも、まるで墨汁を一滴落としたように濁った色をしている。
さらに歩を進めると、ついに世界から「色」という概念そのものが消失した。
空はのっぺりとした鉛色。
森はすべて炭のように黒く、あるいは骨のように白い。
色彩のグラデーションが存在しない、白と黒と灰色の三色だけで構成された狂気の世界。
「……これが、『色彩を失った国』」
イリスは立ち止まり、息を呑んだ。
前方に、巨大なアーチ状の石門が見えてきた。かつては壮麗な彫刻が施されていたであろうその門も、今はただの巨大な墓標のように灰色の空にそびえ立っている。
門の下には、見張りの兵士が二人立っていた。
彼らを見た瞬間、イリスの背筋に冷たいものが走った。彼らが着ている鎧がくすんだ銀色だからではない。彼らの肌が、石膏のように真っ白で、血の気が一切なく、瞳の虹彩さえもが濁った灰色だったからだ。
本当に、生き物からすら「色」が失われている。
イリスが近づく足音に気づき、二人の兵士がゆっくりと顔を向けた。
そして、彼らはハッと目を見開き、手にした槍を落としそうになるほど激しく動揺した。
「な、なんだお前は……っ!?」
「まぶしい……目が、焼けるようだ!」
兵士たちが腕で顔を覆い、後ずさる。
無理もない。完全なモノクロームの世界に生きる彼らにとって、イリスの存在は異物そのものだった。
泥で汚れてくすんでいるとはいえ、彼女の着ているドレスの「空色」。女将から譲り受けたマントの温かな「茶色」。そして何より、イリス自身が生まれ持つ、透き通るような「白い肌」、血色の良い「桜色の唇」、太陽の光を編み込んだような「黄金色の髪」、そして深い海のような「青い瞳」。
灰色のキャンバスに一滴だけ落とされた、極彩色の絵の具。
それが、この国におけるイリスの姿だった。
「……ごめんあそばせ。驚かせてしまったかしら。私はただの旅人ですわ」
イリスは努めて冷静に、優雅なお辞儀をして見せた。内心の心細さを悟られまいとする、彼女なりの防いであり、プライドだった。
「旅人、だと……? その、お前の身体から放たれている『光』はなんだ。魔法か? 幻術か?」
「光? いいえ、これはただの『色』ですわ。あなた方の国が、失ってしまったものよ」
イリスの言葉に、兵士たちの灰色の瞳がスッと細められた。
恐れと、驚愕。そしてその奥に、泥水のような暗く淀んだ「欲望」が渦巻くのを、イリスは見逃さなかった。
(『彼らは自分たちの失った色に対して、ひどく貪欲で、ひどく不寛容なんだよ』)
女将の忠告が、頭の中で警鐘を鳴らす。
「……通れ」
沈黙の後、年嵩の兵士が忌々しげに道を開けた。
「ただし、街の中ではあまりその……『色』を見せびらかして歩かないことだ。この国には、色を持たないことに絶望し、気が狂ってしまった者が山ほどいる。お前のような派手な輩は、格好の餌食になるぞ」
「ご親切にどうも。ですが、私が私の色を隠すようなことはいたしませんわ」
腕を組み、ツンとそっぽを向いて、イリスは門をくぐった。
強がってはみたものの、マントの下でスケッチブックを抱える手は、じっとりと冷たい汗をかいていた。
門の先に広がる街並みは、静まり返っていた。
石造りの家々はどれも同じような灰色で、行き交う人々もまた、影絵のように色を持たない。笑い声も、怒鳴り声も聞こえない。ただ、靴音だけがカツカツと空虚に響いている。
イリスが石畳の広場を歩き出すと、周囲の空気が一変した。
街の人々が一斉に足を止め、彼女を見たのだ。
「ああっ……」
「なんてことだ。色が、色があるぞ」
「美しい……。昔の絵画で見た『青』だ。あれが『青』なんだ……!」
人々のざわめきが、波のように広がっていく。
彼らの視線は、イリスの青い瞳に、黄金の髪に、茶色いマントに、ねっとりと絡みついた。それは純粋な賞賛ではない。飢えた獣が、骨付き肉を見つめるような目だ。
(……気持ち悪いですわね。まるで、私自身が珍しい見世物になったみたいですわ)
イリスは歩みを速め、フードを深く被って髪の色を隠そうとした。
その時だった。
「おねえちゃん」
不意に、マントの裾をクイクイと引っ張られた。
見下ろすと、そこにいたのは十歳にも満たない小さな少女だった。少女もまた、肌も髪も着ているボロ布も、すべてが灰色だった。
だが、その瞳だけは、イリスの黄金色の髪をまっすぐに見つめ、焦がれるような熱を帯びていた。
「おねえちゃんのそのキラキラしたの……『きいろ』っていうの?」
「……ええ。私の髪は黄金色、黄色の一種ですわ」
「きれい。……ねえ、少しだけ、わたしにちょうだい?」
少女の灰色の手が、無遠慮にイリスの髪へ向かって伸びてくる。
イリスは咄嗟に身を引き、「気安く触らないでちょうだい!」と叫びそうになった。しかし、少女の手が異常なほど細く、そして氷のように冷たかったため、思わず声が詰まった。
「わたしのおかあさん、ずっと病気で、目が見えなくなってきちゃったの。でも、死ぬ前に一度だけ、『あかいお花』が見たいって。……おねえちゃんの持ってるその色、少し分けてくれたら、おかあさんに持って帰れる?」
無邪気で、残酷な願いだった。
色を物理的に分け与えることなどできない。だが、この世界で生まれ育った少女は、色が物質のようにやり取りできる魔法の粉か何かだと思っているらしかった。
周囲の大人たちが、じりじりと距離を詰めてくるのが分かった。
少女の言葉をきっかけに、彼らの中に眠っていた「色への渇望」が堰を切ったように溢れ出しそうになっている。
「私にも、その『青』を少しちぎってくれ!」
「あんたのマントの『茶色』を、私の灰色の絵画に塗らせてくれ!」
「金なら払う! 私の目玉と、その青い目玉を交換してくれ!!」
理性を失った声が、四方八方からイリスに襲いかかる。灰色の手が一斉に伸びてきた。
「っ……! 近寄らないで!!」
イリスは悲鳴を上げ、無骨なブーツで地面を蹴って駆け出した。
足に合わない大きめのブーツが音を立てるが、今は構っていられない。迷路のような灰色の裏路地へと飛び込み、息を切らしながら必死に走った。
追いかけてくる足音はなかったが、イリスの心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
暗い路地の奥で背中を壁に預け、ずるずるとしゃがみ込む。
「はぁっ、はぁっ……! なんなんですの、この国は……!」
自分の持っている「当たり前」が、ここでは狂気を引き起こす劇薬になる。
イリスは震える手で鞄を抱きしめた。この中には、ご先祖さまが描いた極彩色の『花畑の絵』がある。そして、魔法の銀のペンを使えば、本物の色鮮やかな花を一時的に実体化させることもできる。
少女の「あかいお花が見たい」という言葉が、耳にこびりついて離れない。
(描けば……あの銀のペンで赤い花を描いて実体化させれば、あの少女の願いは叶えられますわ。……でも)
数分で消えてしまう幻の花を見せたところで、それは少女と母親をより深い絶望に突き落とすだけではないのか。
それに、もし広場でペンを使えば、群衆はイリスを「色を生み出す魔法使い」として、永遠にこの灰色の国に監禁しようとするかもしれない。
助けたいという芸術家としての本能と、身の危険を告げる理性が、イリスの頭の中で激しくぶつかり合っていた。
冷たい灰色の壁に背を預けたまま、箱入りお嬢様は、これまでで最も重く、正解のない問いに直面していた。




