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『白紙の道標(みちしるべ)を歩く君へ』  作者: 真白しろ


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5/12

旅人の忠告と、失われた色彩

夜が明け、質素な木の隙間から差し込む鋭い朝日が、イリスのまぶたを叩いた。

 ふかふかの羽毛布団も、枕元で静かに控えるメイドの気配もない。鼻をくすぐるのは高価なアールグレイの香りではなく、階下から漂ってくる薪の煙と、わずかに酸味のあるパンが焼ける匂いだった。

「……ん、……っ。冷たいですわ」

 毛布から出た肩に、冬に近い秋の冷気が容赦なく噛み付く。

 イリスは寝ぼけ眼で周囲を見渡し、ここが屋敷の豪華な寝室ではなく、壁に虫食いの跡がある狭い宿屋の一室であることを思い出した。

 傍らには、昨日手に入れた不格好な豚革のブーツが、あるじを守り抜こうとする無口な門番のように鎮座している。彼女はそれを手に取り、昨日までの自分なら決してしなかったであろう「愛おしむような動作」で、その粗末な革の表面をそっと撫でた。

 身支度を整えようとしたが、鏡に映った自分の姿に絶句する。

 泥は落ちたものの、水を吸って乾いたドレスはシワだらけで、裾は昨日の激闘(ただの散策だが、彼女にとっては激闘だった)でボロボロにほつれている。かつての「夜明けの空色」は、今や「嵐の後の曇り空」のような、くすんだ色に変色していた。

「……フンッ。これもまた、旅の装い(スタイル)というものですわ。流行に敏感な貴族たちが見たら、新しいドレスの型だと勘違いして、こぞって真似し始めますわよ」

 誰もいない部屋で、彼女は精一杯の強がりを口にして腕を組み、鏡の中の自分に向かってそっぽを向いた。

 そして、不格好なブーツを履く。昨日感じた驚くべき歩きやすさは、朝になっても変わらなかった。彼女はスケッチブックを鞄に詰め、ドスドスと重い足音を立てながら一階の食堂へと降りていった。

一階の食堂では、すでに数人の荒事師や行商人が、無骨な木のテーブルを囲んで朝食を掻き込んでいた。女将は昨夜と変わらぬ太い腕で、大きな鍋から具沢山のスープを掬い上げている。

「おはよう、お嬢ちゃん。よく眠れたかい?」

「……ええ。お屋敷のシルクのシーツに比べれば、少しばかり肌触りが『刺激的』でしたけれど、悪くはありませんでしたわ」

 イリスは空いている席に座り、出された食事を凝視した。

 昨夜と同じような、しかしさらに無骨な黒パンと、塩辛い干し肉、そして豆がたっぷりと入ったスープ。昨日の空腹を思い出した彼女は、もはや躊躇うことなくスプーンを手に取った。

 熱いスープが喉を通り、胃に落ちるたびに、体の中から力が湧いてくるのを感じる。

 黙々と食事を続けるイリスを、女将がカウンター越しにじっと見つめていた。

「お嬢ちゃん、そのスケッチブック……あんた、この先へ行くつもりかい?」

「当然ですわ。私には、探しに行かなければならない景色がありますの」

「……この先、北の街道を行くなら、一つだけ忠告してやろう」

 女将の声が、少しだけ低くなった。食堂のざわめきが、わずかに静まったような気がした。

「次にぶち当たるのは、『色彩を失った国』だ。そこは少しばかり、いや、かなり厄介な場所だよ。お嬢ちゃんのような派手な……いや、失礼、そんな色鮮やかな心を持っている旅人には、とりわけ毒が強いかもしれないね」

「色彩を失った、国……?」

 イリスはスプーンを止め、女将の顔を見上げた。

「ああ。そこはな、数十年前に『ある魔法』の失敗で、あらゆる物から色が消えちまった国なんだ。空も花も、人の肌でさえもな。ただ灰色だけが支配する場所だ。……それだけならまだいいが、あそこの住人たちは、自分たちの失った『色』に対して、ひどく貪欲で、それでいてひどく不寛容なんだよ」

 女将はイリスの鞄から覗いている銀のペンを指差した。

「あんたのそのペン、魔法の道具だろう? 綺麗な光を放ってる。だが、あの国でそいつを不用意に使うんじゃないよ。……『色』を欲しがる連中に囲まれれば、あんたの持っているそのスケッチブックすら、灰にされちまうかもしれないからね」

 イリスは反射的に鞄を強く抱きしめた。

 ご先祖さまが遺した、あの美しい『花畑の絵』。あの鮮やかな色彩が、灰色の世界で奪われることなど、想像するだけで胸が締め付けられる。

「……ご忠告、痛み入りますわ。ですが、私の実家では『どんな暗闇でも背筋を伸ばして歩け』と教えられてきましたの。灰色だろうが、漆黒だろうが、私が私の色を失うことはありませんわよ」

 イリスは最後のパンの一片を口に放り込むと、立ち上がった。

 しかし、外に出ようとした彼女の足を、ある不安が止めた。

 昨日の入国審査で、彼女は唯一の防寒具であるマントを奪われている。外は冷たい風が吹き、これからの道中をドレス一枚で過ごすのは自殺行為に等しかった。

(……魔法で描けば、数分は防寒具になりますわ。でも、それでは根本的な解決にはなりませんし、あの女将の忠告も気になりますわね)

 イリスは再びカウンターへと戻り、女将に向き合った。

「……あの、女将さん。一つ相談がありますの。……この街で一番安くて、それでいて丈夫な『マント』を手に入れるには、何が必要かしら?」

 女将は意外そうな顔をして、イリスをまじまじと見た。

「お嬢ちゃん、金貨なら持ってただろう? 昨日のやつだ」

「……あんなもの、この街では石ころ以下ですわよ。それを教えてくれたのは、あなたや、あの意地の悪い門番ではありませんか」

 イリスは自虐的に微笑むと、スケッチブックを開き、真っ白なページを女将に見せた。

「今の私に払えるのは、私の技術これだけですわ。……昨日の老婦人のように、あなたの心にある『大切な景色』を描きますわ。それで、ボロくてもいいからマントを譲ってくださらないかしら?」

 女将はしばらく黙ってイリスの瞳を見つめていた。

 やがて、女将は豪快に笑い、カウンターの下から使い古された、しかし手入れの行き届いた厚手の毛織物のマントを取り出した。

「いい度胸だ。お嬢ちゃん、取引成立だよ。……ただし、私が描いてほしいのは『過去』じゃない。『未来』だ」

「未来、ですか?」

「ああ。この宿屋が、いつか花でいっぱいになって、旅人たちの笑い声が溢れているような……そんな活気のある『未来の看板』を描いておくれ。私はそれを見て、毎日を乗り切るつもりだよ」

 イリスは一瞬驚いたが、すぐに唇の端を上げて微笑んだ。

 それは、今までのプライドに満ちた高慢な微笑ではなく、一人の表現者としての、確かな自信に満ちた微笑だった。

「……承知いたしましたわ。私の想像力は、屋敷の広さよりも広大ですの。あなたの想像を絶するような、素晴らしい未来を描き出してみせますわよ!」

 一時間後。

 イリスは宿屋の入り口に立っていた。

 首元には、女将から譲り受けた煤けた茶色のマント。

 足元には、汚れ一つない最高級のブーツよりも頼もしい、不格好な豚革のブーツ。

 そして脇には、女将を驚かせ、涙ぐませるほどの「輝かしい未来」を描き残したスケッチブック。

 イリスは大きく一歩を踏み出した。

 石畳を叩くブーツの音は、昨日までの頼りない響きとは違う、重厚で確かなリズムを刻んでいた。

「色彩を失った国、ですわね。……ふふっ、私のスケッチブックに、新しい色が加わるのが楽しみですわ」

 冷たい秋風をマントで跳ね返し、泥だらけのお嬢様は、灰色の地平線の向こうへと、再び歩き始めた。

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