旅人の忠告と、失われた色彩
夜が明け、質素な木の隙間から差し込む鋭い朝日が、イリスのまぶたを叩いた。
ふかふかの羽毛布団も、枕元で静かに控えるメイドの気配もない。鼻をくすぐるのは高価なアールグレイの香りではなく、階下から漂ってくる薪の煙と、わずかに酸味のあるパンが焼ける匂いだった。
「……ん、……っ。冷たいですわ」
毛布から出た肩に、冬に近い秋の冷気が容赦なく噛み付く。
イリスは寝ぼけ眼で周囲を見渡し、ここが屋敷の豪華な寝室ではなく、壁に虫食いの跡がある狭い宿屋の一室であることを思い出した。
傍らには、昨日手に入れた不格好な豚革のブーツが、主を守り抜こうとする無口な門番のように鎮座している。彼女はそれを手に取り、昨日までの自分なら決してしなかったであろう「愛おしむような動作」で、その粗末な革の表面をそっと撫でた。
身支度を整えようとしたが、鏡に映った自分の姿に絶句する。
泥は落ちたものの、水を吸って乾いたドレスはシワだらけで、裾は昨日の激闘(ただの散策だが、彼女にとっては激闘だった)でボロボロにほつれている。かつての「夜明けの空色」は、今や「嵐の後の曇り空」のような、くすんだ色に変色していた。
「……フンッ。これもまた、旅の装い(スタイル)というものですわ。流行に敏感な貴族たちが見たら、新しいドレスの型だと勘違いして、こぞって真似し始めますわよ」
誰もいない部屋で、彼女は精一杯の強がりを口にして腕を組み、鏡の中の自分に向かってそっぽを向いた。
そして、不格好なブーツを履く。昨日感じた驚くべき歩きやすさは、朝になっても変わらなかった。彼女はスケッチブックを鞄に詰め、ドスドスと重い足音を立てながら一階の食堂へと降りていった。
一階の食堂では、すでに数人の荒事師や行商人が、無骨な木のテーブルを囲んで朝食を掻き込んでいた。女将は昨夜と変わらぬ太い腕で、大きな鍋から具沢山のスープを掬い上げている。
「おはよう、お嬢ちゃん。よく眠れたかい?」
「……ええ。お屋敷のシルクのシーツに比べれば、少しばかり肌触りが『刺激的』でしたけれど、悪くはありませんでしたわ」
イリスは空いている席に座り、出された食事を凝視した。
昨夜と同じような、しかしさらに無骨な黒パンと、塩辛い干し肉、そして豆がたっぷりと入ったスープ。昨日の空腹を思い出した彼女は、もはや躊躇うことなくスプーンを手に取った。
熱いスープが喉を通り、胃に落ちるたびに、体の中から力が湧いてくるのを感じる。
黙々と食事を続けるイリスを、女将がカウンター越しにじっと見つめていた。
「お嬢ちゃん、そのスケッチブック……あんた、この先へ行くつもりかい?」
「当然ですわ。私には、探しに行かなければならない景色がありますの」
「……この先、北の街道を行くなら、一つだけ忠告してやろう」
女将の声が、少しだけ低くなった。食堂のざわめきが、わずかに静まったような気がした。
「次にぶち当たるのは、『色彩を失った国』だ。そこは少しばかり、いや、かなり厄介な場所だよ。お嬢ちゃんのような派手な……いや、失礼、そんな色鮮やかな心を持っている旅人には、とりわけ毒が強いかもしれないね」
「色彩を失った、国……?」
イリスはスプーンを止め、女将の顔を見上げた。
「ああ。そこはな、数十年前に『ある魔法』の失敗で、あらゆる物から色が消えちまった国なんだ。空も花も、人の肌でさえもな。ただ灰色だけが支配する場所だ。……それだけならまだいいが、あそこの住人たちは、自分たちの失った『色』に対して、ひどく貪欲で、それでいてひどく不寛容なんだよ」
女将はイリスの鞄から覗いている銀のペンを指差した。
「あんたのそのペン、魔法の道具だろう? 綺麗な光を放ってる。だが、あの国でそいつを不用意に使うんじゃないよ。……『色』を欲しがる連中に囲まれれば、あんたの持っているそのスケッチブックすら、灰にされちまうかもしれないからね」
イリスは反射的に鞄を強く抱きしめた。
ご先祖さまが遺した、あの美しい『花畑の絵』。あの鮮やかな色彩が、灰色の世界で奪われることなど、想像するだけで胸が締め付けられる。
「……ご忠告、痛み入りますわ。ですが、私の実家では『どんな暗闇でも背筋を伸ばして歩け』と教えられてきましたの。灰色だろうが、漆黒だろうが、私が私の色を失うことはありませんわよ」
イリスは最後のパンの一片を口に放り込むと、立ち上がった。
しかし、外に出ようとした彼女の足を、ある不安が止めた。
昨日の入国審査で、彼女は唯一の防寒具であるマントを奪われている。外は冷たい風が吹き、これからの道中をドレス一枚で過ごすのは自殺行為に等しかった。
(……魔法で描けば、数分は防寒具になりますわ。でも、それでは根本的な解決にはなりませんし、あの女将の忠告も気になりますわね)
イリスは再びカウンターへと戻り、女将に向き合った。
「……あの、女将さん。一つ相談がありますの。……この街で一番安くて、それでいて丈夫な『マント』を手に入れるには、何が必要かしら?」
女将は意外そうな顔をして、イリスをまじまじと見た。
「お嬢ちゃん、金貨なら持ってただろう? 昨日のやつだ」
「……あんなもの、この街では石ころ以下ですわよ。それを教えてくれたのは、あなたや、あの意地の悪い門番ではありませんか」
イリスは自虐的に微笑むと、スケッチブックを開き、真っ白なページを女将に見せた。
「今の私に払えるのは、私の技術だけですわ。……昨日の老婦人のように、あなたの心にある『大切な景色』を描きますわ。それで、ボロくてもいいからマントを譲ってくださらないかしら?」
女将はしばらく黙ってイリスの瞳を見つめていた。
やがて、女将は豪快に笑い、カウンターの下から使い古された、しかし手入れの行き届いた厚手の毛織物のマントを取り出した。
「いい度胸だ。お嬢ちゃん、取引成立だよ。……ただし、私が描いてほしいのは『過去』じゃない。『未来』だ」
「未来、ですか?」
「ああ。この宿屋が、いつか花でいっぱいになって、旅人たちの笑い声が溢れているような……そんな活気のある『未来の看板』を描いておくれ。私はそれを見て、毎日を乗り切るつもりだよ」
イリスは一瞬驚いたが、すぐに唇の端を上げて微笑んだ。
それは、今までのプライドに満ちた高慢な微笑ではなく、一人の表現者としての、確かな自信に満ちた微笑だった。
「……承知いたしましたわ。私の想像力は、屋敷の広さよりも広大ですの。あなたの想像を絶するような、素晴らしい未来を描き出してみせますわよ!」
一時間後。
イリスは宿屋の入り口に立っていた。
首元には、女将から譲り受けた煤けた茶色のマント。
足元には、汚れ一つない最高級のブーツよりも頼もしい、不格好な豚革のブーツ。
そして脇には、女将を驚かせ、涙ぐませるほどの「輝かしい未来」を描き残したスケッチブック。
イリスは大きく一歩を踏み出した。
石畳を叩くブーツの音は、昨日までの頼りない響きとは違う、重厚で確かなリズムを刻んでいた。
「色彩を失った国、ですわね。……ふふっ、私のスケッチブックに、新しい色が加わるのが楽しみですわ」
冷たい秋風をマントで跳ね返し、泥だらけのお嬢様は、灰色の地平線の向こうへと、再び歩き始めた。




