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『白紙の道標(みちしるべ)を歩く君へ』  作者: 真白しろ


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4/11

冷たい宝石と、不格好な温もり

老婆のスープと黒パンは、確かにイリスの胃袋と心を温めてくれた。

 しかし、日が落ちて急激に冷え込み始めた街の空気は、無情にもそのわずかな熱を容赦なく奪い去っていく。

 市場の喧騒は少しずつ形を変え、あちこちの屋台や建物でオレンジ色の魔石ランプや油獣のランタンが灯り始めていた。立ち上る煙と、強い酒の匂い、そして今日一日の過酷な労働を終えた人々の荒々しいざわめき。

 夜の活気に包まれる街の中で、行き場のないイリスは一人、濡れた石畳の上をひきずるように歩いていた。

「……痛い。痛いですわ……」

 ポツリと漏れた本音は、誰の耳にも届かない。

 屋敷の分厚い絨毯の上を歩くためだけに職人が仕立てた仔牛革のブーツは、雨と泥水を吸って完全に変形していた。踵のヒールはとっくに片方が折れ、一歩踏み出すたびに、水ぶくれが潰れた足の裏を鋭いナイフでえぐられるような激痛が走る。

 夜明けの空色だったドレスは、今や泥と汚水で重くまとわりつく不快な布の塊でしかない。寒さで奥歯がガチガチと鳴り、指先は血の気を失い紫色に変色しつつあった。

(このままでは、本当に……こんな道端で野垂れ死んでしまいますわ)

 霞む視界の中、イリスは薄暗い裏路地に建つ、一軒の古びた木造建築の前で立ち止まった。

 入り口の看板には『酔いどれ猪亭』と荒々しい文字が彫られ、わずかに開いた分厚い木の扉の隙間からは、暖炉のパチパチとはぜる音と、乾燥した薪のいい匂いが漂ってくる。

 中を覗き込むと、カウンターの奥で丸太のように腕の太い女将が、巨大な酒樽を片手で軽々と転がしていた。

 イリスは大きく深呼吸をし、痛む足を引きずりながら、精一杯背筋を伸ばして扉を押し開けた。

「……ごめんあそばせ。一部屋、空いていますかしら?」

 カラン、と煤けたベルが鳴る。女将が手を止め、泥だらけでボロボロの、しかし妙に気位の高そうな少女をまじまじと見下ろした。

「部屋はあるがね、お嬢ちゃん。うちは完全前払い、もちろん『物々交換』だ。そんな泥だらけの服じゃあ、シーツの洗濯代として余分に価値のあるもんをもらわないと、ベッドには寝せられないよ。何を持ってる?」

 女将の目は、あの門番や屋台の主人と同じように、冷徹に「生存のための価値」を値踏みしていた。

 イリスは強く唇を噛んだ。鞄の中のスケッチブックにはまだ余白があるが、この女将が求めているのは似顔絵のような感傷的なものではない。もっと直接的な「実用品」だ。

 イリスは意を決し、壁際の丸椅子にどさりと腰を下ろすと、震える手で泥だらけのブーツの紐を解いた。

 赤く腫れ上がり、血の滲んだ痛々しい素足が冷たい床に触れる。イリスはその両方のブーツを持ち上げ、カウンターの女将の前にドンと置いた。

「……これ、最高級の仔牛革ですのよ。ヒールは折れていますし、泥だらけですけれど……洗って革を切り出せば、丈夫な手袋や小袋がいくつも作れるはずですわ。革の価値くらい、あなたなら分かるでしょう?」

 震える声に、精一杯の貴族としての威厳を込める。

 女将は太い指でブーツをつまみ上げ、匂いを嗅ぎ、革の厚みを確かめるようにグイッと引っ張った。やがて、フンと鼻を鳴らす。

「……まあ、悪くない素材だ。だが、これだけじゃあ一泊三食付きの部屋代と、冷え切った体を温めるための『お湯』の代金には足りないね。お嬢ちゃん、その首に下げてる石っころも置きな」

 女将が顎で示したのは、イリスの胸元で微かに光る、実家から持ち出した小粒のサファイアのネックレスだった。

 宝石そのものに実用価値はないが、立派な銀の台座と細工の細かいチェーンには、溶かして金属として使う道があるのだろう。

 イリスは咄嗟に胸元を手で覆い、躊躇した。それは、彼女が「完璧な世界のお嬢様」であったことの、最後の証明のような気がしたからだ。

「……っ。足元を見るなんて、下品な商売ですこと!」

「嫌なら出ていきな。外の冷たい石畳の上で、その綺麗な石っころを抱いて凍えながら寝るんだね」

 イリスはギリッと奥歯を噛み締めた。

 数秒の沈黙の後、彼女は首からネックレスを引きちぎるように外し、カウンターに叩きつけた。チャリン、と冷たい音が響く。

「……これで文句ありませんわね! 早く、一番温かい部屋と、お湯を用意なさいな!」

「毎度あり。……ああ、そうだお嬢ちゃん。いくらなんでも、血まみれの素足じゃあ二階の部屋まで歩くのも辛かろう。……ほらよ」

 女将がカウンターの下から無造作に放り投げてきたのは、分厚い豚革で作られた、ずんぐりとした不格好な茶色いブーツだった。

 つま先は丸く広がり、優雅さなど微塵もない。農民や下働きの者が土いじりをする時に履くような、実用性一辺倒の安物の靴だ。

「前の客が置いていったボロだがね。あんたのその細い足には少し大きすぎるだろうが、靴擦れはしないよ」

「なっ……! こんな不格好なもの、私が履くとでも思っていて!? 冗談じゃありませんわ!」

 イリスは腕を組み、そっぽを向いて全力で拒絶した。泥だらけとはいえ、数時間前まで最高級のドレスと靴を身につけていたのだ。あんな豚の鼻のような靴に足を入れるくらいなら、裸足のほうがマシだ。

 しかし、床の尋常ではない冷たさは、すでに彼女の我慢の限界を超えていた。

 ほんの数秒の葛藤の後、イリスは屈辱で顔を真っ赤にしながら、その不格好なブーツにそっと足を入れた。

「…………えっ」

 その瞬間、イリスは思わず目を見開いた。

 無骨な見た目とは裏腹に、内側に張られた粗末な羊毛が、冷え切った足をふんわりと優しく包み込んだのだ。横幅が広いため、血の滲んだ水ぶくれにも全く布地が当たらない。底が分厚く作られており、床の冷たさも、石畳の凹凸も、驚くほど何も感じなかった。

(な、なんて……なんて歩きやすいんですの……!)

 見た目の美しさだけを追求した仔牛革のブーツでは絶対に得られなかった、圧倒的な「実用性」と「優しさ」がそこにあった。

「どうだい? 悪くないだろう。二階の突き当たりがアンタの部屋だ。お湯はすぐに運ばせる」

「……ふ、ふんっ。少しだけ、マシなだけですわよ!」

 イリスは顔の赤みを隠すように顔を背けると、不格好なブーツの足音をドスドスと立てながら、逃げるように階段を駆け上がっていった。

 あてがわれた狭い部屋には、質素なベッドと小さな机、そして小さな暖炉があるだけだった。しかし、イリスにとっては屋敷の広大な天蓋付きベッドよりも、今のこの空間が何倍もありがたかった。

 やがて運ばれてきた熱いお湯で全身の泥を洗い流し、重く冷たいシルクのドレスを脱ぎ捨てる。

 暖かい毛布にくるまり、パチパチとはぜる暖炉の火の前に座り込んだイリスの鞄から、ご先祖さまの「古いスケッチブック」がこぼれ落ちた。

 そっと開かれたページには、あの美しい花畑が描かれている。

 イリスは、痛みのおさまった足をさすりながら、その絵をじっと見つめた。

(……ご先祖さまも。こんな風に痛い思いをして、泥だらけになって、プライドを捨てて……この景色を見たのでしょうか)

 窓の外では、夜の街の喧騒が遠くの子守唄のように聞こえている。

 完璧な世界から追放された悲しみと、初めて自分の力で勝ち取った温もりに包まれながら。泥だらけのお嬢様は、不格好なブーツとスケッチブックを胸に抱き、泥のように深い眠りへと落ちていった。

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