漂うスパイスと、不格好な肖像画
重い石造りの門を抜けた先には、イリスの常識をまたしても打ち砕く、暴力的なまでの熱気と喧騒が渦巻いていた。
ぬかるんだ広場には色とりどりの天幕がひしめき合い、人々の怒号のような呼び込みが飛び交っている。あちこちの屋台から立ち上る白煙が雨上がりの空を覆い、じっくりと炙られた獣肉の脂の匂いと、鼻腔を強く打つ未知のスパイスの香りが、容赦なくイリスを包み込んだ。
それは、屋敷の専属シェフが作る、皿の余白すら計算し尽くされた洗練された料理とは違う。生きるためのエネルギーそのもののような、むせ返るほど濃厚な「食」の匂いだった。
「……ふんっ。随分と野蛮で、騒々しい場所ですわね」
イリスはぐぅ、と鳴り止まないお腹を片手で強く押さえつけ、精一杯の虚勢を張って市場の中央へと進んだ。
マントを失った肩に冷たい風が吹き付ける。水を吸った薄手のシルクドレスは氷のように冷たく肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。視界が少しチカチカするのは、極度の空腹と疲労のせいだった。
たまらず、彼女は一番近くにあった一軒の屋台の前で足を止めた。
そこでは、大柄な男が、岩のように硬そうな黒パンにたっぷりの香草と分厚い肉を挟み、豪快に焼き上げていた。ジュウッという音と共に弾ける肉汁の匂いに、イリスの口内にじわっと唾液が広がる。
「そ、そこのあなた。それを一つ、いただこうかしら」
「おう、お嬢ちゃん。……なんだい、えらく上等な服を着てるが、泥まみれじゃないか。交換品は何を持ってる?」
店主の男は、肉をひっくり返す手を休めずに問いかけてくる。
イリスは慣れない手つきで鞄を探り、さっき門番に突き返された『王家の金貨』を、今度は指先でそっと隠すように差し出した。
「これで、どうかしら。……さっきの門番は分からず屋でしたけれど、商人であるあなたなら、この純金の価値が分かるでしょう?」
「あぁ? なんだい、その光る石っころは」
男はイリスの掌を覗き込み、呆れたように鼻で笑った。
「悪いが、そんな飾りにもならない金属で腹は膨れねえよ。うちは今、客の目を引く『美味そうな料理の絵』が描かれた看板か、肉を骨ごと断ち切れるまともな包丁が欲しくてな。それが無いなら他を当たりな」
「えっ……絵? 絵なら、私、得意ですわよ!」
反射的に食いついたイリスだったが、店主は彼女の細く震える指先と、泥だらけの姿を見て、シッシッと手を振った。
「こんな雨の中で震えてるお嬢ちゃんに、美味そうな絵なんて描けるわけねえだろ。ほら、邪魔だ邪魔だ。冷やかしならよそへ行きな」
再びの、無慈悲な拒絶。
イリスはカッと顔を赤くし、沸き上がる屈辱感に震えながら腕を組んだ。
「フンッ! 結構ですわ! あんな下品な食べ物、私の口に合うわけありませんわよ!」
言い捨てて歩き出したものの、強がりで満たせるほど胃袋は単純ではない。
一歩進むごとに体力が削り取られ、ヒールの折れたブーツが足の裏の傷を容赦なくえぐる。ついに限界に達したイリスは、市場の隅にあった、雨よけのひさしがある薄汚れた木箱のベンチにどさりと腰を下ろした。
(……どうして。どうして、こんなにも上手くいきませんの。図書室の本で読んだ英雄たちは、もっとスマートに、優雅に旅をしていましたわ……)
完璧な知識も、絶対の価値を持つはずの金貨も、ここではただの無駄な荷物でしかない。
膝を抱えたイリスの視界が、少しずつ惨めな涙で滲んでいく。
ふと、向かいの景色が目に入った。
ひさしの下で、一人の老婆が色褪せた布を繋ぎ合わせる内職をしながら、寂しげに自分の手元を見つめていた。老婆の傍らには、小さな鉄鍋が置かれている。豪快な肉料理とは違う、野菜の切れ端と塩だけで煮込んだような、ごくごく質素なスープだ。
しかし、その鍋から立ち上る微かな湯気は、今のイリスにとって世界中のどんな宝石よりも美しく、抗い難い魅力を持っていた。
「……ぐぅぅぅ」
本日何度目かもわからない、盛大な腹の虫が鳴る。
その音に気づいた老婆が、しわくちゃの顔を上げてイリスを見た。泥だらけの高級なドレスで、ガタガタと震えながらベンチにうずくまる異様な少女。
老婆はふっと柔らかく、哀れむような微笑みを浮かべると、傍らの木の器に温かいスープを掬い、よろよろと歩み寄ってそれを差し出した。
「お嬢ちゃん、随分と冷えてるねえ。……飲みな。大したものじゃないが、腹の足しにはなるだろうよ」
「……っ! ほ、施しなんて受けませんわよ!」
イリスは反射的に顔を背け、ぷいっとそっぽを向いた。
貴族としての最後の矜持だ。同情で恵んでもらうなど、誇りが許さない。しかし、器から漂う温かな湯気が鼻先をくすぐり、喉がゴクリと鳴ってしまう。
「……ですが。ええ、私にも貴族としての誇りがありますの。タダで頂くわけにはいきませんわ」
イリスは強がりながらもベンチを立ち上がり、老婆の前に進み出た。
鞄を開け、スケッチブックを取り出す。そして、いつも使っている魔法の『銀のペン』ではなく、鉛筆削り用のナイフと共に入っていた、ただの『黒い鉛筆』を握りしめた。
銀のペンで実体化させた宝石や硬貨を渡すこともできた。しかし、数分で消えてしまう幻でこの温かなスープの対価を誤魔化すのは、明確な「詐欺」であり、この老婆に対する最大の侮辱だと思ったからだ。
「あなたの欲しいものを教えてちょうだい。私が、この紙の上に描き出してみせますわ。……少しだけ、絵には自信がありますのよ」
「欲しいもの、ねえ……」
老婆は困ったように笑い、遠くの灰色の空を見つめた。
「金もご馳走もいらないよ。ただねえ……十年前に死んだ爺さんの顔が、最近どうもぼやけちまってね。笑った顔が優しかったことだけは覚えてるんだが……もう一度、あの人に会いたいねえ」
イリスは息を呑んだ。
目の前にいない対象を、他人の曖昧な記憶だけを頼りに描く。それは、図書室の百科事典や静物画を「完璧なプロポーションで模写」してきた彼女にとって、最も苦手で、最も「不正確な」描き方だった。
(でも……描かなければ。この人の喪失感を、私が埋めなければ、このスープに見合う価値は生み出せない!)
「……どんなお顔立ちだったの? 輪郭は? 目の形は?」
「そうだねえ。目尻には深いシワがあって、笑うと目が線みたいになっちまってね。鼻は少し低くて、いつも少しだけ口角が上がっていて……」
老婆のぽつりぽつりとした語り口に耳を傾けながら、イリスは真っ白なページに鉛筆を走らせた。
手は寒さで小刻みに震え、まっすぐな線が引けない。骨格の比率も、陰影のつけ方も、屋敷の美術教師が見たら「落第」の烙印を押すような不出来な線だ。
しかし、イリスは老婆の声色に混じる「愛おしさ」の温度を、必死に線に落とし込もうとした。定規で引いたような冷たい図鑑の絵ではなく、今目の前にあるスープの湯気のように、温かく、柔らかい線を。
カリカリ、カリカリと、市場の喧騒の中で鉛筆の音だけが響く。
「……できましたわ」
やがてイリスは、スケッチブックからその一枚を丁寧に切り離し、老婆の手の中にそっと滑らせた。
紙を受け取った老婆の目が、大きく見開かれる。
そこに描かれていたのは、正確無比な肖像画ではなかったかもしれない。線の太さはまばらで、少し歪みすらある。しかし、目尻を下げて優しく微笑むその老人の表情は、老婆の心の中にずっと残り続けていた「一番大好きな夫の顔」そのものだった。
「ああ……お前さん、こんなところで何をしてるんだい……」
老婆のしわがれた目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
彼女は震える手でその絵を大切に胸に抱きしめると、もう片方の手で、イリスの氷のように冷え切った両手をぎゅっと握りしめた。
「ありがとう、ありがとうねえ。お嬢ちゃん、これは私の宝物だ。……さあ、スープだけじゃ足りないだろう。これもお食べ」
老婆は木の器のスープと一緒に、布に包まれていた貴重な黒パンの欠片をイリスの手に持たせた。
「……っ」
木の実と野菜の端材の旨味が溶け込んだ、熱いスープを一口飲んだ瞬間。
そして、顎が痛くなるほど固いけれど、噛み締めるほどに素朴な甘みが広がる黒パンを頬張った瞬間。
イリスの大きな瞳から、堪えきれずにボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「ひぐっ……うぅ……っ」
泥にまみれた顔で、ぽろぽろと泣きながら、決して上品とは言えない勢いで食事をかきこむ。
絶対の価値だと思っていた王家の金貨は、ここでは何の役にも立たなかった。
けれど今、不格好に震える手で描いた一枚の絵が、誰かの心を温め、そして彼女自身の命を繋いだのだ。
「……ふふっ。美味しいですわ。とても、美味しいですわ……!」
雨上がりの冷たい風が吹く市場の片隅で。
世間知らずの箱入りお嬢様は、世界で一番温かい対価を胃袋と胸に流し込み、一人の逞しい「旅の絵描き」としての第一歩を、力強く踏み出したのだった。




