価値の証明と、奪われた温もり
天を衝くほど巨大な石造りの門を見上げながら、イリスは泥だらけになったドレスの裾を指先で軽く払い、できる限り気高い足取りで検問所へと歩み寄った。
「止まれ。入国審査だ」
無感動な声で道を塞いだのは、分厚い帳簿と羽ペンを持った大柄な門番だった。
無精髭を生やしたその男は、泥まみれの高級ドレスという奇妙な出で立ちの少女を見ても、驚きも嘲りもしなかった。ただ、毎日何百人もの有象無象をさばいているだけの、ひどく事務的で冷めきった瞳がそこにあるだけだった。
「身分を証明するものと、規定の『入国税』を納めよ。当街は完全物々交換制を採用している。実用価値のある品を提示しろ」
「……身分証はありませんわ。ですが、税ならこれで十分でしょう? お釣りは結構ですわよ」
イリスは自信満々に微笑み、革の鞄の奥からピカピカに輝く『王家の金貨』を一枚取り出した。
実家の屋敷の教師からは、これ一枚で平民の家族が数年は遊んで暮らせると教えられてきた。緻密な王家の紋章が刻まれた、絶対的な富と価値の結晶だ。
しかし、門番は帳簿から目を離さず、イリスの指先で光るそれをチラリと一瞥しただけで、淡々と告げた。
「……却下だ。当街の『実用価値基準法』第3条に照らし合わせ、価値ゼロと判定する」
「は……? む、無価値!? ちょっと、よく見てご覧なさいな! 王家の刻印が入った純金ですわよ!?」
「だからどうした。食えるのか、それは」
冷徹な声に、イリスは息を詰まらせた。
「柔らかすぎて農具にも武器にもならない。燃やして暖を取るための薪の代わりにもならない。ただ光るだけの石ころに、この街での価値はない。……次」
門番はシッシッと野良犬を追い払うように手を振り、イリスを列から退けようとする。
「お、お待ちになって! じゃあどうすれば……っ、私、どうしてもこの街に入りたいんですの!」
「ルールはルールだ。実用的な品を出せないなら、森へ帰れ」
冷たく言い放つ門番の言葉には、一切の同情が含まれていなかった。
「貴族のお嬢様」という見えない肩書きも、世界中どこでも通用するはずだった黄金の輝きも、この男の前では本当に「ただのゴミ」なのだ。
その事実を悟った瞬間、イリスの足元からガラガラと常識が崩れ去っていく音がした。雨に濡れた体が、恐怖と寒さでガタガタと震え始める。森へ帰れば、今度こそ凍え死んでしまう。
「あ……あの……」
「……チッ。仕方ないな」
舌打ちをした門番は、イリスを頭の先から泥だらけの爪先まで事務的な目でなめ回し、ため息まじりに羽ペンで彼女の肩を指した。
「お前が羽織っているその防寒用のマント。泥だらけだが、生地は分厚くて質が良い。ほどいて布や糸にすれば、なんとか入国税の基準を満たすだろう。それを置いていくなら、木札を発行してやる」
「えっ……? こ、これを、ですか!?」
イリスは咄嗟に自分の両腕を抱きしめた。
雨と寒さを防いでくれている、唯一の命綱だ。これを脱げば、下は冷たい雨水を吸って張り付いた薄手のシルクドレス一枚になってしまう。
「嫌ならいい。後ろがつかえている。どけ」
「っ……! わ、わかりましたわ! 差し上げます、差し上げますから……!」
イリスは屈辱に唇を噛み締めながら、震える手で首元の銀の留め具を外し、マントを脱いだ。途端に、容赦のない冷気が全身を鋭く突き刺す。
彼女はマントを門番のデスクに叩きつけるように置いた。
門番はそれを無造作にひったくると、代わりにささくれ立った粗末な木札の『入国証』をポンと投げ渡した。
「よし、通れ。街の中での取引もすべて物々交換だ。無価値な金属を出して詐欺で捕まらないようにな」
重い鉄格子が、腹の底に響くような低い音を立てて開く。
イリスは木札を握りしめ、ふらつく足取りで門をくぐった。吹き抜ける街の風が、マントを失った華奢な体を氷のように冷やしていく。
(……なんて、なんて理不尽な街なんですの!)
王家の金貨より、一枚の布切れ。
絶対だと思っていた「価値」の概念が根底から覆された衝撃と、歯の根が合わないほどの猛烈な寒さに震えながら、箱入りお嬢様の初めての街歩きが幕を開けた。




