美しき非効率と、油塗れの職人
「……面白いね。そんな『熱い』線を描く旅人を、門の前で追い返すなんて、この街の歯車もいよいよ錆びついてきたかな」
油の匂いを漂わせたその男は、頭に乗せた分厚いゴーグルをずり上げながら、ゆっくりとイリスの隣に立った。
煤で汚れた作業着に、背中には彼自身の身長ほどもある巨大なスパナを背負っている。無骨な鉄の街にあって、彼の瞳だけは、機械にはない人間らしい好奇心と熱を帯びていた。
「なんだ、バルトか。職人階級の者が、検問に何の用だ」
時計仕掛けの衛兵が、ガチャリと首を回して男——バルトを見た。
バルトは衛兵の言葉を無視して、イリスの手からスッとスケッチブックのページを抜き取った。
「ちょっと! 気安く触らないでちょうだい!」
「まあ待てって。……ふむ。誤差2.4パーセント、ねえ」
バルトは、イリスが描いた衛兵のデッサンをまじまじと見つめた。
かつてのイリスなら、定規で引いたように完璧な直線で装甲を描き出していただろう。しかし、今の彼女が描いた線は、衛兵の冷たい金属の質感を捉えつつも、どこか柔らかく、わずかに震えていた。
「お前らポンコツの目には、これが『劣化した不正確な線』に見えるのか。だからダメなんだよ」
バルトは呆れたようにため息をつき、衛兵の胸の装甲をコンコンと叩いた。
「機械が直線を引けるのは当たり前だ。A点からB点までの最短距離しか知らないからな。だが、このお嬢さんの線は違う。お前さんの装甲の重さ、冷たさ、そして……この街の入り口で立ち尽くすお前さんの『孤独』まで感じ取って、手が震えちまってるんだ」
「理解不能。感情の介在は、描写の正確性を損なうノイズに過ぎない」
「そのノイズこそが、機械には決して描けない『美しき非効率』ってやつさ。……おい、衛兵。このお嬢さんの入国保証人は俺がなる。この『非効率で最高の絵』を、俺が買い取るからな」
バルトが首から下げていた職人の金属証を機械の読み取り機にかざすと、衛兵の目が青く点滅し、「保証人・承認。入国を許可する」と無機質な声を上げた。
重厚な鋼鉄の門が、重々しい蒸気を吐き出しながらゆっくりと開いていく。
「……フンッ。助けてくれなんて、一言も頼んでいませんわよ」
イリスは腕を組み、そっぽを向いた。
しかし、彼女の青い瞳は安堵に揺れ、穴の開いた右足をこっそりと左足の後ろに隠していた。
「ハハッ、素直じゃないねえ。……さあ、入りな。この街の地面は全部『鉄』だ。穴の開いた靴底じゃあ、五分で足の指が凍傷になっちまうぜ」
「なっ……! み、見ていたんですの!?」
「足音を聞けば分かる。お嬢さん、あんたのその不格好なブーツ、随分と良い『旅』をしてきたツラ構えをしてるじゃないか。俺の工房で、少し手入れをしてやろう」
顔を真っ赤にして怒るイリスをよそに、バルトは朗らかに笑い、蒸気と歯車が支配する街の奥へと彼女を案内した。
バルトの工房は、街のメインストリートから少し外れた路地裏にあった。
壁一面に大小様々な歯車や工具が掛けられ、中央の巨大な暖炉では赤々と火が熾っている。鉄の冷たさばかりが目立つこの街で、ここだけは異様なほどの熱気と温もりに満ちていた。
「そこに座りな。ブーツを脱いでみなさい」
イリスは促されるままに木の椅子に腰掛け、恥ずかしそうにブーツを脱いだ。
アイリエの千の石段を登り切り、荒野を歩き抜いた豚革のブーツ。その右の踵は見事にすり減り、パックリと穴が開いてしまっている。
「……笑いたければ笑いなさいな。もとはと言えば、あんな下品な宿の女将に押し付けられた、不格好な安物ですわ。でも……っ」
イリスは、言い訳をするように早口でまくしたてた後、少しだけ声を震わせた。
「でも、この靴は、私の足を一度だって傷つけませんでしたわ。どんなに泥だらけになっても、私をここまで運んでくれた……大切な、靴ですの」
それは、実家の温室にいた頃の「新品で完璧なものしか愛せないお嬢様」からは、決して出ない言葉だった。
バルトは優しく微笑み、その泥だらけのブーツを両手で大切に受け取った。
「笑うもんか。俺は職人だぜ? 持ち主の命を守り抜いて、ここまでボロボロになった道具ほど、美しいものはない。……ちょっと待ってな。この街を歩くのに最高の『足回り』にしてやる」
バルトはブーツを持って作業台に向かうと、慣れた手つきで道具を操り始めた。
カンッ、カンッという小気味良い金槌の音が工房に響く。
イリスは暖炉の火で冷え切った足を温めながら、バルトの背中を見つめ、そして鞄の中のスケッチブックにそっと触れた。
(……私の線は、劣化してしまったわけではなかった)
衛兵に否定され、心が折れかけていた彼女の「揺らぎのある線」。
それを「美しき非効率」だと肯定してくれたバルトの言葉が、胸の奥でじんわりと温かく反響していた。完璧な模写から卒業し、対象の温度や感情を描き出す「自分の絵」を手に入れつつあるのだと、彼女は静かな自信を取り戻していた。
「よし、できたぜ。履いてみな」
振り返ったバルトが、修理の終わったブーツをイリスの足元に置いた。
見た目のずんぐりとした不格好さはそのままだった。しかし、すり減っていた靴底には、分厚く頑丈な『特殊な硬質ゴムと鋼鉄を織り交ぜたギア(歯車)パターンのソール』がしっかりと打ち込まれていた。
さらに、泥でガサガサになっていた豚革の表面には、特製のオイルがたっぷりと塗り込まれ、鈍く美しい艶を取り戻している。
「……っ!」
イリスが足を入れると、かつての柔らかさはそのままに、靴底から伝わる圧倒的な「安定感」が足裏を包み込んだ。
立ち上がり、工房の鉄の床を踏みしめてみる。
カツン、という小気味良い音が鳴る。穴から入り込んでいた冷気は完全にシャットアウトされ、どれほど歩いても絶対にすり減らないような強靭さが備わっていた。
「どうだ? 見た目はさらにゴツくなっちまったが、これならこの街の鉄の地面でも滑らないし、寒さも防げる」
「……フンッ。相変わらず、優雅さの欠片もありませんわね」
イリスはわざとらしく鼻を鳴らして腕を組んだ。
しかし、その顔は嬉しさを隠しきれずに綻んでおり、足元で何度も小さくステップを踏んでいる。
「でも……悪くありませんわ。私の『美しき非効率』な絵を認めた審美眼に免じて、最高の仕事だったと褒めてあげますわよ」
「そいつは光栄だね、お嬢さん」
バルトは破顔し、壁に立てかけてあった自分のスパナを背負い直した。
「さあ、足回りが整ったなら、このギアハイムを見て回るといい。冷たい鉄ばかりの街だが、あんたのその『揺らぐ線』なら、きっと面白い景色が描けるはずだ」
イリスは深く頷き、新しく生まれ変わった相棒と共に、工房の扉を押し開けた。
カツン、カツンと、鋼の靴底が鉄の街に誇り高い音を響かせる。
完璧だったお嬢様は、また一つ不格好で美しい「旅人の装備」を手に入れ、蒸気と歯車の迷宮へと胸を張って歩き出した。




